概観 日本貨幣史(2)


 
 平城宮跡 復元大極殿

1藤原京から平城京へ


 710(和銅3)年、藤原京よりさらに大規模な平城京が、唐の都・長安を真似て奈良の地に造られた。以後、784(延暦3)年までの約74年間、この地で大規模な都城が営まれた。

 東西4`、南北5`の平城京の北部には、堂々たる皇居や役所が建てられ、道路は、東西・南北に碁盤の目につくられ、青い瓦、白い壁、朱塗りの柱という中国風の貴族の邸が建ち並び、寺院の塔は空に高く聳えていた。

 この都大路には貴族たちが花をかざして行き交ったが、都城には市民というものがいなかった。

 宮殿と役所、寺院と貴族の邸を除くと、あとは水田と畑地ばかりが広がり、そこに貧しい手工業者や農民の家が散らばっているだけであった。

 政府は、農業以外の産業でも金・銀・銅を独占し、農民が作った織物や鍬などの手工業品を調として国家が吸い上げた。

 この時代の優れた彫刻・織物・鋳金などは、政府や寺院の命令で、賤民である品部や雑戸、交替制で集められた公民などが、中央・地方の政府の工房や寺院の工房で作ったものである。

 そこで出来た製品は、すべて政府や寺院のものであり、都の東西で開かれた市で売られる物資は、貴族や寺院が消費した余りや政府の租税の残りの製品であり、それを買うことができるのは貴族たちだけであった。

 そんな時代を背景に貨幣政策は進められたが、銭貨に関する主な出来事をみたのが次表である。

年 月  銭貨に関する主な出来事  銭貨流通政策の流れ
 710年 3月  平城京へ遷都 銀銭と銅銭の併用から銅銭の一本化 
 710年 9月   再び銀銭を禁止
 711年 5月  殻6升=銭1文と定める  流通政策の展開
国の支払いだけでなく人々に銭貨の利用を促す政策を打ち出す 
 711年10月  蓄銭叙位法、私鋳銭の厳罰を定める。蓄えた銭貨と官位との交換を保証
 712年10月  旅行者に銭貨を持たせる
 712年12月  税(調庸)の布と銭貨の交換基準を定める
 721年〜722年  銭貨の価値を切下げる。税(調)を銭貨で納める地域を拡大させる 流通の進展・拡大
畿内とその周辺での流通
銭貨の増産  
 729年 2月  長屋王の変
 730年〜737年  銭貨の増産を示す記事
757年 5月  養老律令施行、この頃平城宮大改造 複数の銭貨を併用
和同開珎の価値下落、
私鋳銭の増加⇒新しい銭貨発行
旧銭の10倍の価値を与える⇒銭貨発行による収入を確保  
 760年 3月   万年通宝を発行、開基勝宝(金銭)、大宝元宝(銀銭)発行
765年 9月  神功開宝を発行、この頃、西大寺造営工事
784年11月  長岡京へ遷都

2奈良時代の皇朝銭

 この時代には和同開珎はじめ3種類の皇朝銭(銅銭)が使われた。

(1)皇朝銭1番目・和同開珎:708(和銅元)年発行(元明天皇「続日本紀」)

 和同開珎発行後、711年5月に殻6升を銭1文と高い価値を定め、10月に銭貨に関わる次の法令を定めている。

@ 役人に対する主要な給与の一部を銭貨で支給する
A 一定額の銭貨を貯めて国家に差し出すと額に応じて位階を与える
B 私鋳銭の厳禁

 翌年には平城京の建設労働者への労賃を銭貨で支払うことが定められた。こうして政府は、銭貨流通政策を進めたが、実態は思うように進まなかった。

 和同開珎は国によって高い価値を与えられたが、私鋳銭の横行や国の銭貨増産などによって民間で使用される銭貨の価値は下落した。

 721(養老5)年、722(養老6)年、国の定めた価値(法定価値)と民間で使用される価値(実勢価値)を合わせるため、従来の法定価値を切下げた。

(2)皇朝銭2番目・万年通宝:760(天平宝字4)年発行(淳仁天皇「続日本紀」)

 和同開珎が発行されてから52年後、万年通宝は時の権力者藤原仲麻呂(恵美押勝)により、開基勝宝(金銭)、大平元宝(銀銭)とともに発行された。

 直径25_前後の円形で、中央に正方形の孔が開いた、量目3c程度の青銅鋳造貨である。

 万年通宝の鋳造期間は5年半と古代銭貨の中で最も短いものだった。この銭貨は和同開珎の10倍の価値を与えられ、また金、銀、銅銭の換算率は1:10:100と定められた。

 しかし、実態は万年通宝1枚ごとに和同開珎10枚分を回収する予定であったが、実際は2種類の銭貨が併用され、万年通宝は定められた価値で流通せず、新貨の私鋳銭が横行した。

 開基勝宝(金銭)、大平元宝(銀銭)の2種類は、流通が目的でないというが、その実態は明らかでない。

(3)皇朝銭3番目・神功開宝:765(天平神護元)年発行(称徳天皇「続日本紀」)

 万年通宝の発行から5年後の764年、藤原仲麻呂は滅ぼされ、称徳天皇・道鏡政権下で神功開宝が発行された。

 直径24_前後の円形で、中央に正方形の孔が開いた量目3c程度の青銅鋳造貨である。藤原仲麻呂の施策を改め、政策一新の発行と考えられる。

 しかし、実態は3種類の銭貨が同時に流通して混乱を極めた。国は対策として、772(宝亀3)年、和同開珎の使用を禁止し、神功開宝と万年通宝を同じ価値とした。

 しかし、混乱が収まらなかったため、779(宝亀10)年に和同開珎を含めた3種類すべてを同じ価値にした。

     
 開基勝宝(金銭)  万年通宝(銅銭)  神功開宝(銅銭)

3万年通宝発行前の情勢

 740年、北九州の太宰大弐・藤原広継(藤原不比等の孫)は「天災地変で人民が苦しむのは政府の失政だ」と政権を握っていた橘諸兄の政治を批判して反乱を起こした。

 この鎮圧に九州の兵1万を動かして2ヵ月かかったが、この反乱が政府に与えた影響は深刻であった。

 聖武天皇は、その後5年間、平城京を離れて恭仁京、難波宮、紫香楽宮と各地を転々とした。彼は、この政局の不安定を仏の威力で鎮めようと考え、741年、諸国に国分寺と国分尼寺を造ることを命じ、

さらに747年から奈良の東大寺に五丈三尺五寸(16b余)の途方もない大きさの大仏を造り始めた。

 757(天平宝字元)年、橘奈良麻呂をはじめ大伴・佐伯など有力な貴族を集めた大規模な反乱計画が発覚した。

 橘奈良麻呂は、時の権力者・藤原仲麻呂を殺して淳仁天皇を取り換えようとしたのであるが、「東大寺をつくったため人民が辛苦しているので、救おうとしたのだ」と言った。

 この事件で443人が罰せられた。政府はかつてない異例の措置として、畿内の郡司・里長を集めて陰謀の説明をした。

 また年60日の雑徭を半分に減らし、その年の庸・調を免除し、民情を調べさせた。

 こうした情勢の中で国の財政状況は苦しくなっていたと考えられる。藤原仲麻呂は、淳仁天皇の下で政敵を一掃し、恵美押勝の名を賜り太政大臣に昇りつめた。

 位人臣を極めた藤原仲麻呂(恵美押勝)は、和同開珎発行以来52年ぶりに開基勝宝(金銭)、大宝元宝(銀銭)、万年通宝(銅銭)の新貨幣3種類を発行したのである。


4神功開宝発行前後の情勢

 太政大臣・藤原仲麻呂(恵美押勝)の専制政治に対し、批判的だったのが孝謙太上天皇と側近の道鏡であった。

 仲麻呂は、淳仁天皇を通じ孝謙の道鏡への寵愛と信任を諌めさせたところ、これが孝謙を激怒させたのである。

 762年6月、孝謙は出家して尼になるとともに「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え、国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言した。

 孝謙の道鏡に対する信任は深まり、逆に淳仁と仲麻呂を抑圧するようになった。焦燥を深めた仲麻呂は764年9月、軍事力で孝謙と道鏡から政権を奪取しようとしたが、密告され、戦に敗れて死亡した。

 淳仁天皇は廃位の上、淡路国へ流罪となり、仲麻呂の勢力は政界から一掃された。代わって孝謙が重祚し称徳天皇となり、以後、称徳と道鏡を中心とした独裁政権が形成された。


 その翌年、新貨幣・神功開宝が発行されたが、前記のとおり貨幣流通は混乱を極め、772年和同開珎を使用停止し、

万年通宝と神功開宝を同じ価値にしたが、結局、779年和同開珎を含めた3種類すべてを同じ価値にしたのである。