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(6) 江戸中期〜後期

ア)村人の階層分化と貨幣経済の浸透

 江戸中期以後、社会情勢は安定するが、商業資本の浸透、年貢諸役の負担、干ばつ、冷害、水害など自然災害による凶作、飢饉が村人を苦しめた。

 寛延3年
(1750)の家数・人口は34軒、234人、山深い谷合いの地は耕地が少なく

 生活資源も乏しいため血縁分家することが難しく、家族構成は複合化傾向にあった。

 また、徐々に階層分化が進み、宝暦9年
(1759)には本百姓22軒、水呑12軒と格差が表面化している。

 これは領主への年貢、夫役など各家に割り当てられる家割負担に応じられない村人が出てきたからである。

 特別な措置として家割を免除することで本役と無役の区別ができ、やがて家割免除の無役が多くなってきた。

 これに対して享保頃
(1716〜1735)から家割の負担率を何段階に分けて賦課するようになり、丸役、半役、四分の一役、無役と身分構成が細分化していった。

 こうして階層分化は時代が下るほど著しくなり、零細農民は没落、絶家するか、本家や親戚或いは有力農民の厄介になるなどして減少していく。

 一方、零細農民を引き受けた本家や有力農民が没落農民の石高を集め、

 更に増大したかというと、そうとは限らず分家や絶家再興のため高を分けて減少している。

 天保
(1830〜1843)以降は、こうした階層分化の動きと分家、絶家再興の動きとが相交錯して進み、次第に石高3斗〜5斗の村人で平均化された。

 生活は農業が中心だったが、年貢諸役の負担や商業資本の浸透は、自給自足だけでは生活できず、貨幣を入手しなければ暮しができなくなった。

 そこで村人は林産物を商品化したり、荷物を運搬して駄賃を稼いだりして貨幣を稼いだ。

 商品化された林産物を列挙すると、杉、檜など材木の売買、屋根葺き用の枌板、檜の皮、キワダ、ホウの木の皮、モチの木の皮などの生産販売、

 油の原料になるヤマ桐、カヤの実などの産出と販売、楮の皮を原料にして紙漉き
(穴馬紙)の生産販売などで、

 荷物運搬の駄賃稼ぎは役人の御用持送り、年貢運搬などであった。そのほか面谷鉱山へ鉱夫として雇われる者も出てきた。



イ)村年貢・諸役の負担

 領主に把握された土地、戸口から毎年、年貢・諸役が徴収された。その中で本年貢は村高に加えられた田畑、

 屋敷に課せられる年貢であり、石高に対する本年貢の割合(年貢率)を免と呼んだ。

 元文3年
(1738)伊勢村の村高は10石5斗、免は五ツ一分であった。つまり石高の5割1分が年貢であり、実年貢(口米含む)として5石3斗2升8合を領主へ納めた。

 そのほか山手米として5斗8升9合、諸役として小役銀(定役銀)を徴収された。山手米は小物成
(小年貢)の一つで、

 伊勢村は耕地が少なく大部分が山地、原野のため山に依存することが多く、領主は夏・秋の二季に分けて山手米と称した年貢を徴収した。

 小役銀も小物成の一種で、夫銀、夫綿
(代銀)、小役銀、役紙(代銀)と小分けされ銀納しなければならなかった。

 元文3年
(1738)、伊勢村の銀納は143匁1分8厘である。これらを毎年、村役人が各戸割りして徴収した。

 また、領主は村人から年貢だけを徴収していたのではない。幕末になるに従い財政が窮乏し、度々村へ御用金、献金、冥加金と称し銀納を求めてきた。

 ただ、村も年貢や御用金を納めていただけでなく、水害、冷害などによって凶作、飢饉に陥り困窮すれば、

 領主に御救米や拝借米を乞うことが度々あり、財政が苦しくなった郡上藩には、かなりの負担になった。



ウ)村人の衣食住

 村人の衣食住は、今では考えられないほど貧しく質素なものであった。

◎ 衣服・履物など

 普段着は長いりものという屋内で寛いだり、寝巻きにしたりする着物を着ていた。

 冬は袖無し防寒用の綿入着物
(でんち)か胴着(どうぶく)という袖無しに袖を付けたような羽織型の綿入着物を着用した。

 仕事着
(作業衣)は作業に便利なよう膝頭までの短い筒袖の上着(さっくり)と股引き型のもんぺ(たつけ)をはいた。どれも自家製であった。

 作業着のさっくりは、自ら栽培した麻を紡ぎ、自分で織った布で作った。太い麻糸で織るので非常に丈夫な織物であった。

 一般にもんぺと呼ばれるたつけは麻布で作ったものと紺の綿布で作ったものがあり、

 麻布のものは「ぬのたつけ」といい、木綿のものは「木綿たつけ」と呼んで区別した。

 そのほか野良仕事のとき足首に巻く麻布の「切れ」を麻紐で止めるきびそまき、

 作業時に必ず足に巻くはばきと呼ぶ脚絆の役目をするもの、女子が使ったてっこうと脚絆、また作業時には専ら檜笠を用いた。

 履物はあしなかと呼んだ藁草履の後半が短いものを男女子供に至るまで常用した。

 そのほかわらじ、藁ぞうりなどもあり、冬はふかぐつと呼ぶ藁ぐつ、雪わらじ、雪わらじを履く場合に防寒用の藁で作ったしなくびが用いられた。

 さらにつまがけ、雪下駄、ぼこり
(普通の下駄のこと)、胴蓑、てんご(藁で作った農作物を入れて背負うかご、現在のリュックサックのような物)

 背板
(重い荷物を背負うために作られた道具)などが用いられた。



◎ 食 事

 昔から飢餓を防ぐため山畑で栽培できる稗など雑穀を主食とした。普段は主に稗を主食とし、

 米を節約したが、時代が下るにつれ米と稗を混食するようになった。

 純粋の米食は祝事、不祝儀等客用に用いられた。その他季節に応じて栗、しいたけ、まつたけ、

 小豆等山野に自生するものを混ぜた五目飯、ほし菜の葉、大根、馬鈴薯等を刻んでコメと混ぜた雑炊飯、

 そば、かもびえ、きび等の粉を熱いお湯かお茶で溶いて食べるいりこ、主に彼岸に作られた

 米だんご、稗、そば、かもびえ、きび等で種々のだんごが作られた。

 また、豆が多くとれたので、年間を通じて豆腐を食した。正月、盆、法要等行事ごとに豆腐を作った。

 調味料は自家製の味噌、たまり
(醤油のこと)があったが、主に味噌を使うことが多かった。

 副食はこうぼいも
(馬鈴薯のこと)、よごいも(里芋のこと)がつくられた。芋類は貯蔵し、煮しめ、塩煮等にした。

 子どもの副食としてとうもろこしも作られた。貯蔵食は、うど、竹の子等春ものから

 秋の大根、大根菜などを塩漬けにして冬から春までお汁の実にした。

 その他夏から秋にかけて獲れる川魚
(いわな、あまご、あじめ等)の塩漬け、塩鱒、塩鮭、鰊等を大根と一緒に麹を入れて塩漬けにして食した。

 さらに乾燥貯蔵食としてゼンマイ、ふき、わらび、ぎぼうし等春の山菜を大量に乾燥し年中副食材料とした。

 秋のものはまえたけ、しいたけ、きくらげ、なめたけ等天然のコケ類を天日乾燥、貯蔵して冬期の客用、行事用として使った。



○ 行事の特別食

★ 正 月

 朝の雑煮は必ず焼いた餅を入れた。餅を焼くことを「あぶる」といった。豆腐と馬鈴薯を煮添えて醤油で味付けし味噌は使わなかった。

 その他鱒ずし、昆布巻、いわな、あじめのすし、ぜんまい、ふきの煮付け等を食した。

★ 盆

 雑煮がないだけで正月の食事とほとんど変わらなかった。冬同様に塩鱒のすしもつくられた。

 いわな、あまご等の新鮮な川魚が食膳に上ることもあった。

★在家報恩講

 各家で行うお講で親類縁者を互いに招待した。この場合は精進料理で魚肉の類は用いなかった。大体、五種の料理がつくられた。

 一つはお汁
(大根の千切に豆腐を粒切りにして入れたもの)、二つは木皿(ぜんまいの辛しあい、ふき又は千切大根の豆腐あい、こんにゃく、菜のおあい等)

 三つはてしお皿
(小豆)、四つはつぼ(里芋の煮付け又は酢の物)、五つは平(豆腐又は揚げの大切の煮しめたもの1個とその上にまいたけ一片を載せる)

 僧侶には更に別のお椀に山百合の根、山芋、しいたけの煮付けを添えた。

 膳は黒塗り猫足、食器は全部黒塗り木製を用いた。但し僧侶のものは朱塗の膳、器物を用い、箸も紙に包んでおいた。

★村の総報恩講

 西本願寺派は毎年12月26、27、28の3日間、村全体のお講を道場で行った。

 この3日間は毎朝、村全体が道場で会食し、これを道場の報恩講と呼んだ。

 ご飯と食器の一部は持ち寄りで副食を区分された当番が準備した。

 膳部の上には木皿と各家の報恩講の時のおあいと同じぜんまい、ふき等のからしや

 豆腐のおあいと他に小豆の潰して固めただるま形の「たかもり」が乗っていた。

 お汁は同じような豆腐の粒切りの入った大根味噌汁で、これは大鍋に準備され、

 何杯も食べることができた。箸も自家製の檜の丸く削ったものを提供し、お汁にかける「とうがらし」も紙に包んで一人一人に提供された。

★村の月例講

 毎月16日は「お講さま」と呼ばれ、道場に集まって朝の食事を共にした。食事も各自ありあわせのものを持ち寄ることになっていた。

★夏回壇

 手継ぎの住職を迎えて盛大に執行された仏事であり、所謂、親鸞聖人一代記の御伝承を聞いて信心を深くした。

 夕食を僧侶と一緒にすることを「御相伴」といい、各家から代表者一人が参加し、

 料理も簡単な品をめいめいが持ち寄って食べた。僧侶には酒肴を添えて丁重に接待することになっていた。

○ その他行事の食物

★苗代づくり

 夕食は「ぼたもち」をつくって振る舞うことになっていた。

★田植え、取り入れ

 昼食にお椀の上に高く飯を盛って食べ残ったものは持ち帰ることになっていた。

 副食も煮付けの外に鰊を切らずに漬けたものを「ほほの木」の葉に乗せて出し、余ったものは持ち帰った。

 その他田植え、取り入れの手伝人へくず米を玄米のまま鍋で炒った焼き米を茶碗に熱いお茶を入れて軟らかくして食べさせたり、贈ることがあった。

○ その他食物

★餅 類

 米餅のほか栗餅、草餅、栃餅、豆餅、うる餅、花餅、かき餅等があった。栃餅は飢饉の時の補充穀物として重要だったから栃山を大切にした。

 共有山林などの栃の実拾いは、日を定めて同時に拾うようことになっていた。

 栃の実は天日で石のように堅く乾燥すれば2〜3年は貯蔵することができた。

★肉 食

 山に住むクマ、うさぎ、たぬき、穴熊、カモシカ、さる、むささび等の肉を冬季だけ食べることがあったが、

 家畜を食することはなかった。鳥類は山鳥が多く、稀に「かも」を食べることがあった。

★果 実

 気温や湿度、特に日照時間等の関係からか梨、柿、葡萄等の栽培は難しかった。

 特に柿は海抜500m以上では甘柿も渋くなり、竹と同じく生育の限界点を超えていたようだ。

 ただ、山の果実として柴栗
(小さい粒)、はすんば(小さい栗のような実で乾燥して食べた)

 山葡萄
(えび)、がや(ドングリの実に似た形のもの)、くるみなどを拾って食べた。



◎ 住 居

★ 萱葺きと板葺き

 ほとんどが萱葺き住居であり、板葺きは極くわずかであった。また、平入りと妻入りが見られたが、

 これは村が渓谷に沿った台地にあったから、住居は川の方向に平行して建てられ、

 妻の方が道路又は南面が妻である等通路と南面によって妻入り、平入りが定められたが、内部の様式はほとんど変わりがなかった。

★ 家屋の間取り

 階下は大別して客間、寝室の部分と台所に区切られた。便所、炊事場、土間、厩などは台所に付随していた。

 奥座敷又は客間のことを「で」といい、ほとんどは仏間を兼ねていた。

 寝室のことを「なんど」と呼んだが、昔は貴重な食物、穀物置場だったと考えられる。

 台所は「うわ台所」と「した台所」に分けられ、台所のことを「じろ」と呼び「うわじろ」「したじろ」と呼んだ。

 うわじろ、したじろ、中の間の中心には大きな炉があった。したじろの炉には大きな五徳が置かれ、炊事など煮炊き一切をここで行った。

 それ以外の炉は行事用に使われた。炉の上方に「あま」と呼ばれる方2m程度のものが太い縄で吊るされ、

 その中心に木製の短い鉤があり、濡れたものを掛けて乾すことができた。

 炉には太い薪が燃やされるので煤で漆のように光っていた。したじろの一方には「うつしや」といって米搗き場があり、石臼が置かれていた。

 他方に「みんじゃ」と呼んだ水屋
(現在の炊事場)があり、谷水、清水をカケヒで引いて大きな水槽に入れた。

 この水槽は大木をくり抜いて造られ「ふね」と呼ばれた。みんじゃの隣に紙すき場があった。

 小便所は入口の土間の隅に大便所と離れて単独であった。

 履物を置く土間のことを「にわ」といい、厩と向き合っていたから馬桶、馬草など置くため広くとられていた。

 厩は土間に面して家畜を入れる場所で、多くの堆肥が得られるように深く穴のように掘ってあった。

 萱葺き屋根の二階はほとんど床張りはなく竿を並べてあった。その上に筵を敷いて、物を置いたり、埃が落ちるのを防いだ。

 萱葺きの家の二階を「つし」といい、屋根裏を「やはら」といった。物置場として広く使用できた。

 煙で階上を煤かすことは屋根の保存に極めて有効であり、階上に万遍よく煙を廻すことに気を配った。

○ 付属建物

★ くら:ほとんどが板倉であった。

★ 水がらす:住居にある「からうす」が足で踏むように出来ているのを水で動かすようにしたもの。杵が上下することで米や雑穀を搗くことができた。