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イ)伊勢村の暮し

 織豊期から江戸初期は、一般に中世からの家父長制的複合家族が解体し、血縁分家や名子分家が増加した時期である。

 それは家族構成を変化させ、小規模な住居を多く作らせた。

 この頃、農民は高請農民と隷属的小農民で構成され、諸村では家数、高請農民が増加、血縁分家や隷属的小農民が独立する傾向にあった。

 伊勢村は石高10石程度、30軒、150人位の山村であったが、村人のほとんどは自作経営であり、労働人口3〜5人の家が多かった。

 平野部の農村と異なり、山村で環境条件が厳しいため複合家族が多く、傍系家族の独立は難しかった。

 生きるため最も重要な田畑は検地によって石高、分米を決められたが、谷間で平地が少なく、

 そのうえ水回り不良のため水田は非常に少なく、殆んどが畑地であった。

 そこで新田開発よりも新畑開発が積極的に行われ、山地、原野を切り拓き、あらし・なぎ畑と呼んだ。

 わずかな水田で収穫された米は、ほとんど年貢として収納し、残った少量の米は特別な行事のときに食された。

 ほとんどの畑地が稗畑であり、村人は稗を常食とした。そのほか畑では芋、粟、麻、大豆、小豆などを栽培した。

 副業として養蚕で生糸をとり、楮を原料に漉き紙づくりに励んだ。

 村の大部分を占める山林は、常に燃料、肥料の供給源であり、山々の草などは重要な田畑の肥料となった。

 村では惣山を定め、村人は誰でも自由に入って草を刈ることができた。しかし、時代が下るに従い、惣山への入山競争が激しくなった。

 そこで村で掟を定め、栃、柏など木の実拾いをする場合と同じく、一定期間、入山を禁じ、解禁日に一斉に立入って草などを刈るようになった。

 この頃、本田畑の一戸平均の持高面積は約1反5畝であったが、家数が増加するとともに零細化が進んだ。

 その原因は山が深く田畑耕地が少ないうえ、反当たりの斗代が極めて低く決められたことにもあった。

 上田1反は平野部農村で15斗前後であったが、谷間の農村では3斗前後と平野部農村の5分の1程度に見積もられていた。

 ただ、これは検地で石盛された本田畑のことであり、そのほかに見取場、あらし、山林原野が経営地として利用されたことを見逃してはならない。

 元禄5年
(1692)美濃郡上藩領となったときの村高は、上伊勢5石余、中伊勢7石余、下伊勢2石余の計14石余であった。

 これからみて中伊勢が原野を開拓し、石高を高めていることが読み取れる。

 元禄7年
(1694)伊勢村の年貢割付状に小物成の一つ、紙役の上納が記録されている。

 厚紙二束36枚、比銀10匁3分3厘が賦課されているが、これは福井藩領以来、幕末まで続けられたものである。

 穴馬紙は一束=10帖、1帖=48枚、紙役一束=代銀5匁(銀納)であった。この時期、

 各戸は家内労働で紙を漉き上げ、濡れ紙を雪中に入れ、春になると乾燥させた。

 原料の楮は自家栽培していた。漉き紙は穴馬では稗と同じく金銀代用として使われた。

 元禄期
(1688〜1703)になると穴馬郷全体で戸口の減少傾向が見られる。

 慶長・寛永期
(1596〜1643)の人口、家数の増加が各戸を生活困難に陥らせ、没落、絶家が多くなった。

 その反面、零細農民は著しく減少し、比較的持高の多い農民が現れてきた。

 しかし、分家することは難しく、没落農民は有力農民に引き取られるか、下人化するしかなかった。

 こうして再び家族構成は複合化し、人数が多くなる傾向にあった。