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4) 江戸時代
ア)士農工商と農民
農業中心の社会となり、農民は社会の物質的基礎を支える人と看做された。
しかし、これは農民が社会的に優遇されることではなく、むしろ社会的に強く縛られ監視される結果となった。
農民は居所からの自由移動を禁止され、禁を破って逃亡すれば“欠落者(かけおちもの)”として追及された。
また、農民は転職を禁止され、一生を農民として義務付けられた。ただ、二男、三男は必ずしもその制限を受けなかった。
それは農民が耕地を分け、担税能力が落ちるのを防ぐためつくった“分地制限令”には、
二男、三男は出来る限り町などで商人や職人にすることを勧めている。つまり農民の転職禁止は農家の跡継ぎを絶やさないためであった。
イ)農村と農民
社会の中で農村は重要な部分を占めていた。村は農耕上の自然集落を形成し、
稲作のために共同用水路を持ち、共同入会地を持った生活集団群であった。
領主は、この自然集落を行政単位として一括支配して村年貢を徴収し、その割当てを村側に任せたのである。
普通、村政は名主・組頭・百姓代の村方三役によって進められ、
名主は村の代表者であり、年貢減免、諸役免除など領主側との交渉、入会用水問題など隣接諸村との折衝、
領主から一括、村割当て年貢諸役の農民への割り振り、法令の伝達、法令の遵守状況の監督などにあたった。
つまり名主は農民に対する領主の代弁者であり、領主に対する農民の代弁者という二重性格を持っていた。
ウ)農家と農民
農民が自分の家と家族を持ち、独立した生活をするようになるのは戦国期以降だといわれる。
農家には夫婦と子供、その父母で構成される血縁家族が一般的となるが、これを学問的に封建小農と呼んでいる。
家族数は大体5〜6人で血縁以外の下男、下女を含むのは例外であった。一般的に彼らは
一戸に一町歩(石高に直すと約10石)ほどの耕地(田畑)と居住する家屋敷及び農具を持ち、有畜農業でなかったから牛馬は持っていなかった。
農具は鍬・鎌といった手労働の手助けをする単純素朴なものであった。所有耕地は
一町歩10石が標準とされたが、一戸の人員を5人とした場合の平均所有石高は2石となる。
農家は縦三間に横六間とか、縦二間に横五間という単純矩形のものが普通で、複雑な形の家はほとんどなかった。
屋根は萱か板葺で、雪隠と呼んだ便所は大体住居と別棟に建てられた。
寛文13年(1673)いわゆる“分地制限令”が出て相続分割が制限されるようになった。
しかし、跡目相続者の取分が多い傾向はあったが、分割相続は後々まで広く行われた。
跡目相続を決める場合、武家のように長男に固定せず、長男を養子または分家に出し、
二男、三男に跡目を譲ることが広く行われた。いわゆる末子相続という相続形態である。
この相続形態は武家の長男単独相続から見ると型破りであったが、仮に戸主が20歳で結婚し、
その年に長男を生むと戸主が40歳で長男は20歳の一人前になる。
江戸期、人間の寿命は今日よりはるかに短いとはいえ、40歳で隠居するのは早すぎた。
そこで長男を養子又は分家に出し、戸主が働けなくなる50歳前後に一人前になった二男、三男に跡を譲るという形式である。
この形式は労働力配分の見地から最も合理的な相続形態だったので広く各地で行われた。
しかし、長男単独相続の武家社会風習が浸透するにつれ、末子相続と長男相続との合いの子のような相続形態が生まれてくる。
それは長男が成年に達すると父親が戸主権を長男に譲り、自分は二男、三男を連れて隠居の形で分家する方法であった。
いわゆる隠居分家というものである。隠居の場合、二男、三男の職分と先祖の位牌を持って出ることが多かったので、
後々に長男系統と二男系統のどちらが本家筋か分からなくなり、本家争いを引き起こすことが多かった。
エ)年貢・諸役と農民
農民の負担は年貢と諸役に大別され、年貢は領主に対して物で納めるもの、諸役は自分の労働力を提供するものである。
労働力の提供は、戦国期と比較し徐々に種類、日数も少なくなり、やがて助郷だけに限定されるようになる。
年貢は大別すると本途物成(ほんとものなり)と雑租に分けられ、本途物成は田畑にかかる正租、
雑租は田畑以外の収入にかかる小物成その他高掛物(たかがかりもの)である。
年貢率は当初、六公四民(10石の収穫高に対して6石の年貢)が普通であった。
幕府の年貢率は六公四民から始まり、途中、四公六民にまで落ちるが、享保の改革で五公五民まで引き戻された。
しかし、結局、三公七民強で落ち着いたようだ。藩領の場合は幕府より一般的に高かった。
年貢の決め方は検見取法(けみとりほう)と定免法(じょうめんほう)の二種類があった。
検見取法は毎年収穫期に役人が直接村々をまわり、一坪分の稲を刈取り(坪刈)、
玄米にして米の出来具合を実地検証し、その年の年貢を決める方法である。
この方法は検見役人の手加減で年貢が増減されたため、村側では検見役人への供応、贈賄が常態化し、
不正役人が私腹を肥やすだけで領主、農民ともに得るところがなかった。
オ)稲作と年貢・諸役
江戸初期の稲作は、ほとんど晩稲の一種類だけであったが、時代が下るに従い早稲、中稲、晩稲と収穫時期の違う多品種が作られるようになる。
更には米の収穫後に麦・菜種などを作る裏作が一般化すると、検見が終わるまで
収穫も農作業もできない検見取法は実情に合わなくなった。このため江戸中期に検見取法から定免法に改めるところが多くなった。
定免法は、その年の豊凶にかかわらず、予め定められた年貢量を徴収する方法で徴税事務が簡素になり、
領主、農民とも利益があるというので年貢免率の引き上げが図られた。
この定免法は一度決まると免率が変化しない固定的なものではなく、
定免年期といって5年または7年くらいで免率の切替えが行われたのが普通であった。
また年期中でも大凶作の場合は定免を止めて検見取にすることもあった。このような処置を破免という。
年貢の納入は原則的に米納であるが、畑からは米が採れないので銀(銭)で納めた。
雑租の主なものは小物成で、茶年貢、漆年貢、松山薪林年貢、池免役、網代役という田畑以外の収入源にかかる租税である。
また高掛物は、村高に掛かる雑税で定期又は臨時のものがあった。これらは銭納されるのが普通であった。
年貢を納入する場合、その他に口米(くちまい)と欠米(かんまい)が付加された。
口米とは代官所の経費として納入年貢米(銭)に一定の比率でかかる付加税であり、
欠米とは年貢納入途中に落ちこぼれたり、ねずみに食われたりする分を予め見込んで徴収するものである。
また、年貢は5里までは農民負担で運送し、5里を超える場合は5里外駄賃といって、その部分について領主から賃銭が支給された。
そのほか農民負担の労役は、村の用水、道路普請など共同生活を支えるもの以外に助郷が一番大きかった。
助郷は参勤交代その他で領主が通行する場合、その通行を助けるため近郷の村々に割り当てられた労役であり、
交通量の多い五街道周辺の村々にとって、かなり過重な労役であった。
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