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オ)伊勢村の特異な出来事
江戸時代、水害、冷害、雪害、台風など自然災害に見舞われ、困窮したことが度々あったであろうが、記録が残っていない。
ただ、上伊勢の鎌倉源助方所蔵の年貢取立万覚書帳の中から出火始末口上覚という火災史料が発見された。
これは民家8軒、道場1軒が焼失した大火であり、村人の困窮した特異な出来事といえる。その記録を口語訳すると次のとおり
@ 出火日時 天明5年(1785)旧暦11月29日朝、辰刻
A 出火場所 上伊勢村 市左衛門方灰小屋
B 被災家屋 民家8軒、道場1軒全焼
C 火災に至った経緯
旧暦11月29日を新暦に読み替えると今の12月下旬から1月上旬の真冬で、朝、辰刻は、今の午前8時頃である。
出火元である市左衛門方の家族は8人(夫婦、子供3人、両親、伯母)であった。この日、老人と子供3人を残して市左衛門夫婦は、早朝から近くの山へ薪を取りに出かけた。
折柄、風が強く、灰小屋の残り火から出火、民家の外周を雪囲いのため包装した萱や藁草に飛び火し、忽ち炎上した。
火は近くの隣家に次々に燃え移り、村の半数を焼失する大火になった。この火災事件から江戸中期の村人生活の一端が窺われる。
★住居の規模
小さい民家は間口3間、奥行3間、大きい民家は間口4.5間、奥行8間と各民家の規模は一定していない。
その他の家屋規模は次のとおり
◎ 間口4.5間、奥行7.5間
◎ 間口4間、奥行6間
◎ 間口4間、奥行6.5間
◎ 間口3.5間、奥行5.5間
◎ 間口3間、奥行4間
このほか雪隠小屋(1間〜1間9尺四方)、灰小屋などが付置されている。
★道場の規模
間口3.5間、奥行6間であった。ここで気になったのが内陣正面に掛けてある阿弥陀如来絵像や十字名号、
六字名号など法物類の行方がどうなったのかということ、焼失してしまったのか、村人の手によって難を逃れたのか、この史料では明らかでない。
★持高百姓と水呑百姓の階層分化
次に資料から推測できるのは、持高百姓と水呑百姓の階層分化である。被災者8軒のうち持高百姓が5軒、水呑百姓が3軒ある。この時代、村人の階層分化がみられる。
★持高状況
持高の少ない百姓が1斗4合、多い百姓が5斗4升2合で、1軒平均3斗1升1合であった。
★冬季の村人生活
越美国境にある伊勢谷は、今も豪雪地帯である。225年前も同様であったことだろう。
特に12月下旬から1月、2月は雪が深い。本来なら家の中に閉じ籠り、藁仕事に精出す季節である。
しかし、この年は雪が少なかったのか、或いはなかったのか、村人は近くの山へ薪取りなどに外出していた。
冬は強風が伊勢谷を吹き抜ける寒い日が多かった。村人は毎年、冬支度に自宅の外周を萱や藁草で包装し、出入口を1ヵ所にして雪や寒風を防いだ。
その上、自宅外周には冬支度用の薪類が積み上げてあった。これが災いし、水不足と相まって大火となった。
★その後の罹災者の生活
罹災した村人達は、冬をどのように過ごしたのであろう。記録は藩主への火災報告だけで、これ以上は分からない。
他資料を参考にすれば、火災の場合は隣村が火事見舞・人足を出し、罹災者の多くは親類・村方の世話になり、
それでも生活し難いときには村役人を通じて藩主に御救いを願うことが多かったという。
火事を出した家は、炎上の翌日に親類付添で村中各戸に詫言して廻り、罹災した家が普請し終わるまで、
資力があっても元の屋敷に新築して引き移ることはできず、在所のはずれに出て小屋掛けして遠慮したという。
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