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神武東征の経路図

 
29 ヤマト攻略作戦

 ヤマト攻略の戦いはこれからだ、ということである。ヤマトに新しい国をつくるという建国の大目標の成否は、強敵を相手にするこれからの戦いにかかっていた。

 『日本書記』の記述では、その夜、狭野尊が眠りにつくと、天つ神が夢に現れ、ヤマト攻略のために一つの方法を教えるということになっている。

 敵の本陣、磐余の地にある天香具山の社に忍び込み、秘かにその土を採ってきて祭器を作り、天神地祇
(てんじんちぎ)を祀れ、というのであった。

 恐らくこれは、諜者を敵の本拠に忍び込ませ情報をさぐり、弱点をみつけて戦術を練り上げよ、ということを示唆しているものと思われるが、

狭野尊を驚かせたのは、帰順した地元勢の代表、弟猾が翌日、陣営にやってきてほとんど同じ戦術を上奏したことであった。

 その弟猾がもたらしたのが、ヤマト南部における敵陣の詳しい情報である。弟猾は背後の勢力について話した。

 磐余の北側の磯城(奈良県磯城郡)にも、八十梟帥が率いる敵勢が相当数いる。

 さらに、西方の高尾張には、赤銅
(あかがね)と呼ばれる勇猛な部族がいて、東征軍に敵対しようとしていた。

 東征軍としては、天孫の末裔とされる狭野尊を奉じ、その力を信じて独り戦うしかない。

 決戦を前に、狭野尊は夢に見たとおり、敵陣中の天香具山から土を採ってきて神器をつくり、神々を祀って戦勝を祈願することを道臣らに命じた。

 敵陣に潜入する要員として、椎根津彦
(しいねつひこ)と弟猾が選ばれた。椎根津彦は東征軍が船団を組んで

日向を発ったのち、最初に水先案内として東征軍に加わった人物で、狭野尊の信頼が厚かった。

 速吸之門
(はやすいのと・豊予海峡)辺りで漁師をしていたというから、顔は日に焼けてどす黒くなっている。

 そこへ、みすぼらしい衣を着せ蓑笠をかぶせると、哀れな病苦の老人が出来上がった。弟猾は老婆に化けさせた。

 狭野尊が兵を動かしたのは、敵陣に潜入させた二人が無事に戻ってきたあと、天神地祇に祈りを捧げる一連の儀式を終えてからであった。



30 征討軍の各個撃破作戦~撃ちてし止まん、撃ちてし止まん

 東征軍が作戦行動を起こすに際し、狭野尊が命じたのは、単純、明快であった。敵は東征軍の十倍にも二十倍にも及ぶ兵力を有している。

 しかし、椎根津彦らが掴んできた情報によれば、7,8か所に分散配置され、しかも部族を異にする場合、

てんでバラバラに守備し、全く連携していないことであった。そこで敵勢を個別撃破することにした。

 一点突破すれば、敵は浮足立つだろう。そこへ全軍が火の玉となって突き進むなら、数では絶対的に不利であっても勝利の道は開けるはずである。

 久米の部隊を先頭に東征軍は女坂を一気に突破し、その勢いで国見丘の敵陣に襲い掛かり、

激闘の末、敵将を斬った。その上、女坂を守っていた兵の多くをそっくり味方につける大勝であった。

 狭野尊はこの戦いで、初めて勝利への確信をもったと『日本書紀』には記している。

 ~神風の伊勢の海の大石に~とそのとき勇壮な久米歌が、沸き上がるように兵たちの口をついて出た。

 狭野尊みずから、あの有名な一節を唱和した。~撃ちてし止まん、撃ちてし止まん~あとは山上に響く雄叫びであり、哄笑であった。

 しかし、次なる敵は容易なことで打ち破れないのは、東征軍の幹部は皆、覚悟していた。



31 征討軍謀略の電撃作戦

 敵勢、兄磯城
(えしき)の兵たちは圧倒的な数を誇り、ヤマト南東部の磐余の地から磯城へかけて、

野にも里にも満ち満ちていた。~やむを得ぬ、謀略を用いよ~という指示がでた。

 久米の部隊を率いて忍坂の邑に行き、敵を宴席に誘って騙し討ちにせよというのである。

 密命を受けた道臣は、さっそく和平交渉に当たるとともに、敵地から近い所に工兵を派遣して、大人数が入れる大室をつくり、

そこへ敵の幹部らを招聘して大宴会を催した。こうして宴たけなわを見計らって、

久米の兵が一斉に敵将兵に襲い掛かった。いわば敵中枢を一瞬にして壊滅させたのである。

 この謀略の電撃作戦によって、狭野尊の軍勢は南ヤマトへの入り口に当たる地域を完全に制圧したのである。

 あと、兄磯城を倒すか、降伏させれば、待望のヤマト平野の一画を初めて領地として取り込むことができる。

 『日本書紀』の表現によれば~皇軍
(みいくさ)大きに悦び、天を仰いで笑う~といった調子である。