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8 伊勢村の歴史と生活
前述の一般農民の歴史と生活を参考にしながら伊勢村の歴史を概観する。
(1)平安末期から鎌倉中期
この頃、越美国境にある伊勢谷は広葉樹林で覆われた未開発の原野であった。
人々がこの付近を往来した道といえば蝿帽子峠越えがあった。それは白山禅定道へ通じる道であり、越前国府と美濃国間を往来する道でもあった。
すでに越前大野郡の平泉寺北谷・南谷一帯には僧坊が建ち並び、越前馬場を拠点に白山信仰の教線が美濃国へ伸びていた。
美濃から越前を経て白山を目指す僧侶や修験者、越前の良材を求める木地師達が往来し、
伊勢谷へも美濃武儀方面から木地師達が入り込み、その一部は伊勢川最上流域の段丘上を切り拓き生活を始めていた。
その頃、伊勢谷を誰が支配していたのであろうか。この地域は、後年、大野郡小山荘の領域に含まれるが、この頃は未だ荘園の勢力が及んでいなかった。
越前大野盆地で牛原荘の領域が確立した頃で大野盆地の南部では大規模な荘園が形成されていた。
これが小山荘と呼ばれる藤原成通の私領である。鳥羽上皇の近臣として羽振りを利かした成通が
大野郡の私領を獲得したのは大治2年(1127)のこと、永真という僧侶が寄進したといわれる。
永真はこの「常々荒野地」を開発田数にして官物弁済するといって、自ら下司職になっている。
この成通の私領について、長承2年(1133)醍醐寺は「小山郷内舌村、木本小山村、小山坂尻村、左開村、
川原郷内折立村、川原村、味美村、有羅河内、左々能足河内、穴馬河内などに所在し、
田畠は数百町に及ぶによって視聴きする者皆耳目を驚かす」と述べている。
やがて、この私領は永治・久安年間(1141〜1150)に鳥羽上皇が離宮近くに建立した安楽寿院の荘園として寄進された。
伊勢村の属した穴馬郷が安楽寿院領になった頃、伊勢谷も荘園内に組み込まれたが、貢納地としては扱われなかった。
越前に多くの荘園が設立するのは12世紀後半の後白河院政期で、
牛原荘、小山荘のような大規模かつ本格的な荘園が形成されるのは鳥羽院政期である。
院政期になると田畠、集落及び山野河川を包含した地域的な荘園、つまり領域型荘園が形成された。
11世紀末以降、越前において成立した荘園のほとんどは領域型荘園である。
(2) 鎌倉後期から南北朝期
この頃、伊勢村も仮小屋から藁ぶき屋根の点在する散村の佇まいを見せ始め、農耕上の自然集落が形成された。
彼ら草分民の子孫は、他地域へ移住し木地業を続けるグループと現地に帰農するグループとに分化しつつあった。
伊勢谷を永住地に定め帰農した農民は、同族マキ集落をつくり、原野を切り拓き、主に焼畑農業によって生活した。
川から引いた水を使い、稗、黍、粟等雑穀を主食とし山野草を副食にした。
住居は藁ぶき屋根に板壁で囲み、内部は土間に炉を切り、その周囲に莚と藁を敷いて暮らした。衣類は自家製の粗末な麻の衣類を纏った。
灌漑技術が発達し水田耕作の進んだ平野部農村と異なり、海抜の高い山間地では小河川を利用する山田、谷田の開発が可能とはいえ、
水は冷たく、日照時間が短いうえ、積雪が深いなど気候的、地形的に悪条件が多かった。
そのうえ農業技術が未熟だったから水田耕作は開発されなかった。しかし、近隣集落の知恵を取り入れつつ自給自足の生活をした。
そんな頃、美濃国境を越えて伊勢神宮の御師が従者とともに布教活動中に当地へ立寄った。
これが縁となって村人は伊勢神宮御師と師檀関係を結び、神田を寄進して当地に伊勢皇大神宮神明社を建立した。
御師たちも村人の援助を受け当地に定住した。これ以後、鎮守の神が村人団結の絆となり、有力者と神主が中心となって全員で神社を維持した。
当時、村人が焼畑農で生活できる集落限界値は最大戸数16戸、人口100人以内であった。
この限界値を超えると村人の生活は苦しくなった。そこで先住者は団結し、16戸を百姓株とし既得権益を守った。
建武元年(1334)鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まるが、長続きせず南北朝に分かれ戦う時代になる。
延元3年(1338)足利尊氏が征夷大将軍となり、京都に幕府を開いた年、穴馬郷でも南朝方と北朝方の合戦があった。
北朝方に付いた美濃の土岐頼遠は越前黒丸城攻囲軍の搦手大将として越美国境の諸峠を越え大野郡西谷、穴馬郷の山地へ侵攻した。
この頃、穴馬郷でも美濃国境近くに穴馬城(砦)が築かれていたが、土岐頼遠は穴馬城を攻め落とし、大野から黒丸城へ向かった。
この年、越前燈明寺畷で南朝方大将新田義貞が戦死し劣勢となった。しかし、
翌年(1339)南朝方の脇屋義助は勢力を盛り返し穴馬城など11か所を攻略している。
こうして穴馬郷は越前・美濃間の搦手道として南北両軍勢がめまぐるしく往来する道筋として利用された。
興国元年(1340)北朝方の斯波高経が越前府中を攻略し、南朝方の脇屋義助は敗れ越前から退去した。
越前国は北朝方の領国となり、斯波高経が越前守護になるが、この頃から朝倉氏の勢力が次第に強くなり、
やがて、越前国内の各荘園を横領して戦国大名へと成長していった。
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