1 江戸時代を概観 1598年(慶長3)秀吉の没後、豊臣政権は諸大名の連合政権であったことから有力大名が覇を争い、家康の力が一人、諸大名を威圧するようになった。 しかし、豊臣家を押し立てていこうとする勢力は家康に靡かず、彼らは連合して家康に対抗した。 かくて1600年(慶長5)天下分け目の戦、関ヶ原の役となった。勝敗は一日で決し東軍の大勝となった。 その後、家康は西軍の諸将を処分し、秀吉に仕えていた諸大名も以後悉く支配下に置かれた。 豊臣家は摂津・河内・和泉にわたる60万石の一大名に格下げされ、14年後の1614年(慶長19)大阪冬の陣及び翌年の大阪夏の陣によって滅亡、家康の覇権は完成した。 家康は1603年(慶長8)征夷大将軍に任ぜられ、武家の棟梁となり全国をその支配下におさめ、再び揺るぎない封建国家機構をつくり上げた。 家康の江戸幕府は、土地と人民を完全に一元的支配の下においた大規模な武家領である藩を背景に、 強力な中央集権的封建機構、すなわち幕藩体制を確立したところに特色がある。江戸幕府は 広大な直轄領を支配するとともに、重要な都市を直轄、また主要鉱山を直営して一大勢力を確立した。
2 江戸幕府の成立と経済的基礎 前述のとおり1600年、家康が関ヶ原の役に大勝して政権を握ってからは、直轄地領は急増し、最も盛んだった元禄時代は、その極限に達した。 重要地はほとんど直轄領に組み込まれ総計680万石。当時、全国総石高3700万石の22%強を占めた。 このうち約420万石が幕府の直接収入となる蔵入地で、約200万石が幕府の直属武士である旗本の領地であった。 蔵入地は関東地方150万石、関東以外の旧領地、三河、駿河、遠江、甲斐、信濃等に約50万石、近畿に約50万石、その他全国各地に散在していた。 この他に大阪、京都、伏見、奈良、駿府、長崎、堺、山田など重要都市を直轄領とし、佐渡(相川)、石見(大森)、伊豆(土肥)など主要な鉱山を直営とした。 この他、更に多種多額の付加税、国役金、貨幣鋳造権の利益、諸侯からの献金、町人へ課した 御用金、冥加金等の莫大な収入並びに独占外国貿易の利益もあり、経済的基礎は極めて確固としたものであった。 3 江戸時代の鉱山関連の記事
4 鉱山の開発状況 鉱山経営は、幕府並びに藩財政に極めて有利であったので発見と採掘に尽力した。主要な鉱山は直轄経営とし、 諸侯や豪商の中には資本を投じて経営する者が現れた。こうして多くの鉱山が開発されたが、主要な鉱山を次に列挙した。 ◆江戸前期の主要鉱山 ▽佐渡(相川)金山(新潟県佐渡市) 1601年(慶長6)に北山(金北山)で金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。 江戸時代初期、慶長から寛永年間にかけての最盛期には金が1年間に400㎏、銀が40㌧以上採掘され、当時としては世界最大級の金山であり、 産銀でも日本有数のものとして江戸幕府の慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。 中でも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営し、大量の金銀を産出した佐渡鉱山の中心であった。 産出し製錬された筋金及び灰吹銀は幕府に上納され、これを金座及び銀座が預かり貨幣に鋳造した。 また特に銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出され、佐渡産出の灰吹銀はセダ銀とも呼ばれた。 ▽院内銀山(秋田県湯沢市) 秋田県雄勝郡院内町(現在の湯沢市)にあった鉱山である。1606年(慶長11)に発見、金及び銀を産出し、 江戸時代を通じて日本最大の銀山であった。久保田藩(秋田藩)によって管理され、藩財政を支える重要な鉱山となった。 江戸中期に鉱脈が枯渇し一時衰退の兆しを見せたが、1800年以降新鉱脈が発見されて持ち直し、鉱山の最盛期には戸数4,000、 人口15,000を擁し、城下町久保田(現在の秋田市)を凌駕する藩内で最も大きな町となり繁栄を誇った。 他の主要鉱山が幕府直轄地であったのに対し、院内・阿仁の両鉱山を有し、ともに藩営とした久保田藩は森林資源と鉱山資源で潤ったといわれる。 ▽伊豆(土肥【とい】縄地など)金銀山(静岡県田方郡土肥町ほか) 1577年(天正1)伊豆を領した北条家が土肥の大横谷、日向洞楠山、柿山、鍛冶山等を開発し、この頃から土肥の金山が本格的に採掘された。 1601年(慶長6)家康が伊豆の金山を直轄地として、三島代官・彦坂小刑部元成に管理させ開発に力を注いだ。 1606年(慶長11)幕府金山奉行の大久保石見守長安に伊豆金山奉行を兼ねさせ、採掘方法、水抜方法等の新技術を導入し 産金量を増大させたので土肥金山は隆盛し、街には人家が軒を並べ土肥千軒と称せられた。その他、この頃、縄地銀山(下田市河津町)も盛況を呈したという。 ▽石見(大森)銀山(島根県太田市大森) 関ヶ原の役に勝利した家康は、1600年(慶長5)11月石見銀山接収のために大久保長安と彦坂元正を派遣し、 石見の江の川以東を中心とする地域(石見銀山の所在地、邇摩郡大森を中心に安濃郡、邑智郡、那賀郡の4郡146ヵ村と 美濃郡・鹿足郡で6ヵ村の飛地)を幕府直轄領(天領)とし、翌1601年(慶長6)8月初代銀山奉行として大久保長安を任命した。 また、銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため、周辺郷村には直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置された。 長安は山師安原伝兵衛らを使って開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め朱印船貿易の元手にもなった。 1602年(慶長7)安原伝兵衛が釜屋間歩を発見、産出銀を家康に献上すると、家康は大いに喜び、伝兵衛に「備中」の名と身に着けていた辻ヶ花染胴服を与えた。 伝兵衛の釜屋間歩の発見などにより17世紀初頭(慶長~寛永年間)に銀の産出はピークに達し、1602年(慶長7)の運上銀は4~5千貫に達したという。 ▽梅ヶ島金山(静岡県静岡市葵区) 駿河国安倍郡内で採掘されていた金山であるが、梅ヶ島金山は梅ヶ島村の日影沢金山、関之沢金山及び 入島村の湯ノ森金山などの総称であり、井川村の笹山金山を中心とする井川金山を含めて安倍金山と呼ばれていた。 梅ヶ島は徳川氏の天領となり、1601年(慶長6)頃から積極的に金鉱開発が始まった。産出金は駿府の小判座(金座)で慶長小判に鋳造され、 1612年(慶長17)に駿府金座が銀座とともに江戸へ移転した後も、棹金は江戸へ送られ小判の材料とされた。 慶長・元和年間頃まで盛況を呈したが、その後衰退し金山は幕府直轄から村請に変更された。 1684年(貞享1)に駿府町人桑名屋六郎兵衛らが代官を通じて5年限りの条件で勘定奉行の許可を得て、 日影沢金山を再開発して隆盛を取り戻し金6000両余を運上したが、1686年(貞享3)には産出金も少なくなり荷分山となった。 ▽生野銀山(兵庫県朝来市生野町) 1600(慶長5)年家康は、但馬金銀山奉行を配置し生野銀山を天領とした。同銀山は徳川幕府の財政を支え、 1716(享保1)年には「生野代官所」が置かれ、やがて第8代将軍吉宗の頃に最盛期を迎え、月産150貫の銀を産出した。 ▽半田銀山(福島県伊達郡桑折町・国見町) 石見銀山(島根県)、生野銀山(兵庫県)と並んで日本三大銀山に数えられる国内屈指の銀山であった。 1598年(慶長3)米沢藩上杉景勝が本格的に開発し、1598-1660年(慶長・万治年間)に隆盛した。 1786(天明6)年鉱量が枯渇し、新鉱脈が発見できなかったため幕府から閉山を命じられた。しかし、1810(文化7)年良鉱が発見され再開された。 ▽延沢銀山(山形県尾花沢市銀山温泉) 1596-1614年(慶長年間)に最上氏の家臣延沢氏が5人の山師に命じ開発したという。1622(元和8)年山形城主鳥居忠政支配の頃、銀の採掘が絶頂期となり、 1634(寛永11)年には幕府直轄の鉱山として栄え、人口が2万人に達したと伝える。しかし、1647(正保4)年から産銀が年々減少し衰退していった。1689(元禄2)年大崩落が発生し廃山となった。 ▽足尾銅山(栃木県日光市足尾地区) 1610(慶長15)年百姓二人が鉱床を発見、幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始された。 幕府は足尾に鋳銭座を設け銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」と云われるほど発展し、当時代表的な通貨、寛永通宝が鋳造されたこともあった。 ピーク時は年間1,200㌧の銅を産出した。その後一時採量が極度に減少し、幕末から明治初期に、ほぼ閉山状態になった。 1610年ー1759年の間に121,794㌧の銅を産出した。150年間に平均年約812㌧を生産したのである。 ▽山ヶ野金山(鹿児島県霧島市・さつま町境界付近) 1640年(寛永17)に発見され、一時期は佐渡金山を凌ぐ日本最大の産金量を誇ったが、1965年(昭和40)閉山した。 永野金山或は長野金山とも呼ばれる。後に金鉱脈の位置が長野村ではなく、横川郷上之村山ヶ野(現在の霧島市横川町山ヶ野)であることが分かったため山ヶ野金山と呼ばれるようになった。 初期の採掘は露天掘りであった。金山の周辺を柵で囲い、東西に番所を設け出入りする人々を検分したという。 瞬く間に2万人余りの作業者が集まり、150ヵ所の採掘地と15ヵ所の選鉱所が作られ、金の産出が始められた。 採掘開始から1年を待たずに幕府から採掘中止を命じられた、理由は表向き寛永の大飢饉への配慮とされたが、 実際は産金量の多さに驚いた幕府が薩摩藩の強大化を警戒したためという見方がある。 採掘中止の命令は1656年(明暦2)まで続いたが、この間も秘密裏に採掘を継続していた記録が残されている。 正式に採掘が再開されると金山は再び活気を取り戻し、金山周辺には約1万2千人の人々が集まり、作業者の住居や商店が建ち並び、町がいくつも形成された。 やがて表層部の金鉱石が採り尽くされると、地面を深く掘削する方法に切り替わっていった。 1751年~1829年(宝暦~文政年間)には佐渡金山を上回る産金量を誇っていた。金山は薩摩藩にとって重要な資金源の一つとなり、 借金返済や幕府役人への心づけ、天降川下流部の流路変更、新田開発工事などに利用された。 ▽阿仁銅山(秋田県秋田市) 1670年(寛文10)に極印沢で開坑されたという。1701年(元禄14)に秋田藩(久保田藩)が直営化し、 1708年(宝永5)の銅・鉛を合わせた産出高は360万斤に上った。17世紀後半から18世紀初頭に繁栄期を迎えた。 1716年(享保元)には産銅日本一となり、長崎輸出銅の主要部分を占めた。明治初年に官営鉱山となったが、 1885年(明治18)古河市兵衛に払い下げられた。1978年(昭和53)に閉山された。 ▽別子銅山(愛媛県新居浜市) 1690年(元禄3)に発見、翌1691年住友(泉屋)によって採掘が開始された。1691年~1867年の間に98,341㌧の銅を産出した。 江戸時代の最大生産年は1698年の銅1,521㌧であり、177年間に平均年約558㌧を生産した。 前記足尾銅山と合わせた生産ピークは1702年~1714年間頃であり、年平均2,831㌧の銅を生産した。 両鉱山とも開山後、数十年で最盛期を超え、技術的問題から生産が衰微していった。回復・再生するのは、明治時代後半以後の技術・設備の近代化後である。 ◆鉱山開発に活躍した大久保長安 江戸初期、幕府代官頭のうち大久保長安は農政に敏腕を発揮しただけでなく、鉱山開発にも大きな成果を上げ家康の絶大な信頼を獲得した。 家康の金銀に対する執着は秀吉以上であり、金銀財宝の蓄積に努めたが、それにはそれなりの理由があった。 当時、農民の年貢がまだ幕府の主要な財源の地位を占めていなかった段階では、覇権を維持するために 豊臣氏や諸大名をはるかに凌ぐ金銀量を確保しなければならないという決意にかられたものであろう。 その家康の熱望を満たすのに長安は他にいない適任者であった。長安の手にかかると石見、佐渡の既成銀山の年産額は 1万貫以上に激増し、新開発の伊豆の土肥などの金銀山からも多くを産出し、家康を狂喜させた。 家康はこうして蓄積した金銀を軍費や貿易の支払いにあてたほか金銀貨の発行にあて通貨の統一を図った。 多種多様な金銀貨を整理して、幕府発行の慶長大判、小判、一分金や丁銀、小粒銀を全国的に流通させようとしたものであり、 銭貨についても幕府発行の寛永通宝がその役割を担った。 ◆越前・若狭の鉱山開発状況
近世初期稼行したと思われる越前・若狭の鉱山をみるが、記録に乏しく詳細不明である。これから見てほとんどが短期間の稼働で閉山したものと推測される。 5 貨幣制度の確立 1600年(慶長5)関ヶ原の役に勝利した家康は、翌1601年(慶長6)統一的な貨幣制度の樹立を目指し金貨、銀貨を発行した。 金貨は大判、小判、一分金、銀貨は丁銀と豆板銀(小粒銀)である。銅銭の公鋳は35年後の1636年(寛永13)になったが、 この金銀貨の発行によって長らく中国銭貨に頼って混乱していた貨幣事情が整備されてきた。
金貨は三種類あった。 ○大判は10両=44匁(約165㌘)の重さの大型金貨。 金の含有量約67%の品位で表面に重さが表示され、製作に当たった後藤家が墨で書き入れた。大判は日常取引で使われる通貨ではなく贈答、賞賜用の特別な貨幣であった。 ○小判と一分金=通貨として作られたもの。 小判は小判形の金貨で1枚が一両=約18㌘の重さ、約86%の金を含む良質な金貨であり、表面に「一両」の刻印が打たれ、 計数貨幣として通用した。一分金は一両を四分割した重さと品質を持った少額貨幣である。 大判の「両」は重量単位としての両だが、小判の「両」は通貨の計数単位である。小判10枚=10両の方が 金の量では大判1枚より多く、大判は普通、小判7両程度と引き換えられた。 大判は金を秤にかけて重さで使う伝統からきており、小判はあくまで計数金貨とする発想で作られている。 一分金は小判の完全な分身で、すべて刻印打ち額面などが表示されている。 次に銀貨は二種類あった。 ○丁銀=銀貨の主体であり、秤って使う秤量貨幣(しょうりょうかへい)である。これは銀の地金がそのまま貨幣化したもで、慶長の制度では約80%の銀を含んでいた。 慶長以前の丁銀は、必要な目方に合わせ切って使うことがあったが、慶長の制度では切使いは禁止され、代わりに大小不同の豆板銀が作られ併用された。 このように金貨、銀貨は慶長年間に整備されたが、銅貨の公鋳は約35年遅れた。幕府公許の下で銅銭が発行されたのは1636年(寛永13)のことで、寛永通宝である。 中世後期以降、銅銭はもはや価値基準ではなくなり、銅銭による統一的な価値体系は崩壊した。 様々な質を異にする銅銭が、いわば小銭として庶民の生活の中で使われるようになったのである。 政権をとった徳川氏にとって、新しい価値基準としての金貨、銀貨の方が重要であり、庶民の貨幣となった銅銭に対する施策は後回しになった。 寛永通宝は寛永年間(1624-1644)だけでなく、江戸時代を通じて長く鋳造され続けたが、これが経済の主役になることは二度と起きなかった。 6 海外貿易の保護拡充策 室町時代の勘合貿易は大内氏の滅亡後廃絶したが、秀吉の朱印船制度による貿易奨励や家康の保護拡充政策によって、一層海外進出を盛んにした。 元和偃武(げんなえんぶ=1615-1624大坂夏の陣以後、世の中が太平になったこと)によって、商工業の発展は目覚ましく、 諸大名は海外渡来品に対する需要が著しく高まったことで日本商人の航海熱が煽られた。 しかし、その渡航先は中国(明)が特に厳しく鎖国を継続していたため、中国以外の地域へ行き、中国商品を購入する方法しかなかった。 すなわち琉球、台湾、安南、ルソン、シャム等において、いわゆる出合貿易が行われた。 日本商人は、このような各地で中国(明)の貿易商人、南洋諸国民から中国商品を購入した。 日本船の舶載品は南洋産物の他に多量の中国産絹布と生糸があり、南洋産物中でも中国生糸、絹布の代用品である東京(トンキン)、安南の黄絹、ペルシャの生糸、 ペルシャ・インドの綿布などが多く、極端にいえば南洋各地の貿易港は、このような商品が取引される場所にすぎないので、このような貿易を出合貿易と云った。 ◆御朱印船貿易 幕府が下付した朱印の渡船免状は、1604年(慶長9)から1635年(寛永12)の32年間で300通を超え、 その中でも1604(慶長9)年から1616年(元和2)のわずか13年間に183通に及ぶ盛況ぶりである。 その渡航地は信州(中国南岸)、高砂(台湾)、ビャウ(澎湖島)、安南、東京、ソンハ(順化)、占城(ちゃんば)、カンボジア、シャム、パタニ、マラッカ、ルソン、ビサヤ、モルッカ、 ブルネイ等で朱印状の多く発せられたものは総計183通中、安南56通、シャム35通、ルソン30通、カンボジア23通などであった。 朱印船の船主は島津、有馬、松浦、五島、鍋島、亀井、加藤、細川等の九州大名、角倉了以・与一父子、茶屋四郎次郎、末吉孫左衛門、 伊丹宗味、亀屋栄仁、荒木宗太郎、西宗真、舟本弥七郎等の豪商、その他在留外人ウイリアム・アダムス(三浦按針)、オランダ人ヤンヨーステン等がいた。
◆貿易品 ▽輸出品 銀、銅、鉄、薬缶、諸道具、扇子、傘、蒔絵、硫黄等 ▽輸入品 生糸、絹織物、羅紗、猩々緋(しょうじょうひ=深紅色に染めた毛織物)、綿布等の織物、鹿皮、鮫皮、南洋特産品=肉桂(にっけい・健胃剤、香料用など)、沈香、黒砂糖、胡椒、 伽羅、象牙、水牛角、孔雀尾、籐(とう)、龍脳(りゅうのう=常緑のきょう木)、白檀(びゃくだん=常緑小高木)等が主なものであった。 ◆貿易額 当時、銀をもって交易され、一船最低銀130貫、多いものは1000貫以上のものあり、平均480貫位であった。 7 キリシタン厳禁と鎖国・制限貿易 家康の外交方針は平和通商政策をとり、渡来外国人を特別優遇し治外法権を認め、外国貿易船には貿易保護、貿易地無制限、 関税免除等最大限の自由貿易制をとり、日本人の海外渡航者には朱印船制度を確立して、その保護に努めた。 したがって、三代将軍家光が鎖国を断行するまで西欧諸外国人の来航、南洋諸国との通商並びに日本人の海外渡航者が激増し、史上最高の海外発展時代を現出した。 一方、家康は前代と同じ宗教と貿易の分離政策をとり、宗教を随伴しないイギリス、オランダ商船を歓迎した。 当時、キリスト教が広く国内に伝播し、その説く教義は封建武士の倫理観と矛盾するところがあった。 イギリス、オランダ人はポルトガル、イスパニア人が領土的野心を持っていることなどしきりに申し立てたので、家康は次第にキリシタン禁止に傾いた。 1612年(慶長17)遂に京都、大坂、江戸、駿府、長崎、島原等直轄領のキリシタン教会堂を破壊、 伝道を禁止し、宣教師を国外に追放、信者に改宗を命じ、改宗しない者は焚刑に処した。 1616年(元和2)8月、秀忠はキリシタン禁令を出し、中国商船以外のすべての外国船は長崎と平戸にだけ寄港を許すこととし宣教師を厳しく取り締まった。 三代将軍家光は1624年(寛永元)、沿海諸侯に命じて教徒来航を警戒させ、国内教徒を捕えて刑に処した。 1626年(寛永3)長崎奉行水野守信はキリシタン禁止を一層厳しく取り締まり、1629年(寛永6)から踏絵を行った。 1633年(寛永10)には奉書船以外の渡航を禁じ、海外在住日本人の帰国者を死罪とした。それでも宣教師の密入国が絶えなかったため、 ポルトガル人を長崎出島に禁足し、1636年(寛永13)には日本船の海外渡航を一切禁止し、かつ海外移住日本人の帰国も厳禁とされた。 1637年(寛永14)島原の乱発生後、ポルトガル人を追放、ポルトガル船の来航を禁止した。1639年(寛永16)最後の鎖国令が発令された。 それはポルトガル船の渡航禁止、諸大名の中国船、オランダ船の監視処置を命じたもので、この鎖国令によってポルトガル人は来航できず、 日本人は渡航・帰国を一切厳禁された。ただ、中国、オランダ船だけが長崎だけで制限貿易を許可された。 キリシタン厳禁と鎖国は、一面で中国・オランダ船の来航を許し、その貿易を一切幕府が独占・支配したので、外国貿易による九州諸大名の富強化を防ぎ、 封建支配を確立する政治的施策を実践した、つまり鎖国によって思想と経済の両面統制を実行したといえる。 この結果、幕府の支配体制は強固なものとなり、約3世紀にわたる史上稀な平和時代が到来し、国内文化は爛熟し、 国内産業は外国製品の圧迫から保護される利点もあったが、前代以来、急速に進展した海外発展の気風と実績は失われ、 進取発展の活動性が去勢されて退嬰的消極的となり、芽生え始めていた市民社会も委縮してしまった。 また、国内産業も一定の限度で停滞し、人口問題も間引きなどみじめな現象を招来した。 文化も海外の清新な刺激に乏しく、徒に形式化して固定的な平板さに終始する数々の弊害をもたらした。 8 金工職人と刀鍛冶・鋳物業 刀剣の需要が衰退した反面、鐔(つば)、小柄(こづか)、目貫(めぬき)、笄(こうがい)など刀装具の装飾が発達し、 これらの装剣金工の分野に肥後鐔工、京透かし鐔工、尾張鐔工、江戸の赤坂鐔工・伊藤鐔工など独創的な名工が各地に生まれた。 刀剣は消耗しないが、刀装具は各々時代の流行に合わせて変化し、刀装具の繁栄に反比例するがごとく鍛刀界は衰退していった。 ◆刀鍛冶の変化 信長・秀吉・家康等が刀剣を政策的に利用したことで刀工の地位が上がり、また運輸交通の発達によって砂鉄の確保、南蛮鉄の利用等が容易になって鍛刀法が変化した。 埋忠明寿は古三条宗近の末孫を名乗り、綺麗な地鉄による作刀を行ったことで新刀の祖と呼ばれる。 刀剣史では慶長以降の作刀を「新刀」として、それ以前の「古刀」と区別している。その違いは地鉄にある。 従来は各々の地域で鋼を生産していたので地方色が強く現れたが、天下が落ち着き、ある程度 均質に鋼が流通するようになると刀剣の地鉄に地域差が少なくなり、基本的に新刀の地鉄が綺麗になった。 その後、寛文新刀の時代を経て元禄時代(1688-1703)に刀剣界は最も衰微した。8代将軍吉宗は1721年(享保6)、 全国から名刀工を集めて鍛刀させ、一平安代、主水正正清、信国重包に一つ葵紋を許可して刀工の尚武に努めている。 ▽備前の刀鍛冶 長らく続いた備前長船一派の壊滅原因は、戦国期が終わり刀剣需要が減少したこと、主要な武器が鉄砲に取って代わられたことなども一因であろうが、 直接原因は天正末期に発生した度重なる吉井川の氾濫にあった。この災害で多くの刀工が水死し、鍛刀場を流出させたことである。 これら相次ぐ出来事に遭遇したため僅かな鍛冶が細々と命脈を保ったに過ぎない。 ▽美濃関の刀鍛冶 関の刀鍛冶は、安定した平和な江戸時代になり、刀剣需要が減少すると多くは日用刃物生産に転向し、僅かな刀鍛冶が存続することになった。 ▽江戸の刀鍛冶 武家文化の中心となった江戸では、幕府お抱えの刀工・越前下坂康継一派が大いに活躍し、また石堂と呼ばれる備前鍛冶の末裔を名乗る刀工、 室町期の法城寺派の末裔を名乗る刀工、武州土着の下原鍛冶も出現するなど、互いに技量を高めながら存続した。 ▽大坂の刀鍛冶 商業の中心地である大坂には、近郊から刀工が次第に集まってきた。江戸時代の著名な刀工として三品派(親国貞・国貞二代・吉道・河内守国助)、 紀州から移住してきた大坂石堂派(康広・多々良長幸)、地元の助廣(初代、二代)、粟田口忠綱一派(忠綱・国綱)がいる。 これらの刀工集団の作を大坂新刀と呼び、新刀の中で特に区別されている。その特徴は地鉄にあり、地鉄の美しさは新刀内でも群を抜いた。 その背景には大坂の商業力と、古来から鋼の産地である備前、出雲、伯耆、播磨が近くに控えていたこともあるだろう。 美しい地鉄の上に華やかな刃文を創始したが、特に有名なのは、大坂正宗と称される国貞(二代)井上真改の匂い沸深い直刀と助廣(二代)津田助廣が創始した涛瀾乱れである。 中には富士見西行、菊水刀と呼ばれる絵画的で華美な刃文も登場したが、保守的な武士からは退廃的だと忌避されるものもあった。 また、元禄期(1688~1703年)以降、太平の世になると新たな刀の需要がなくなり、刀を作る者はほとんどいなくなった。 中には武芸者が特注打ちで流派に即した刀を鍛えさせているが、これはごく少数である。その中でも粟田口忠綱二代の一竿子忠綱は刀身の出来、彫りとも優れている。 ◆鉄砲鍛冶の変遷 ▽堺の鉄砲鍛冶 1615年(元和1)の大阪夏の陣に際し、国友鍛冶は82挺の大筒を製造し、堺鍛冶の榎並屋勘佐・清兵衛・三左衛らは大筒12挺を製造したことが記録されている。 堺の鉄砲鍛冶・年寄の芝辻理右衛門が徳川幕府に差し出した由緒書に次のように記されてある。 「祖父は大阪の陣以前から権現様(家康)、台徳院様(秀忠)に御目見えして細工の御用を勤め、その仕事は上意に叶った。 なかでも1609年(慶長14)に権現様から玉目1貫目余の大筒の注文があったが、堺には誰一人鍛冶がいなかったので祖父が請負った。 本口一尺三寸、末口一尺一寸、長一丈、玉目一貫500目の大筒で、1611年(慶長16)に完成させた。 大阪方には一挺の鉄砲すら渡さなかった。大阪の夏・冬両陣のときには、権現様から三匁五分玉500挺、 六匁玉500挺、その他大量の玉と車掛かりの大楯の注文を受けて製造した。」 しかし、実際は大阪の陣で製造された大筒に先の3名の堺鍛冶名があり、しかも肥後の加藤清正の書状には 榎並屋に四寸筒を注文したと記録されているので、この芝辻氏の由緒書は一族の存在を誇大表現したものと考えられている。 徳川方に大阪両陣の働きを認められた堺鉄砲鍛冶は、高須に土地を与えられ、その後、五鍛冶(榎並屋勘左衛門・榎並屋九兵衛・榎並矢理右衛門・芝辻長衛門)が平鍛冶を支配した。 こうして堺は江戸時代に入ると全国諸大名に鉄砲を供給し、最盛期には30余軒の鉄砲鍛冶が軒を並べていたという。 しかし、平和の世が続くにつれ、軍用鉄砲の生産が少なくなり、縅筒(おどしづつ)や漁師筒、稽古筒等に限られて、やがて鉄砲鍛冶は衰退していった。 ▽国友の鉄砲鍛冶 家康から鉄砲の注文を受けて製作した鍛冶年寄・寿斎(助太夫)は、1600年(慶長5)関ヶ原の役を経た後、保護を受けるようになった。 この頃、寿斎他3名が正式に年寄役に任命されて厚遇され、村に900石の扶持が与えられた。 1606年(慶長11)成瀬隼人正(なるせ・はやとのかみ)が鉄砲代官として赴任し、翌年には法度が定められた。 それは「急務への素早い準備」「年寄による惣鍛冶の支配」「諸侯から受けた注文内容の報告」「鉄砲製作法の機密保持」「鍛冶職人の他郷への移住禁止」など、 信長時代からの掟も含めた厳しい取締まりを受けることで国友鍛冶は正式に徳川幕府の御用となった。 1615年(元和1)大阪冬の陣後、鍛冶40人に対して扶持米と諸役御免(年貢や労役の免除)の特権及び「重當と表記」の鉄砲銘が与えられた。 1603年―1618年(慶長から元和初め頃)に至るまでの約15年間が国友鍛冶が最も繁栄した時期であった。 大阪夏の陣(元和1=1615年)頃の国友鍛冶は73軒、500人に達したといわれる。年寄役は苗字帯刀を許され、武士に次ぐ身分を得て鉄砲鍛冶を支配したが、 1624-1643年(寛永年間)から非公式に年寄、年寄脇、若年寄、平鍛冶(上級・下級)という階級が生じて、以後固定化し、やがて、それが問題化していく。 ◆鋳物業の変遷
鉄鋳物の生産には、原料である鉄を生産するたたら製鉄技術の進歩が欠かせない。これは、いかに高温を得るかの技術にかかっており、 そのために送風技術が重要となる。江戸時代中期に「天秤ふいご」1が出現したことが、その転機となった。
当時の主な鉄産地は、但馬(兵庫県北部)、因幡(鳥取県東部)、出雲(島根県東部)、備中(岡山県西部)、備後(広島県東部)、 日向(宮崎県)、仙台(宮城県)などで、鋳造業が栄えた地域として次の地域があげられる。 盛岡、水沢、仙台、山形、新潟、佐野、高崎、川口、甲府、上田、松本、高岡、金沢、福井、小浜、 岐阜、豊川、岡崎、西尾、碧南、名古屋、桑名、彦根、京都、三原、広島、高松、高知、柳井、佐賀 注1:天秤ふいご…1681-1687年(天和・貞享年間)に使用され出したという。従来のフイゴは一台に複数の番子(フイゴを踏む人)を必要としたが、天秤フイゴは2人(後には1人)で作業ができるようになった。大幅に人員削減ができ、その送風力も従来のフイゴの数倍となり、近世たたら製鉄を格段に効率アップさせた。また炉内の温度が上がることで鉧(けら)の吸炭が進み、より優れた鋼が作られるようになり、鉧を粉砕するドウ場も整備されて鋼が量産出来るようになった。こうして1700年代後半には鉧押し法が確立し、近世たたらが完成した。 ◆越前・若狭の鋳物師
▼越前の鋳物業 ▽芝原の鋳物業 椚、窪、志比堺の3ヵ村に居住していた鋳物師を芝原鋳物師という。現在の永平寺町にあたる。芝原の鋳物業は中世、 すでに始まっていたが、近世になって芝原窪は東の金屋、西の金屋に分かれ、東金屋には渡辺藤兵衛、西金屋には 渡辺嘉兵衛、同伊左衛門などの鋳物師がいた。芝原は中世から近世にかけて越前最大の鋳物産地であった。 中世までの鋳物師は製鉄業者と未分化だったといわれ、九頭竜川は砂鉄を産したこともあるというから、或は芝原の始まりは製鉄業と結びついていたかも知れない。 中世までの鋳物産地の多くは製鉄業と結びついていたため山間部に位置した例が多い。 ▽五分市と島の鋳物師 越前市味真野地区の五分市は、古くは鞍谷長屋村と称し、北陸道の裏街道筋に当たる地にあった。 南越前町島は、越前市から日野川に沿って7~8㌔遡った地である。この近くに鋳物師村という字名もある。 これら五分市、島、鋳物師村は、いずれも日野山の周辺にあり、この日野山は昔、砂鉄を産出したと伝えられ、 採鉱跡も残されているので、これらの地域の鋳物業の始まりは製鉄と関連してくる。 鋳物師村は、1567(永禄10)年頃、越前守護朝倉義景が敦賀天徳山に築城する際、当村の鋳物師を徴用し 敦賀へ移住させたという伝承があり、その後、村名だけが残ったといわれる。 島村の鋳物師は北杣山村の鋳物業を継承したといわれる。五分市には多数の鋳物師が居住していたが、松村次右衛門家が盛大な鋳物師だったといわれる。 1560~1580(永禄・天正)年間の五分市作の鐘が残っているので、五分市の鋳物業の歴史もかなり古いといえる。 ▽敦賀の鋳物師 敦賀の鋳物師は敦賀郡松原(現敦賀市松原)に居住していた。この地の鋳物師は1567(永禄10)年頃、 朝倉義景が敦賀天徳山に築城の際、南条郡鋳物師村の鋳物師達を移住させたと伝えられる。 ▼若狭の鋳物業 ▽金屋の鋳物師 若狭の鋳物師は遠敷郡金屋村に居住していた。金屋村は若狭国分寺に近く北川の支流に沿った集落であり、現在は小浜市に編入されている。 金屋鋳物師の歴史は古く、1397(応永4)年以降の鐘や鰐口の銘文が知られる。 1444~1449(文安)年間の金屋には大工1人、細工所1ヵ所しかなく、2尺以上の鐘の鋳造は困難であったと伝えられることから、当時は小規模であったと推察される。 金屋鋳物師には1540(天文9)年右京進文書、1564(永禄7)年の武田義統の安堵状、1574(天正2)年の丹羽長秀判物などで若狭一国の独占を保証されていた。 |