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(3) 室町初期から中期
南北朝後期、大野郡小山荘は安楽寿院領から春日社領に変わった。この頃の穴馬郷は上・下に分かれ、伊勢谷に散在する諸村は上穴馬郷に属した。
室町初期に越前守護に就いた斯波高経は現地に守護代を置き、平野部や山麓の領内から春・秋2回、年貢の徴収を行った。
しかし、穴馬郷は奥地のため不知行地とされた。伊勢村をはじめ諸村は、依然、焼畑農など畑作中心で暮らしていた。
水稲は日照と水回りの良い谷田か山田以外は進んでいなかった。
村人の主食も稗、粟など雑穀中心であり、果実、山野草を副食とした。しかし、次第に人口が増えると、
当初の地域だけでは暮らしが苦しくなり、村人は伊勢川下流の未開拓地へ、三々五々に移住していった。
この頃の村人の楽しみは、春・秋の祭りであった。それは鎮守の神と村人が共に楽しむ場でもあった。
村人は質素ながら御馳走を食べ、酒を飲んで神事を行った。
祭りの振る舞いは誰にも平等に与えられた。耕作前に神に豊作を祈る春祭り、
収穫を感謝する秋祭り、村人はこれらの祭りを通し、自分達が神に守られ、食糧を得ていると感じた。
村人は雨を降らし、植物を生長させる神の力に守られていると感じたに違いない。
やがて、不知行地とされた上穴馬郷へも年貢徴収が行われるようになった。
永享12年(1440)上穴馬郷公文、西方右京亮から領主春日社代官に提出した注進記録がある。
それによると上穴馬郷の年貢は、春が銭1貫文、秋が銭4貫文に御服、から苧の公事とある。
当時、上穴馬郷に集落が幾つあり、どのような区割りであったか不明であるが、史料上の初見である。
この頃、銭1貫を米に換算すると、どれほどの値打ちがあったのだろうか。
仁治元年(1240)の記録に米1俵=銭4貫、大永6年(1526)の記録に米1俵=銭6貫とある。
時代が下るにつれ物価が上がっているから、推測すると永享12年(1440)は米1俵=銭5貫位でなかっただろうか。
また、米1俵の中身は2斗〜5斗位で、時代によって容量が異なるため確かなことは不明である。
その2年後、嘉吉2年(1442)大野郡小山荘の所務を二宮土佐守が請負っている。
20年後の寛正5年(1462)には大野郡一帯を二宮信濃入道が横領し、このことを越前守護斯波持種が幕府に訴えている。
この頃、守護代、国人など在地の有力者は、貴族・寺社の荘園を横領し、荘園制度は解体しつつあった。
応仁元年(1467)に発生した応仁の乱は、瞬く間に全国に広がり、東西両軍に分かれて争い、越前国も戦乱の地となった。
この頃、越前では朝倉隆景が西軍に属し戦っていたが、文明3年(1471)越前守護にするという条件で東軍へ寝返った。
この年、浄土真宗本願寺派第8代法主蓮如は越前吉崎に御坊を開いた。蓮如の布教は瞬く間に北陸地方に伝播した。
大野郡の僻地、伊勢谷へも布教の波は伝わってきた。この頃、足羽郡大町から大野郡中野へ移住した大町専修寺の住職が、にわかに還俗した。
無住化し衰退するのを憂いた本寺にあたる三河勝鬘寺の高珍は、蓮如に相談し、後継ぎを蓮慶(石田西光寺永存の三男)に決めて専修寺を復興させた。
蓮如は、新参の大町専修寺蓮慶を一家衆として手厚く遇した。伊勢谷の諸村は、この頃に大町専修寺の門徒になったと考えられる。
しかし、蓮慶は、文明15年(1483)以前に加賀諸江(金沢市)に移住してしまった。
以後、伊勢谷の諸村が大町専修寺と、どのような繋がりを持っていたのか定かではないが、その後も本寺が手次権を有していたようだ。
文明7年(1475)朝倉隆景は大野郡を平定し、2年後の文明9年(1477)応仁の乱が終息した。
しかし、隣国加賀では本願寺の支援を得た門徒衆が中心になって一向一揆が発生し、
守護と対決、やがて守護方を打ち破り、百姓の持てる国、本願寺王国を築いた。
やがて、その力は越前へ向けられ、越前国を手中にした朝倉氏との戦いが繰り返された。
(4) 室町中期から後期
応仁の乱後、室町幕府は完全に衰退し、各地では下剋上が頻発、群雄割拠の戦国時代が展開された。
従来の荘園制度は崩壊し、戦国大名による新たな領国支配が行なわれた。
他方、穴馬郷伊勢谷への真宗信仰の浸透は、村人の意識を軽神崇仏思想へと大きく変化させていった。その影響を受けたのが伊勢神明社であった。
それまで神職に専従していた神主は、村人の援助を失い自活せざるを得なくなった。
やむなく神社近くの住居を引き払い、伊勢川下流域の中伊勢へ移住し、農業と神職を兼ねることになった。
こうして、伊勢谷をはじめ穴馬郷全体の村々は、真宗信仰一色になった。
やがて、村人は信仰と寄合のため道場を建て、真宗門徒としての連帯感を深めていった。
しかし、山間僻地のため僧侶が定住する寺院は建立されなかった。そこで宗教行事は、村の道場役の主導で執り行なわれた。
文明6年(1474)以降、加賀・越中で一向一揆が繰り返されたが、長享2年(1488)
の加賀一向一揆は守護富樫政親を攻め滅ぼし、ついに加賀一国を制圧した。
やがて、加賀一向一揆は明応3年(1494)から越前への侵攻を繰り返すようになった。
永正3年(1506)の九頭竜川を挟んだ朝倉勢と一向一揆勢の戦いは最大の決戦となった。
越前の一向一揆が集団で現れたのは、この戦いが最初であり、越前門徒を率いたのが
和田本覚寺、藤島超勝寺、宇坂本向寺らで総勢30万という大一揆軍団が布陣した。
これに対し、朝倉軍12000に越前高田派、三門徒派の坊主・門徒ら約3000が朝倉軍に味方し総勢15000であった。
しかし、朝倉軍の総大将朝倉宗滴(教景)の機先を制した渡河作戦によって、一揆軍団はパニック状態に陥り、大敗北を喫したのである。
朝倉氏は、この戦以後、吉崎道場をはじめ領内の本願寺系諸寺院を全て破却し、
坊主、門徒の土地財産を没収、国外追放処分にし、厳重な一向宗禁止政策をとった。
以後、約60年にわたる加賀・越前の一向一揆と朝倉氏との宿命的な対立が始まった。
ただ、こうした禁制下に門末が越前国内でも存続したのは、身分によって処罰に差異があったためと思われる。
道場以下の者は、非出家者、つまり俗人扱いで厳罰は下されたが、国外追放にはならなかった。
また外見からも直ちに一向宗であることが判明することはなかった。穴馬郷の門徒衆も処罰されることなく信仰は続けられた。
国境の諸峠を通して美濃、加賀の門徒衆と連絡を取り合いながら勢力を維持した。
一揆指導者の一人、大町専修寺は加賀諸江へ移住したが、一向宗の禁止された戦国期においても
毎年11月に行われる本山報恩講の斎頭役(仏事、法要を司る役)を越前大町門徒が担っていることから、
集団的門徒団として相当の勢力を有していたことが窺える。
これが、やがて美濃国郡上郡三か村と越前国大野郡六か村の「九か村同行中」として、国境を跨いで蓮如画像の下に結集することになる。
永禄11年(1568)朝倉氏と本願寺は和睦した。一向宗の禁止政策も解かれ、加賀へ亡命していた越前の諸寺院、坊主衆は復帰した。
伊勢村をはじめ諸村の旦那寺、大町専修寺の賢会も大野郡中野に寺院を再建する予定であった。
しかし、社会情勢は刻々と変化し、この後、織田信長と朝倉義景、本願寺顕如は対立し戦となる。
天正元年(1573)織田信長は第15代将軍足利義昭を追放、室町幕府は滅亡した。
同年8月、朝倉義景は刀根坂の戦で織田信長に大敗北し、越前大野において自害、一族は滅亡した。
信長は朝倉氏から織田方に寝返り、功を立てた前波吉継(桂田長俊に改名)を越前守護代に置き岐阜城へ帰陣した。
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