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3) 安土桃山時代

ア)太閤検地と農民の固定化

 土地経済中心の封建社会になったのが、この頃である。経済の基礎は農業生産物―米・麦・その他―であった。

 土地を耕作する農民が存在して、初めて土地としての価値があった。検地は土地の広さを計測しただけでなく、

 耕作する農民を登録し一定の年貢を納めさせる徴税の基本作業でもあった。

 秀吉は天正10年
(1582)山崎合戦直後の山城検地を皮切りに、慶長3年(1598)の死に至るまで検地を実施して、その内容を整備し全国的に制度化した。

 これが太閤検地である。その結果、耕地は洩れなく登録され、原則として農民は自由な移住を禁止され、農業に専念することを義務付けられた。

 その上収穫の3分1が自分の取り分で、残りの3分2は年貢として上納しなければならなかった。つまり検地目的は百姓身分の固定と年貢の増徴にあったのである。

 越前国の検地は、慶長3年
(1598)5月から7月にかけて長束正家はじめ10数名の奉行によって行われ、村々の石高が決められた。

 土地は上中下の階級を設け、平均収穫を算定、反別に石高を計算し、これによって藩を治める年貢米が決められた。

 この時の検地で越前国は49万石から68万石となった。穴馬地方の石高合計は148石、うち伊勢村は10石であった。

イ)刀狩りと兵農分離

 太閤検地以外で有名な農民政策は刀狩りである。刀に限らず槍・鉄砲、その他一切の武器を農民から取り上げた。

 その狙いは一揆などで封建支配者と激しく戦った農民を武装解除し、その反抗を未然防止することであった。

 全国的な発令は天正16
(1588)年7月、その理由は農民たちが武器を蓄えていると年貢などを滞らせた場合、自然に一揆を企てたり、

 領主に不法を働いたりして田畑不作の原因となる。そのようなことが起こらないよう刀などを取り上げるというものであった。

 加賀一向一揆で有名な江沼郡では「刀2073本、脇差1540本、槍160本、笄500本、小刀700本」の武器が取り上げられたという。

 こうして検地と相まって農民は完全に武装を解除され、土地に縛られた従順な年貢納入者として身分が固定化された。

 さらに天正19年
(1591)8月、奉公人・侍・中間・小者・百姓の身分に関する条規が制定され、転職が禁止されることになった。