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7 一般農民の歴史と生活

1) 鎌倉時代

ア)村落と水田

 この時代の農村村落は、およそ次の三形態に区別される。

★条里制が整然とした山城・大和等平野部に散在した古代以来の村落

★大河川近くの自然堤防上に約1町歩、1屋敷の割で分散した村落

★山間部の谷あいに屋敷が一つ一つ孤立し分散した村落

等である。村落の歴史からいえば、散村からやがて集村に緩やかに移り変わっていく一つの過渡的な姿を示し、郷村制と農民結合の新しい芽生えが見え始めていた。

 一方、水田は村落と密接に関係し次の三つに分けられる。

★山城・大和等古代以来の人工溜池や用水溝が整備された平野部の水田

★在地領主の力で自然堤防や人工堤防裏側の低湿地帯に開発された水田

★山間の湧水や小河川を利用して開発された、いわゆる山田・谷田等である。

 中世の耕地は灌漑技術の水準で決定された。つまり、耕地開発は、技術水準が低かったため、低湿地帯や山田・谷田型耕地の開発が中心だった。

 多くの耕地が公家や大社寺の荘園として領有され、これを構成する基本的単位が名田であり、

 名主は名田畑にかけられた一切の年貢・雑公事・夫役を負わされていた。

 名主は農民というより在庁官人・郡司・郷司・地頭・御家人の地位と身分を持った支配階級が多く、

 名田を実際に耕作したのは、名田に居住した隷属性の強い在家と呼ばれた農民である。

 村落は広々とした山野に、農家がまばらに侘しく見え隠れする程度であり、耕地も山野のあちこちに点在したに過ぎない。

 村里は一面が林に覆われて草深く、その景観は荒涼とした原野に近かった。

イ)農民生活

 この時代の農民を分けると次のようになる。

1)家父長制的な複合家族の形をとっていた名主層
2)作人ないし小百姓と呼ばれた小農民層

3)地頭や名主に隷属し、売買・譲渡の対象にされた下人所従層
4)荘園から荘園へと巡り歩いた浮遊農民層

 このように複雑な階層、身分関係は、古代から中世にかけての種々な内部矛盾を反映していた。これら農民の代表が名主であった。

 荘園領主と名主との間に結ばれた関係と並行し、在地領主と農民との間に結ばれた、

 いわゆる封建的関係が次第に前者の関係を圧倒していった。この新旧二つの関係が、しのぎを削った時代でもあった。

 荘園領主に貢納責任を負わされた名主は、段別3ないし5斗程度の年貢米、野菜、果樹、

 絹、麻、藍、茜、魚等雑公事、警固、年貢運搬等の労役夫役を負担した。

 ただ、すべてを名主が負担したわけでなく、従属した小百姓や下人に転嫁する場合が多かった。

 段別5斗の年貢米、その他の付加税、臨時課役の追加など農民負担は想像以上に重かった。

 この頃の農民生活がどんな様子であったかを衣食住に分けて概観すると、名主の屋敷は垣根をめぐらし、

 門にしめ縄等を下げ一応体裁が整えられ、屋根は藁葺き、壁は荒壁で床はなく、土間が普通であった。

 室内は板戸で2ないし3間に仕切られ、高所に小さな窓があり室内は昼でも暗かった。

 下人小屋はさらにひどく仮小屋にすぎなかった。農民の衣類は一般に粗末な麻が多く、木綿は中世末期、大陸から初めて伝来したものである。

 米食は少なく、麦、粟、稗等雑穀が主食で、せり、つくし、やまいも等野草が主な副食であった。

 重労働の職人は食事の合間に間食が支給される習慣があったが、一般に上下とも二食の時代であった。三食の習慣になるのは室町以後といわれる。

 重い負担、厳しい身分差、貧しい生活で沈んでいた荘園村落内の農民間に、やがて一つの大きな変化が兆し始める。

 鎌倉末期以降、作人、下人等小農民の広範な自立化の動きである。これは小農民達の経済的自立の傾向、担税能力が増大したことによる。

 従来の名主中心による収取体制が後退し、荘園支配が一つの曲がり角にきていた。

 それは村落の秩序、農民の統合や闘争方式にも重要な変化が起きる。鎌倉末期になると荘園村落内では地頭、

 荘官の排撃事件、年貢減免や逃散等反荘園制闘争、境争論、用水争論等一連の事件がにわかに頻発する。

 小農民層を加えた新しい村落の結合を普通「惣」と呼び、とくに畿内及びその周辺地帯で広く形成された。

 それは、やがて荘園制を根本から揺るがし、中世後期社会を揺るがす土一揆の母体となった。