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2) 室町時代
ア)郷村制と惣村の発達
名主に隷属していた零細農民も、ようやく自立し小規模な名主として経営を始めるようになる。
農民達は利害を同じくする村々と惣的な団結を強め、荘園制解体への道を歩み始めた。
当時、荘園や農村に住んでいる人々の身分は様々であった。侍分は名主と呼ばれた地主級の人達で、
その中には荘官もおり、荘内の主導的立場の有力者層であった。
土着の土豪も当然侍分に属していた。しかし、彼らは根本が農民であったから事が起これば
一般農民と同じ利害に立ち、年貢減免の要求などは先頭に立って強訴した。
彼らは百姓とも呼ばれ、中には地主の身分を持ちながら、他の名主の田地を請作する者も少なくなかった。
村では鎮守の神が村人のまとまりの絆となり、侍分が中心となって宮座を結成した。
こうした組織をもった村を、一般に「惣」または「惣村」と呼んだ。
広範な惣村の発達は荘園領主の権力後退を意味し、各地で惣村が発達すると
村人は団結して領主に抵抗し、代官の交替を要求することも可能になった。
農村では惣が発達し、また都市には町人達の組織が結成された。こうして自治的能力を持った農民や町民達が出現すると、
彼らは力によって要求を貫徹しようとした。やがて、その行動は大規模になり各地に蔓延していく。
イ)土一揆の頻発
当初、畿内諸国を中心に土一揆の基盤ができ、室町初期に発生した形跡がある。
しかし、正長元年(1428)近江馬借の蜂起が大規模化した土一揆は天下の耳目を集めた。
騒ぎは忽ち山城・大和・和泉等畿内諸国に波及し、さらに播磨の土一揆は守護と抗争する強大な動きとなった。
その主な目標は徳政の発布、年貢減免等の経済的な要求であったが、
国人と呼ばれた土豪等が主役の一揆は、守護を排除する政治的意図が表面に出た。
また、宗教的要求を掲げた北陸一帯の一向一揆も国一揆の一つと見られる。
土一揆の要求した徳政は、鎌倉末期に幕府が実施した永仁徳政にならったものであった。
ウ)戦国期の下剋上と農民
戦国期の大きな特徴は下剋上で、国人大名の登場はそれを象徴している。
この頃、戦闘主力は一騎討ちを競った騎馬武士に代わり、足軽と呼ばれる軽装の歩兵部隊になってきた。
足軽が注目されるようになったのは応仁の乱からで、鎧も着けず矛も持たず、
ただ一剣をもって敵陣に突入し、時に敵を捕え、その首級をあげることもあった。
多くの足軽は浪人か、農村から出た百姓であり、土一揆などで活躍した勢力であった。
しかも彼らは雇兵だから、利益の多い方へいつでも寝返るし、規律などは守らず、戦争にまぎれて放火、略奪など無軌道な振舞が少なくなかった。
しかし、この無軌道な足軽を規律ある歩兵部隊に組織し、彼らに弓・槍・鉄砲を持たせ
新しい戦術を編み出したのが戦国大名である。殊に鉄砲隊の編成は、足軽部隊の威力を一段と発揮させることになった。
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