1平安中期の物品貨幣と物価
平安中期以降、皇朝銭が使われなくなると、その代わりに絹、米、布などが物品貨幣として使われ、その後、約150年間、銭貨が使われない時代が続いた。
次表は10世紀後半の一時期の物品価格を参考に掲げたものである。
物品名 |
当時の銭価格 |
参考事項 |
絹2疋 |
4貫文 |
絹1疋=2貫文 |
麻布2反 |
150文 |
麻布1反=75文 |
綾7疋 |
28貫文 |
綾1疋=4貫文 |
稲2束 |
100文 |
稲1束=50文 |
麦5斗 |
250文 |
麦1斗=50文 麦1升=5文 |
銀造打出太刀 |
15貫文 |
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銀造太刀1腰 |
5貫文 |
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黒作太刀1腰 |
500文 |
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弓1張 |
30文 |
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馬1匹 |
600文~1貫500文 |
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牛1匹 |
500文~1貫文 |
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蒔絵の櫛箱1合 |
5貫文 |
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掛(単衣のこと)1領 |
50文~700文 |
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これら価格の根拠は、996(長徳2)年12月17日「壬生本‟非西宮記”検非違使雑事事」にある「可鈦(ちゃくだ)左右獄囚贓事」という史料(犯罪記録)である。
この中に主な盗品とその銭価格が記録されており、検非違使庁に回収された後に公定の評価額がつけられたものである。
前記の史料に米1石=1貫文で計算されていることから、米1升=10文になるが、古代、中世の枡は、いい加減であり、宣旨升という公定枡が必要だったことからみても、単純に江戸時代の1石と比較はできない。
しかし、近世以前の米量は、現在の40%という有力学説があることから、1石は40升、1升は4合となり、一つの目安になる。
上表の稲1束を米に換算すると、どれ位の量になるのだろうか。稲は頴稲(えいとう)を意味し、脱穀された稲を籾殻、稲穀と呼ぶ。
稲1束を脱穀すると稲殻1斗となり、精米にすると舂米(しょうべい)5升が得られるという。こうして1升=10文の価格になり、現在の量でみれば4合=10文となる。
当時の10文を現在の価格に換算すると、いかほどになるか興味深いが、ここでは触れずに次に進む。
2渡来銭(宋銭)の出現と流通
最初に宋銭が利用された記録は、1150(久安6)年8月25日付の土地売券「大和国今小路敷地を27貫文で売却」であるという。
しかし、実際に宋銭が使われたのは、この記録より、さらに何年も以前のことであろう。
それを窺わせるのは、平安中期以降、大宰府を拠点に中国(北宋)との交易が盛んになり、特に1074(承保1)年、中国(北宋)が宋銭の輸出を解禁した後、頻繁に行われるようになった。
大宰府では国家貿易統制が緩み、私貿易が盛んに行われるようになり、これを契機に多量の宋銭が国内に流入するようになった。
やがて交易は、全国的な経済関係にまで拡大し、地方の在地領主の荘園生産品や原料が交換されるようになる。
商人がようやく商業的利潤を蓄積し、その資本力を国内産業ばかりでなく外国貿易にも振り向け始めたのである。
この頃、国内は末法思想の流行により仏具材料として銅需要が高まり、当初、宋銭は銅材料として輸入されていた。
一方、私貿易の展開は商業経済を発展させ、潜在的に銭貨需要を高めていった。
こうして日宋貿易が盛んになるにつれ、中国(北宋)の銅銭が良質であることから、民間において宋銭1枚=1文として流通するようになった。
やがて銭貨として宋銭を輸入し、西日本を中心に宋銭が国内貨幣として流通し、全国に拡大していった。
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主な宋銭 |
3中国の銭貨事情と流出
次にわが国に宋銭が流入した中国(北宋)の銭貨事情を概観する。この頃、宋銭は日本だけでなく広く東アジアの国々へ流出した。
それは中国国内の主要貨幣が、銭貨から紙幣へ、さらに紙幣から銀へと移り変わり、この変化が中国国外への銭貨流出の原因ともなった。
中国では秦(BC221~206)による中国統一から北宋(960~1127)までの1000年以上にわたって流通貨幣の主役は銅製の銭貨であった。
北宋時代(960~1127)は、中国の歴代王朝のなかで最も多くの銭貨が鋳造された時代であるという。
それでも軍事・経済面で貨幣需要を銭貨だけで満たすことができず、紙幣や銀が貨幣として流通するようになった。
その理由は商工業の発達と軍事費の増大が主な理由であったと考えられている。
(1)商工業の発達
北宋時代は長江流域を中心に農業革命が起こり、農業生産量の増大と生産余剰物を産み出すようになる。
南方の余剰生産物は市場で盛んに取引され、また随・唐代に整備された大運河を通って黄河流域へ運ばれ、商業の発達を促した。
こうした商取引の拡大によって多くの銭貨が必要となった。
(2)軍事の強化
北宋の国境周辺には、遼(契丹)、西夏、金などの異民族が存在し、その侵攻に備えるため、常に軍備を整えておく必要があった。
また中国北方の燕雲十六洲(現在の北京を含む古代の政治中心地)は、五代十国時代から遼に占領されたままになっており、この地の奪回のためにも多くの軍事費が費やされた。
兵士への給料支給などには銭貨が使用されたため、軍事費の増大は銭貨需要の増大へと直結した。
(3)その他の要因~王安石の新法との関係~
北宋の鋳造量は100年以上にわたり高水準を維持し、ほぼ年間10億枚以上の銭貨を鋳造しており、特に1065年から1080年の間の鋳造量が急増している。
この時期は王安石によって新法(北宋の軍事・財政面の建て直しを目指した政治改革)が行われた時期であった。
王安石の新法の時期には農民層に至るまで銭貨使用を促す政策がとられたことのほかに、銭禁(海外への銭貨の持ち出し禁止)と
銅禁(銅の私売買の禁止)を解除したため、銭荒と呼ばれる深刻な銭貨不足を招き、銭貨の大量鋳造が必要になったと考えられる。
このように歴代王朝のなかで、北宋時代は最も多くの銭貨を鋳造したが、異民族の中国(金)に滅ぼされ、
強大になった中国(金・1115~1237)は、北宋領土の北半分近くを勢力圏におき、その南方は中国(南宋・1127~1279)が治めることになった。
こうして金・南宋時代になると銅銭の発行量は急減した。南宋は金の馬に対抗するため造船業を急速に発展させ、年に3千艘以上の船舶を進水させたといわれる。
1140年以降、南宋の商人は盛んに我が国へ来航し、大宰府だけでなく、直接実力者の湊にも入り込むようになった。
これは中央政府の武力が弱体化したことにもよるが、他方、国内採取の砂金量が増えたことが要因と考えられている。
南宋の対日輸出品は、銅銭(宋銭)・絹織物・香料・書画・文具・磁器で、輸入品は木材・硫黄・金・真珠・水銀・螺鈿であった。
![](siryo/nissou1.jpg) |
宋商船の来航風景 |
4宋銭の流入と国内事情
我が国に宋銭が流入した経緯の関連記事が次表である。
西 暦 |
関 連 記 事 |
1074(承保1)年 |
北宋が宋銭の輸出を解禁する。 |
1105(長治2)年 |
宋人が博多に来着、貿易を請う。 |
1133(長承2)年 |
平忠盛、院宣と称して宋商船の貨物を没収する。 |
1140(保延6)年 |
12月3日平忠盛が塾銅(銅地金)及び土地を金峯山寺に寄付、鐘を造る |
1143(紹興13)年 |
南宋が銅銭輸出厳禁令を出す(一方、銭の密貿易は莫大な利益を生んだため、渡来銭の輸入が、この頃から飛躍的に増加する) |
1147(久安3)年 |
7月、平清盛、祇園社騒乱で銅30斤を償う刑を受ける。 |
1150(久安6)年 |
8月25日最初の宋銭利用の土地売券「大和国今小路敷地を27貫文で売却」の記録あり。 |
1158(保元3)年 |
平清盛、播磨守から太宰大弐になり、大宰府に家人を据え置き、貿易の独占権を確保し私貿易を展開する。主に織物を輸入、砂金、硫黄などを輸出 |
1166(仁安1)年 |
3年後、平清盛は太宰大弐を弟、平頼盛と交代、その後、家人に管理させ、更に瀬戸内海航路を修復、本拠地福原(神戸)で貿易繁栄。宋、高麗商人など活躍する。
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1170(嘉応2)年以降 |
平清盛は大輪田泊(神戸港)・大阪湾で交易を行い、この頃から北宋銭の大量輸入が行われる。 |
1172(承安2)年 |
宋の明州刺史、法皇・清盛に方物を献上 |
1179年(治承3)年 |
7月、宋銭を流通させようとする平家と、これに反対する後白河法皇の確執深まり、法皇の意を受けた松殿基房・九条兼美が「宋銭は朝廷が発行した貨幣ではなく、私鋳銭と同じである」として、宋銭の流通を禁ずるよう主張したが、逆に平清盛、高倉天皇、土御門通親らが現状を受け入れて流通を公認すべきであると主張し対立する。 |
1180(治承4)年 |
宋船が大輪田泊に入港。平清盛の政権把握の地盤は、外国貿易による経済力にあった。しかし、宋銭流入と流通による貨幣経済の展開は平家政権弱体への問題を内包していた。つまり、宋銭依存は彼の他の地盤、つまり所領への支配力を弱める要因となって、平家没落を早めることになった。 |
国内銅山が枯渇し、鋳銭の空白期にあったが、輸入した宋銭を銅地金として利用するようになると、銅仏器の生産が再開されるようになった。
ただし祭祀器と鏡の需要は根強く、鋳銭の空白期にも乏しい銅地金から和鏡は造られ続けたようである。
時の権力者、平清盛は、これに目をつけ日宋貿易を振興、宋から大量の宋銭を輸入し国内で流通させ、平家の政権基盤を強化し財政的裏付けにした。
ところが、当時の朝廷の財政は絹を基準に賦課・支出を行う仕組みになっていた。
これは皇朝十二銭の廃絶後、価格統制法令として機能してきた沽価法による価格換算に基づき算出した代用貨幣・絹の量を基に、一国平均役や諸国所課、成功などを課し、
また沽価法に基づいた絹と他の物資の換算に基づき支出見通しを作成していた(勿論、実際の賦課・収入は現実の価格の動向なども加味され決定された)。
そのため、宋銭流通によって絹の貨幣価値(購買力)が低下すると、絹の沽価を基準に見通しを作成し、運営していた朝廷財政に深刻な影響を与える恐れがあった。
また、宋銭の資金力が平家を台頭させたと考える「反平家」の人々や宋銭の流通で経済的に不利益を受けるようになった荘園領主、地方武士も、宋銭とこれを流通させようとする平家に強い不満を持つようになった。
宋銭を流通させようとする平家と、これに反対する後白河法皇の確執が深まった1179(治承3)年、
法皇の意を受けた松殿基房や九条兼美が「宋銭は朝廷で発行した貨幣ではなく、私鋳銭(贋金)と同じである」と、宋銭流通を禁ずるように主張したが、
逆に平清盛や高倉天皇、土御門通親らは、むしろ現状を受け入れて流通を公認すべきであると主張して対立、この年、平清盛は後白河法皇を幽閉する。
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