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エ)真宗信仰と村人の習俗

 村人は毎朝4時半頃
(冬期は6時頃)、道場で叩く太鼓の合図で起床し、1戸に一人は道場に集まりオアサジを勤めた。

 ご番
(当番)は村人の廻り番で道場の鍵を引き継ぎ、太鼓を叩いたり、ご仏飯のお供えをしたりした。

 オアサジは真宗教団による早朝のお勤めであるが、僧侶が不在のため道場役が主導し、

 正信偈、ご文章を唱和し、参詣人一同でご仏飯のお下がりをいただいた。

 オアサジを済ませ帰宅すると、食前に各家の仏壇で正信偈、ご文章のお勤めをした後、

 朝食をとり、夜も同じように食前に同じ勤めをするのが習わしであった。そのほか月例講、回檀、総報恩講などは次のように行われた。

◎ 講

 講は道場で行う総報恩講と毎月のオコサマ
(月例講)及び各家で行う在家報恩講等があった。

★月例講

 西本願寺系に属した伊勢村は、月例講を宗祖親鸞聖人の命日
(28日)と前法主の命日(西本願寺系16日)の2回行った。

 仏事は道場役が主導し、正信偈、ご文章を唱和し、その後、お座で世間話などして、お斎の食事を共にした。

 月例講がいつ頃から始められたか定かでないが、毎月の講が前法主の忌日という建前を継承していることから蓮如の頃に遡ると考えられる。

★総報恩講

 年中行事のうち最も盛大に営まれたのが総報恩講であった。これは親鸞の祥月命日に営まれるもので、

 伊勢村では大体12月に道場役の主導で行われた。1週間を通じ朝昼晩3回のお勤め、

 28日のお逮夜の後でオセヤ
(お済夜)があり、村人全員でカヤの実や栗の実を持ち寄って食べながら子供から老人に至るまで道場で夜を明かした。

◎ 回 檀

 伊勢村では毎年2回、夏、秋に回檀が営まれ、ご伝鈔読誦、説教が行われた。

 夏は道場で報恩講、秋は在家の年忌法要や報恩講を手次僧が勤める慣習になっていた。なかでも夏の回檀が最も重要視された。

 夏回壇の報恩講は、大体8月20日前後に手次僧が来村し、その夜は三部経やご伝鈔を読み、

 初夜礼讃をあげ、さらに説教をして初夜を勤めた。翌朝は6時半の鐘で“オアサジ”を始め、午後2時からお逮夜を勤めた。



◎ 本願寺直参門徒の起源と変遷

 穴馬郷の村人は、古くから直参門徒としての伝統を誇り、道場の運営をはじめ各種行事を自主的に営んできた。

 穴馬郷で直参門徒と呼ばれたのは、九ヶ同行
(西本願寺系)と六ヶ八ヶ同行(東本願寺系)があった。

 伊勢村は九ヶ同行に属したが、実際は本願寺末寺の大町専修寺
(当時、越前大野)九ヶ同行の手次権を有していた。

 それが天正3年
(1575)織田信長の越前一向一揆討伐によって、大町専修寺の僧侶賢会が戦死したため、

 その後、興正寺
(京都市)が手次権を預かったという。

 やがて信長と本願寺の石山合戦が終わり、天正17年
(1589)頃、加賀方面に潜伏していた賢会の遺児が現れ、

 勝授寺
(坂井市三国町)を開創、穴馬郷の門徒返還を本願寺に要求した。

 その結果、勝授寺の手次権は荷暮と半原に限定され認められたが、両村はその後、

 勝授寺を離れ、下半原は興正寺
(京都市)、荷暮は東本願寺系の最勝寺(大野市)と西本願寺系の誓念寺(大野市)に転向した。

 このように本願寺直参門徒や手次権問題等は、諸事情によって変遷したが、その経緯を探ってみた。

★ 本願寺直参門徒の起源

 越前一向一揆が盛んだった天正元年
(1573)頃、穴馬郷は一村に一道場を有する浄土真宗一色の地域であった。

 当時の門徒は、九ヶ同行、六ヶ八ヶ同行という地縁的な結束は薄く、村毎に手次権を有する本願寺末寺に結集し、その指令で一揆に加勢していた。

 その後、石山戦争が起こり、本願寺法主顕如が越前一向一揆と結びつき、合力を催促した頃から穴馬門徒との関係が生まれた。

 天正8年
(1580)本願寺法主顕如は信長と和睦、石山本願寺から紀州鷺の森へ退去、困窮した頃、

 京都遍照寺唯宗から顕如救援の勧請を受けた穴馬門徒は、真綿、糧米を鷺の森へ運び、顕如の危急を救った。

 その労に感謝した顕如は、穴馬門徒を直参門徒にしたという。これが九ヶ同行の起源である。

 他方、六ヶ八ヶ同行は、本願寺法主顕如が信長と和睦、石山本願寺を退去したとき、その長男教如は信長との抗戦を主張して石山本願寺に立て籠もった。

 このとき穴馬門徒は最勝寺
(大野市)に呼応し教如救援のため参戦し、その功労で直参門徒を許されたという。



★ 穴馬門徒の直参希望と本願寺の門徒政策

◇ 天正9年
(1581)11月28日付蓮如画像裏書(岐阜県大和村西念寺所蔵)には「専修寺門徒美濃国郡上郡、越前国大野郡両国郡山中惣中」という所付が記されている。

 これは美濃国郡上郡三ヵ村と越前国大野郡六ヵ村の「九ヵ村同行中」が国境を跨いで、この画像のもとに結集していたことを示す。

◇ 天正12年
(1584)長勝寺門徒連署状には、穴馬門徒は石山戦争以後も長勝寺門徒の立場を堅持するという文書がある。

 これは穴馬門徒が一時、長勝寺門徒から離脱していたことを示す。

◇ 天正17年
(1589)頃、唯賢(永禄5〜元和7)は加賀諸江坊から越前三国に転じ、森田伊勢松の建立した寺坊に入った。

 その後、勝授寺を開創、九ヶ同行門徒の返還を要求している。

◇ 文禄5年
(1596)長勝寺への帰参を誓った連署状は、その後も穴馬諸村の門徒が長勝寺門徒から離脱する傾向が続いたことを示す。

 その理由は本願寺直参門徒を主張したからであろう。

◇ 慶長6年
(1601)三国勝授寺は、専修寺賢会の子孫という由緒をもって本願寺への大野郡門徒の取次権が認められた。

◇ 慶長7年
(1602)教如が東本願寺を開き、本願寺は東西に分裂する。

◇ 慶長16年
(1611)勝授寺と改称した初見史料の存在

◇ 慶長16年
(1611)下間少進法印仲孝から穴馬門徒宛の書状内容は「直参を主張し

 長勝寺へ不参の門徒、言語道断である。早々に長勝寺へ帰参すること」というもの。

 これは慶長年間、すでに八ヶ門徒と呼ばれて直参の主張が強かったための係争である。

 以上から慶長年間、穴馬門徒の直参化傾向が強くなり、本願寺は極力これを抑止しようとしていた。

 しかし、その後、門徒団の根強い要望に支えられ、穴馬門徒の直参化が実現するが、

 長勝寺等は手次という名で、依然、穴馬門徒と本願寺との間に介在した。三者の妥協が、このような形になったものと考えられる。

 慶長7年
(1602)本願寺が東西に分裂後、穴馬門徒もその影響を受けて東本願寺系、西本願寺系に分かれた。

 穴馬郷内でも東西に分かれ複数の道場が出来た村もあった。

 さらに末寺門徒から離脱し、本願寺直参門徒になる希望が強く、西本願寺系の九ヶ同行、東本願寺系の六ヶ八ヶ同行が形成されたのであろう。



★ 九ヶ同行
(西本願寺系)の変遷

 当初、九ヶ同行は穴馬郷内では荷暮・伊勢・久沢・大谷・半原の5村、西谷郷内では

 秋生の1村、美濃郡上郡では為真・大間見・川辺の3村、合計9村落で形成されていた。

 その後、本願寺の政策や手次権問題等が絡み、当初の編成から離脱した村々があった。

 伊勢村の2垣内
(上伊勢・中伊勢)、半原村の1垣内(上半原)、西谷郷の秋生村が離脱し、手次寺である浄善寺や興正寺の門徒に転向した。

 このとき、浄善寺の手次門徒になった上伊勢と下秋生は、九ヶ同行で廻村されていた顕如絵像を2ヵ月交代で道場に安置することになった。

 おそらく寛文5年
(1665)7月、幕府が発した「諸宗寺院法度」により、檀家の帰属をめぐって、

 この頃から寺院間の争いが激しくなったことが一因ではなかろうか。

 昭和30年代に入り下秋生がダム建設で水没離村すると、顕如絵像は上伊勢道場だけに安置されることになった。

 九ヶ同行は蓮如絵像を離村まで廻村していた。この蓮如絵像は西本願寺広如から嘉永元年
(1848)7月に下付されたもので、

 裏書に「興正寺門徒」である「美濃国郡上郡越前国大野郡両国界」にある「山中惣道場」へ下付とある。

 これをみると九ヶ同行も、いつの頃からか直参門徒は形式化し、実質は興正寺門徒になっていたのである。



★ 六ヶ八ヶ同行
(東本願寺系)の変遷

 寛永11年
(1634)の穴馬六ヶ組直参は、池、大谷、米俵、箱ヶ瀬、小川原、本戸の6村で形成されていた。

 約60年後の元禄9年
(1696)には、池ヶ嶋、大谷、米俵、箱ヶ瀬、小川原、本戸、小沢、池尾の8村で八ヶ同行になっている。

 これを見ると、当初、六ヶ同行は穴馬郷の5村に、西谷郷の本戸1村であり、約60年後には穴馬郷の5村と西谷郷の3村に変遷している。

 天明5年
(1785)の信証院真影裏書に「穴馬八ヶ谷市布村直参惣道場常住物」とあり、

 文化9年
(1812)東本願寺から下付聖徳太子像や三朝高祖像には「越前国大野郡穴馬八ヶ谷六ヶ谷十四村直参惣道場常住物也」と記されている。

 こうしてみると村名変更、合併、分村等区画変化によって六ヶ八ヶ同行の原初形態は変遷し、

 その過程を把握することは困難である。要するに九ヶ同行、六ヶ八ヶ同行は、東西本願寺が編成した穴馬門徒の地縁的結合の一形式であったといえよう。



◎ 道場と道場役

★ 道 場

 村人の生活と浄土真宗を堅く結びつけたのが道場であった。道場は真宗教団の原初的形態を有し、一集落一道場を原則とした。

 しかし、本願寺が東西に分裂すると、村人も両派に分かれ、道場を二つ持つ村が出現した。だが、村の世俗的な寄合は西本願寺系道場で行われた。

 道場は村人の合力で建設され、土地、建物は村の共有で、改修等臨時の諸経費は村人の共同負担で賄い、平等かつ民主的に運営維持された。

 幸い伊勢村は東西に分派することなく、上、中、下の各垣内に一道場を持っていた。

 ここで総報恩講、月例講、回壇等の宗教行事のほか、寄合、盆踊りなど世俗的行事も行われた。

★ 道場役

 元来、この役は世襲制で、村内本家筋の隠居的地位にある者が得度し、道場役を務めるのが一般的であった。

 しかし、僧侶の身分を持たず俗体の者が多かった。道場役は道場内外で行われる講など宗教行事の導師を務め、手次僧の来村が困難な時は葬式の主導も行った。

★ 道場の間取り

 道場内は内陣と外陣に分かれ、正面中央の内陣は御堂より一段高く襖で仕切られていた。

 仏間の中央に阿弥陀如来の絵像
(方便法身尊像)、向かって右には「帰命尽十方無碍光如来」(十字名号)

 左方に「南無阿弥陀仏」
(六字名号)の三幅が掛けられていた。

 内陣の両側には小部屋があり、一方は僧侶の宿泊所、他方は法物類の置場になっていた。

 外陣の御堂には三か所の炉が設けられ、板敷で筵が敷かれていた。入口から土間に入ると太鼓が吊ってあり、土間の脇に炊事場があった。



◎ 重層的な寺壇関係

 前記のとおり石山戦争以来、穴馬門徒は東西本願寺の直参門徒としての伝統を誇り、

 寺壇関係で末寺の所属門徒とは、かなり異なった意識を持っていた。

 両本願寺を正式の檀那寺とする意識が強かったものの、実質は大野の最勝寺、長勝寺、誓念寺、光明寺、

 福井の浄善寺、美濃郡上八幡の安養寺、京都の興正寺等が檀那寺で手次権を有していた。

 しかし、穴馬の村々は手次寺が遠隔地に存在し、冬は雪が深いなど自然的条件が悪かったため、

 宗教行事を手次寺だけに依存できず、道場役の代行が多かった。

 江戸末期の文政3年
(1820)、本願寺が経済的窮迫に陥り、穴馬門徒へも支援を乞うた文書が今も伝わっている。

 それは本山への経済的奉仕が信仰の厚薄と表裏一体の関係にあり、

 生活するため余裕がなかった穴馬門徒も直参門徒としての伝統を担いつつ、経済的奉仕に尽力した一端が窺われ興味深い。