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(5) 織豊期から江戸初期

ア)伊勢村の歴史概観

 天正2年
(1574)正月、一向一揆勢は越前一乗谷を襲撃し守護代桂田長俊を滅ぼす。

 2月下旬から4月中旬には加賀一向一揆などが平泉寺を焼き滅ぼした。こうして越前は「一揆持」の国となった。

 しかし、本願寺から派遣された坊官、大坊主分と在地の一揆衆とが対立し、内部分裂していく。

 これを心配した本願寺顕如は「越前惣門徒中」へ宛て、馳走、忠節、仏法興隆を求めたが、応じる者は少なかったという。

 天正3年
(1575)織田信長は三度軍勢を率い越前へ侵攻した。国境を守備していた一向一揆勢は次々と敗走した。

 木の芽峠の鉢伏城を守備した大町専修寺の賢会も戦死した。その後、賢会の門徒に対する手次権を興正寺が預かることになった。

 越美国境においても信長の部将金森長近、原政茂らの率いた美濃勢が侵攻し、一揆勢の立て籠もった穴馬城を攻め落とした。

 一揆勢は散り散りになって山中へ逃げ隠れたが、厳しい山狩りによって多数の門徒衆が討死した。

 穴馬谷に、この時の伝承や記録は残っていない。ただ、村を代表し討死した七人塚だけが無言で語りかけてくるだけである。

 織田信長から大野郡の3分2を与えられた金森長近は、大野盆地、大野町、折立郷、芦見川流域の山間部、穴馬郷を支配することになった。

 その直後、長近は給人への指示、寺社に対する禁制の発給、所領の安堵、本願寺門徒に対する転宗命令を出している。

 天正7年
(1579)長近は大野町亀山に城を完成させ、3万石の城主となった。

 この時の名寄帳に伊勢10石
(上・中・下)と石高が記録された。ただ、伊勢谷の村々が本願寺門徒から転宗したという記録はない。

 転宗命令は穴馬の僻地にも届いたであろうが、次の理由から実際は転宗しなかったと考えられる。

 それは天正8年
(1580)3月、本願寺顕如が事実上、信長に降伏し、石山本願寺から紀州鷺の森へ退去した直後、

 美濃穴馬九ヵ同行は、遍照寺唯宗の取次によって真綿・糧米を運び、顕如の危急を救っていること、

 天正9年
(1581)11月28日付蓮如画像写(岐阜県大和村西念寺所蔵)に「専修寺門徒、美濃国郡上郡、越前国大野郡、両国郡山中惣中」

 という所付が記されていることなど、国境を跨いで「美濃、穴馬九ヵ同行中」が、蓮如画像の下に結集していることである。

 天正17年
(1589)美濃穴馬九ヵ同行の檀那寺であった大町専修寺賢会の子孫、唯賢が加賀国諸江から越前国三国へ転じ、

 森田伊勢松の建立した寺坊へ入った。その後、三国勝授寺を開創し、美濃穴馬九ヵ同行門徒の返還を本願寺に要求した。

 慶長6年
(1601)3月、本願寺は、三国勝授寺が大町専修寺賢会の子孫という由緒を以って

 越前大野郡に居住する本願寺門徒の「取次権」を「諸江殿」=唯賢に付与した。

 以後も「上儀」=本願寺と「興門様」=興正寺に馳走するよう命じている。この年、結城秀康が越前国68万石の領主として入封する。

 秀康は搦め手の戦略的重要性を重視し、越美国境の諸峠
(仏峠、油坂峠、市布、檜峠、蝿帽子峠等)に関門を設け、

 大野郡木本に峠下鎮を置いて総関門とした。この木本鎮に加藤四郎兵衛康寛が5000石で配置した。

 慶長7年
(1602)本願寺は東西に分裂した。穴馬谷の諸村も東西に分かれ、一村に二つの道場を持つ村が出てきた。

 西本願寺系の美濃穴馬九ヵ同行と東本願寺系の六ヵ八ヵ同行は、元々穴馬郷で一つの同行衆ではなかったのではないだろうか、

 本願寺の東西分裂によってこれら同行衆も二つに分かれたのではないだろうか、という疑念が湧いてくる。

 それに関し確かではないが、大町専修寺、大野郡長勝寺、最勝寺などの穴馬門徒に対する

 手次権の歴史的経緯をみると、どうも元々、別々の同行衆ではあったようである。

 寛永3年
(1626)7月、結城秀康の六男、松平直良が大野郡に1万石の知行を与えられ、

 穴馬郷はその領内となる。このときの伊勢村の石高は10石5斗であった。

 寛永12年
(1635)松平直良は勝山藩主に入封し穴馬郷伊勢村は再び福井藩領となる。

 寛文5年
(1665)7月、幕府の発した「諸宗寺院法度」は、各地の寺院間で檀家の帰属をめぐる争いを激化させた。

 この年、福井藩も宗門改めを行ったが、その際、穴馬郷の荷暮、半原、大谷、

 久沢の4ヵ村で真宗西派の中本寺、京都興正寺の宗判を三国勝授寺が代判を押した。

 これに対して京都興正寺坊官と福井輪番教宗寺から4ヵ村の代判を差し止められた。

 三国勝授寺は、大町専修寺賢会の子孫という由緒で本願寺への大野郡門徒の取次権を認められていることを根拠にその正当性を主張した。

 しかし、勝授寺の穴馬道場の手次権は荷暮と半原の2村に限定された。その後、下半原は興正寺門徒になり、

 荷暮も東本願寺系の大野最勝寺と西本願寺系の大野誓念寺の手次権が並立することになった。

 寛文9年
(1669)三国勝授寺は、大野郡の荷暮、半原と美濃郡上郡の神路、大間見の4ヵ村の取次権の

 復活を本願寺に訴えたが認められなかったため「預かり門徒」を残らず興正寺に返付し取次権を放棄した。

 この檀家の帰属紛争に伊勢村はみえないが、この頃、寺院の手次権関係が絡んで伊勢村のうち

 上・中伊勢は福井浄善寺を手次とし、下伊勢は従来通り興正寺門徒を続けることになったのではなかろうか。

 以後、上・中伊勢は隣村の西谷下秋生村と同じく美濃穴馬九ヵ同行から離脱し、九ヵ同行の村々に廻されていた

 顕如絵像を2ヵ月交代で両村に安置し、下伊勢は従来通り美濃穴馬九ヵ同行の一村として蓮如絵像を廻村することとした。

 貞享3年
(1686)福井藩は「貞享の大法」事件によって25万石に減封される。

 以後、穴馬郷は幕府直轄領(天領)となり、大野郡勝山に幕府代官所が置かれ、その支配下に入った。

 その6年後、元禄5年
(1692)美濃郡上八幡の藩主として井上正任が5万石で入封、うち越前大野郡69ヵ村、1万4987石を領有することになった。

 そのため穴馬郷21ヵ村は天領から美濃郡上藩領となり、伊勢村も美濃郡上藩領の一村となった。