概観 日本貨幣史(3)


 


1平安京遷都

 桓武天皇(781~806年)は、784(延暦3)年、藤原種継の勧めにより長岡京へ遷都するが、凶事が続き10年経っても、都は未完成のまま中止された。

 そこで、和気清麻呂の建議を採用し、改めて山背の地に新都(平安京)を定め、794(延暦13)年に遷都した。

 新都の造営は、794(延暦13)年に起工し、約12年後の806(大同元)年に概ね完成した。東西約42町、南北49町の広さで、ほぼ平城京に倣っている。

 この遷都は、律令国家を再建するために行われたが、この頃の朝廷の権力は強く、天皇親政の下で律令制度が運営され、国家的事業も引き続き行われた。

 しかし、時代が進むにつれて律令制度は形骸化し、やがて財政状況も悪化して国家的事業は行われなくなる。

2平安京遷都前後の情勢

 774(宝亀5)年から始まった蝦夷反乱の時に、農民から集められた兵士は、逃亡の機会を窺い、いざという時に役に立たないことがはっきりした。

 そこで政府は792(延暦11)年、東北と九州を除く諸国の軍団を廃止し、義務兵役制のかわりに、郡司すなわち地方豪族と富農の子弟を集めて、健児と呼ぶ専門の軍隊をつくり、律令国家の軍事基礎を、公民から豪族・富農に置き換えた。

 784(延暦3)年、桓武天皇、藤原種継は、古来の名門貴族や寺院の力を弱めるために、都を奈良から山背の長岡に移した。

 翌年の大伴氏らによる種継暗殺は、このような藤原氏に対し、過去の伝統を固守しようとする勢力の最期の反撃であったが、大伴氏一族は罰せられ力を失っていった。

 一方、新しい都づくりは、諸国の百姓を31万4000人も動員しながら、思うように進まず、農民はもはや平城京のときほど働かなかった。

 すでに聖武天皇の頃から、無益な土木工事をさせる貴族たちに抗議する民謡が歌われる時代になっていた。工事は大洪水に見舞われて、10年の歳月をかけ未完成のまま中止された。

 794(延暦13)年、山背の地・平安京に都を遷したが、ここも10年以上経っても都は完成しなかった。

 蝦夷と呼ばれた古代の東北住民は、朝廷の支配に激しく抵抗した。狩りと農耕による平和な生活が破壊されることに反対した。

 780(宝亀11)年、多賀城を焼き払ったアザマロの大反乱789(延暦8)年、5万の朝廷軍の8割を死傷させ惨敗させたアテルイ指揮の抵抗などは、その代表的なものである。

 797(延暦16)年、桓武天皇は、平安京に都を遷してから間もなく、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、朝廷軍の総力をあげて東北の征服戦争を展開した。


3平安時代発行の皇朝銭

 平安時代の皇朝銭は、隆平永宝はじめ9種の貨幣が発行された。その概要は次のとおりである。

 隆平永宝  富寿神宝  承和昌宝

(1)皇朝銭4番目・隆平永宝の発行

 神功開宝の発行から31年後、平安京遷都の2年後である796(延暦15)年8月、新貨・隆平永宝が発行された。

 直径24㍉前後の円形で、中央に正方形の孔が開き、量目3㌘程度の青銅鋳造貨である。

 同年12月には銅の銙帯を禁止し鋳銭を支えるなど、当時、銅地金の逼迫が始まっていた。

 旧銭は4年の猶予期間をおいた後、廃止するとして新貨が発行され、新貨1枚に対し旧銭10枚の交換比率が設定された。

 しかし、旧銭の廃止計画は予定より8年遅れ、808(大同3)年に廃止されたが、同年5月、平城天皇は「新銭がまだ多くない」との理由により、旧銭1枚=1文の価値で使用することが許された。

 798(延暦17)年9月には蓄銭を禁止し、地方役人・民が蓄えた銭を稲(正税)と交換した。同年10月沽価法を改定し、実勢の市場価格に合わせ、さらに800(延暦19)年2月蓄銭叙位が禁止された。


(2)皇朝銭5番目・富寿神宝の発行

 隆平永宝発行から22年後の818(弘仁9)年、嵯峨天皇の時代に富寿神宝が発行された。直径23㍉前後の円形で、中央には正方形の孔が開いている。

 銭文は時計回りに富寿神宝と表記され、裏は無紋であり量目3㌘程度の銅の鋳造貨である。

 同年8月25日、畿内の田税が銭でなく稲に統一された。銭の利用抑制策は、銭を必要な時に入手する現在の外貨のようなものになった。

 821(弘仁12)年、毎年の鋳銭定額を3500貫文に減らし、これに必要な銅1万6332斤余りを長門国より採送しようとしたが定額に達しなかった。この頃から原料の銅地金が不足気味になっていたことが窺われる。

(3)皇朝銭6番目・承和昌宝の発行

 富寿神宝発行から17年後の835(承和2)年、仁明天皇の時代に承和昌宝が発行された。直径21㍉前後の円形、中央に正方形の孔が開き、量目2.5㌘程度の銅の鋳造貨である。

 通説では承和昌宝以後、急速に大きさが小さくなり品質も悪化したとされるが、承和昌宝以後の銭貨は大きさについて一定した水準が保たれ、また品質も寛平大宝までは、ほぼ同様の傾向である。

 そこで承和昌宝が貨幣鋳造の新しい品質基準にされたとする見方もある。承和昌宝1枚に対し、旧銭10枚の交換比率が設定されたため、旧銭を鋳潰しての私鋳が横行した。


 
 長年大宝 饒益神宝  貞観永宝 


(4)皇朝銭7番目・長年大宝の発行

 承和昌宝発行から13年後の848(嘉祥元)年、仁明天皇の時代に長年大宝が発行された。直径20㍉前後の円形、中央に正方形の孔が開き、量目2.5㌘程度の銅の鋳銭貨である。長年大宝1枚に対し旧銭10枚の交換比率が設定された。

(5)皇朝銭8番目・饒益神宝の発行

 長年大宝発行から12年後の859(貞観元)年、清和天皇の時代に饒益神宝が発行された。直径19㍉~20㍉前後の円形、中央に正方形の孔が開き、量目2㌘程度の銅の鋳銭貨である。

 発行の詔に饒益神宝1枚に対し旧銭10枚の交換比率が設定された。この銭以降、朝廷発行の貨幣は銭文が判読できないほどの悪質なものが非常に多くなる。

 また、国内における撰銭の最古の記録も饒益神宝の流通時であり、日本三代実録の865(貞観7)年6月10日付の記事に

新銭の文字が頗る不明瞭であっても使用に支障がなければ撰銭することを禁止する詔が出された。「禁京畿及近江国売買擇弃之悪銭曰」と記されている。

 869(貞観11)年7月5日、調庸を新銭(饒益神宝銭)20文に定めた。
鋳造期間は11年と短く、皇朝十二銭のうち、現存するものが最も少ないといわれる。

 皇朝銭の出土記録として1万2千枚余りのうち、饒益神宝の出土は76枚と銅銭としては最も少ないという。


(6)皇朝銭9番目・貞観永宝の発行

 饒益神宝発行から11年後の870(貞観12)年1月、清和天皇の時代に新貨・貞観永宝が発行された。直径19㍉程度の円形、中央に正方形の孔が開き、量目2㌘程度の銅の鋳銭貨である。

 外観は小振りとなり銅品位は約半分で鉛が35%程度と質が低下し、文字が破滅し輪郭が完全なものはないとする872(貞観14)年9月の記録が残っている。

 発行の詔に「旧貨は流通により傷み、軽重、大小が生じているから交易が妨げられる」とし、旧貨を一掃して新貨を鋳造するというものであった。

 当時、物価が高騰し銭の価値が低下しているため、新貨1枚に対し旧貨10枚の交換比率が設定された。

 875(貞観17)年頃、百姓らが勝手に産銅を用いて雑器を造って商売しているため銅が不足しているとして、これを禁ずる令を出している。

 873(貞観15)年12月17日の記録に調庸を饒益神宝銭183文=貞観永宝銭13文で決着させたとある(日本三代実録)。

 これ以後、新銭は1枚=約10文の価値で通用する。新銭発行後、前銭(1世代前)は旧銭(2世代以前)と同じく1文の価値に低下する。

 即ち額面変更貨幣であったようであり、むろん新銭も10倍の固定ではなく相場(沽価法)で変動したようである


 当時の記録で1000文とあれば、文を枚に置き換え(1貫は1000枚)、さらに、この皇朝銭が新銭か旧銭かを銭名と年代で判断し、新銭なら1枚約10文の価値になる。

 また新銭10文と新銭と断りの記載があれば無条件で新銭である。一方、新銭以外は旧銭であり1枚約1文の価値である。


寛平大宝  延喜通宝  乾元大宝 


(7)皇朝銭10番目・寛平大宝の発行

 貞観永宝発行から20年後の890(寛平2)年、宇多天皇の時代に新貨・寛平大宝が発行された。

 直径19㍉前後の円形、中央に正方形の孔が開き、量目2.5㌘程度の銅の鋳造貨である。新貨1枚に対し旧貨10枚の交換比率が適用されたと推定される。

(8)皇朝銭11番目・延喜通宝の発行

 寛平大宝発行から17年後の907(延喜7)年、醍醐天皇の時代に新貨・延喜通宝が発行された。直径19㍉前後の円形、中央に正方形の孔が開き、量目2㌘程度の銅の鋳造貨である。

 「日本紀略」延喜7年11月3日条には「詔、改寛平大宝銭貨為延喜通宝、一以當舊之十、新興舊並令通用之」とある。

 延喜通宝1枚に対し旧銭10枚の交換比率が改定され、先例を踏襲し新旧両銭の併用としている。

 朝廷発行の貨幣の中では質の低下が極まり、銭文が判読できるものはむしろ稀であり、銅貨というよりも鉛合金といった方が適切なものもある。

(9)皇朝銭12番目・乾元大宝の発行

 延喜通宝発行から51年後の958(天徳2)年、村上天皇の時代に新貨・乾元大宝が発行された。直径19㍉前後の円形、中央に正方形の孔が開き、量目2.5㌘程度の銅の鋳造貨である。

 新貨1枚に対し旧貨10枚の交換比率が適用されたと考えられている。小型で鉛が75%、あるいはそれ以上を占めるものもある。

 品位は非常に低く、また製作も悪く銭文の文字が読めないものが少なくない。流通範囲も狭かったらしい。

 だが、当時の平安貴族には貨幣流通不振の理由が分からず、「日本紀略」によれば、958(天徳2)年4月に伊勢神宮以下11社に新造の乾元大宝を奉納して流通を祈願している。

 963(応和3)年に朝廷発行の最期の貨幣として鋳造を終了している。以後、自然貨幣として輸入銭や私鋳銭と混用されることになる。

 


4皇朝銭の終了と物品貨幣の復活

 708年、政府(朝廷)は皇朝銭・和同開珎を発行して以来、約300年間に12回の皇朝銭を発行したが、時代が下るほど品質が悪化、価値の変更、私鋳銭の横行などによって人々の信頼を失っていった。

 乾元大宝の発行後は、朝廷も弱体化し財政的に銅銭を発行する力を失った。以後、次第に貨幣離れが起こり、11世紀初頭には貨幣使用の記録が途絶えた。

 代わって復活したのが、モノの値段をあらわす安定的な価値基準として米や絹などの物品であり、これらが商業経済の主役になっていく。ただ、貨幣価値の存在が全く消えたわけではない。

 畿内とその周辺では300年かけて形成された金属貨幣に対する需要が完全になくなった訳でなく、盗難品の被害額を記した贓物勘文や沽価法などの公定価格の決定に貨幣換算が用いられている。

 その経緯を窺わせるのが次のような記事である。

 年 月 主 要  記 事
 963(応和3)年  政府は旧銭の使用禁止を決定
 983(永観1)年  乾元大宝1千貫文を補充、超インフレが発生
 984(永観2)年  禁破銭令が出され、新銭発行が極めて困難となる
 986(寛和2)年  諸社諸陵に銭の流通を祈祷させる(『本朝世紀』)
 987(永延1)年  十五大寺に対し、銭の流通祈祷を命じている(『本朝世紀』)
 993(正暦4)年  土地売買の手続券文に米が記載される。
 1000長保2)年  東寺が地方から特産品代わりに銭を銅地金として納入させる


 やがて国内で商業経済が発達してくると、皇朝銭後の絹、布、米など物品貨幣に代わって中国から輸入した宋銭などが貨幣として使われるようになる。