1貨幣誕生まで
我々が使っているお金、それがいつ生まれ、どのような歴史を辿って今日に至っているかを概観してみたい。
古代の人々は自給自足の生活をしていたから、交換の仲立ちをする貨幣を必要としなかった。ところが、やがて物々交換によって欲しいものを手に入れるには
①誰もが欲しがるもの
②集めたり分けたりできて、任意の値打ちを表すことができるもの
③持ち運びや保存に容易なもの
が交換の仲立ちとして使われるようになり、矢じり、稲、砂金などが貨幣の役割を果たした。
これら物品貨幣の中でも、金・銀・銅の金属は貨幣として優れた性質を持っていたため、広く用いられるようになった。
紀元前3世紀、秦の始皇帝が漢字を配した円形方孔(中央に正方形の穴をあけた円形)の貨幣に統一してから、
この形態が約2000年にわたり踏襲され、東アジアの中国文化圏に多大な影響を及ぼした。
2貨幣の誕生~無文銀銭と富本銭~
7世紀後半、律令国家の礎を築いた天武天皇は飛鳥浄御原宮へ遷都し、我が国最古の本格的寺院・飛鳥寺の南方谷筋に「モノづくり」の官営工房を稼働させた。
これが飛鳥池遺跡である。この工房は、谷に面した丘陵の斜面がひな段のように造成され、平坦面に工房を配置し、金銀や銅、鉄、ガラス、漆などを素材として様々な製品を生産していた。
この工房の一角で無文銀銭や富本銭が鋳造された。『日本書紀』の天武天皇12年(西暦683年)に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いること莫れ」という詔がある。
この詔の銀銭と銅銭が一体何を意味しているのか。長い間謎であったが、飛鳥池遺跡の発掘によって、銅銭が富本銭、銀銭が無文銀銭であることが判明したのである。
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無文銀銭 |
富本銭 |
(1)無文銀銭
無文銀銭は直径3㌢前後、重さ10㌘強の銀の円板で、中央に2㍉ほどの小孔が空いている。
この銀銭は現在までに、奈良県や滋賀県を中心に17遺跡から出土している。これらの中に7世紀後半の遺跡もあり、天武天皇の詔に登場する銀銭がこれに相当するという。
無文銀銭は、表面に銀の小片を貼り付けて、一両の4分の1にあたる一分に重量調整されており、いわば古代の「一分銀」だが、その製作地は、当時、銀や金が多く産出された朝鮮半島の新羅と考えられている。
素材価値に支えられた貴金属の金銀貨は、少量でも価値が高く、国境を越えて流通する普遍的な性格を備えている。
富本銭や和同開珎のように、自国経済のために発行された国内用通貨とは性格が異なる。
無文銀銭は、分という重量単位を共有する中国、韓国、日本の間の国際交易の場で、国際通貨に近い役割を果たしたのであろう。
激動する7世紀後半の東アジア情勢の中で、無文銀銭は国家の領域を越えて流通した国際色豊かな銀銭と考えられる。
(2)富本銭
富本銭は直径2.4㌢前後、重さ約4.5㌘の銅銭で中央に正方形の孔が空いている。当初、厭勝銭という説もあったが、1997年から2001年に奈良県飛鳥池遺跡の発掘調査によって560点に上る富本銭が出土した。
また、この遺跡の一角で富本銭を鋳造していたこと、それが7世紀後半に遡ることなどが明らかになった。
「日本書記」天武天皇12年(683年)などに和同開珎発行(708年)以前の金属貨幣についての記事があり、その実像をめぐって、これまで議論されてきたが、
飛鳥池遺跡の発掘調査によって、和同開珎以前に富本銭が用いられていたこと、また、それ以前は無文銀銭が用いられていたことも分かってきた。
○富本銭が誕生した理由
それは藤原京(694~710年)建設にあったと考えられる。藤原京は国内で建設された最初の中国式都城であり、天武天皇が建設に着手し、持統天皇の時代に完成した。
「宮」の周囲には「京」と呼ばれる約5.3km四方の街区が碁盤の目状に計画的に配置され、そこに貴族をはじめ、役人やその家族、兵士や諸国の役民たちが集住させられ、数万人が居住したと推定される。
彼らは生産基盤のある本貫地から切り離され、食料や生活必需品の自給自足性を失い、都市住民となった。
そこで国家は、都市住民が生み出す膨大な消費活動を保障するため、都城に必須の官営の東西市を建設し、都の流通経済システムを整備するため、中国の貨幣制度を模倣した。
貨幣制度の導入は、当時、近代化の象徴ともいえる緊要な政策であったが、この頃、貨幣材料の銅資源が十分得られたとは考え難く、富本銭は、せいぜい藤原京で流通させるのが精一杯であったことだろう。
ただ、天武天皇、それに続く持統天皇(天武の妻)の約30年間は、天皇・貴族たちが最も栄えた時代だったといえよう。
持統天皇は、統一国家にふさわしい首都として、奈良盆地の南に藤原京をつくらせ、694年、ここに都を移した。
これが国内最初の都城であり、藤原京を中心に7世紀後半から8世紀初めにかけて白鳳文化が栄えた。
○富本銭の原料となる銅はどこで入手したのか。
原料を中国、朝鮮半島から輸入したのか、国内で入手したのか、現段階では判明しない。
ただ、富本銭の材質を分析した結果によれば、銅ーアンチモンの合金であるという。
その材質は、富本銭、古和同、小型仿製鏡という一部の限られた製品だけに認められるものであり、
その後、発行された新和同などの銭貨は、銅ー錫の合金である青銅で鋳造されたものであるという。
アンチモンの原料鉱石は輝安鉱であり、古代は錫と混同されたようだが、この特殊な合金が、どこからどうして、この時期に突然登場し、しかも短命で消えていったのか、その解明が待たれる。
3初の皇朝銭・和同開珎の発行
大化の改新以来、中央集権的律令国家を目指してきた日本は、701年に大宝律令が成立し律令国家を完成させた。
その翌年、34年ぶりに遣唐使を派遣し国交修復を図ったが、遣唐使が見た長安城の威容は、あまりに壮大で藤原京との違いを見せつけるものであった。
そこで日本は積極的に唐の文化や文物を導入し、その模倣を始めた。つまり藤原京をわずか16年で廃止し、長安城をモデルに平城京の造営を始めたのである。
まず、708年に唐の銭貨「開元通宝」を忠実に模倣した和同開珎を鋳造、発行し、平城京造営の費用など支払い手段に使うことにした。
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和同開珎 |
(1)和同開珎の概要
708(和銅元)年に皇朝十二銭の1番目に鋳造・発行された銭貨である。直径24㍉前後の円形で、中央に一辺が約7㍉の正方形の孔が空いている円形放孔形式で、表面に時計回りに和同開珎と表記されている。
律令政府が定めた通貨単位である1文として通用した。1文は当初、米2㎏が買えたといわれるが、これは成人1日分の労働力に相当したとされる。
埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(自然銅)が産出したのを記念し「和銅」に改元し、和同開珎が作られたという。
708年5月に銀銭が発行され、7月には銅銭の鋳造が始まり、8月に発行されたことが続日本紀に記されている。
しかし、銀銭は翌年8月に廃止された。また、和同開珎には、厚手で雅拙な「古和同」と、薄手で精密な「新和同」がある。
古和同は、和同開珎の初期のものとする説と、正式に発行する前の試作品であるとする説がある。
古和同と新和同は成分が異なり、古和同は銅-アンチモンの合金で、新和同は銅-錫の合金(青銅)である。また両者は書体も異なる。
古和同はあまり流通した形跡がなく、出土数も限られているが、新和同は大量に流通し、出土数も多い。
国内はまだ、米や布を基準とした物々交換の段階にあり、和同開珎が貨幣として流通したのは、畿内とその周辺が中心で全国的に流通した形跡は見られない。
当時、銭貨の原料となる大量の銅原料を確保することは難しく、流通量もそれほど多くなかったと思われる。それでも地方では富と権力を象徴する宝物として使われた。
政府は和同開珎を発行はしたものの、通貨に馴染みのない当時の人々の間で、なかなか流通しなかったため、流通促進のために税を貨幣で納めさせたり、地方から税を納めに来た旅人に旅費としてお金を渡すなどした。
711(和銅4)年には蓄銭叙位令が発布された。これは従六位以下の者が十貫(1万枚)以上蓄銭した場合に位を1階、二十貫以上の場合には2階上げるというものである。
政府が定めた価値が地金の価値に比べて非常に高かったため、発行当初から民間で勝手に鋳造した私鋳銭が横行し、貨幣価値の下落が起きた。
これに対し政府は、蓄銭叙位令の発布と同時に私鋳銭鋳造を厳罰に定め、首謀者は死罪、従犯者は没官、家族は流罪とした。それでも私鋳銭は大量に出回り、貨幣価値は下落した。
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