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(7)大野市(旧西谷村)若生子
木曽義仲に敗れた平氏が若生子に逃れ、都をなつかしんで踊った扇踊りだという。
(8)大野市(旧西谷村)巣原
独特の歌舞と太鼓に合わせ「こいしくば尋ねてござれ京の町、むね名は右京助」と歌いつつ舞う平家踊り(太鼓踊り)が伝承されている。
村に直結し南東に平家平があり、伝説の平家窟がある。寿永2年(1183)、源平合戦(倶利伽羅峠合戦)で敗退した平家落人が隠れ棲み、かつて60軒あったという。
(9)大野市(旧西谷村)秋生
村人は近くの屏風山で源平合戦があったと伝承している。
(10)大野市(旧西谷村)温見
冠山戦で敗れた平家の将門が温見・小沢村間を往来したという。
村に平家将門墓と伝えられる室町期形式の宝篋印塔(高さ約37a)がある。
将門の子孫という三人衆がおり、村の自治は三人衆を含め九人衆で采配された。毎年2月3日には将門祭りがあって宮座の古式に則って行われた。
(11)大野市(旧小山村)下舌
越前農協小山支所左路地100bの北側地点に「小字32赤谷野」「下舌小字10赤谷添」という土地がある。
この土地は福井市(旧美山町)赤谷に符号する場所で、赤谷は平家・平維盛の後胤が棲みついた村と伝えられ、
平家の旗印色の赤であることから赤谷と称し越前内外の諸戦に3人が参陣したという。
松平直基の時代に奉公人として出仕しなくてよい代りに、銀600匁を毎年上納することになった。
その名残りが出陣のために与えられた新田野の屋敷で赤谷野・赤谷添の小字名として残ったという。
赤谷の脇本輝夫氏の裏山に近世建立の墓があるが「左近衛中将(近衛権中将)平維盛朝臣霊」と刻字され、平氏の家人であることを示している。
(12)福井市(旧美山町)赤谷
寿永2年、木曽義仲が平家打倒の兵を挙げ上洛のため北陸道を進撃した時、平清盛は平惟盛を討手の総大将として派遣し燧が城の合戦で大勝した。
逃走する義仲軍を追った惟盛は越中境の倶利伽羅峠で義仲軍に大敗し逆に追われて四散した。
この戦に出羽国赤谷から平家一員として出征した赤谷某が合戦以来姿を消し、この辺りに逃げたという。
赤谷村の一大岩壁に「平家堂」と呼ぶ石窟社に惟盛公が安置されたという。
(13)今立郡池田町東角間
池田町東角間に「赤谷家」と呼ばれる旧家あり、味見の赤谷から移ったという平家のシンボル「あげ羽の蝶」を染め抜いた麻の布地と系図、
尺余の阿弥陀金仏を家宝として伝えている。昔は赤谷の平神社祭礼に村人が迎えにきたので出向いて司祭をしたという。
(14)鯖江市尾花
★ 殿上山と美山赤谷
赤谷に隠れた平家落人一族は、この旧赤谷村の奥、殿上山(標高683m)に見張所をつくって周囲を警戒し、
旧下池田村(池田町)蒲沢に隠れた一族と絶えず狼煙で連絡を取り合ったという。
殿上山は、ここに隠れた人達が時勢が変わり「出自」を誇って命名したという。
(15)南越前町(旧南条町)瀬戸
源平合戦に敗れた平家の落武者が宅良谷へ逃げ百姓になったという。その後、伊藤家一族を除き子孫は絶えたが、伊藤家は宅良郷の大庄屋として活躍したという。
伊藤家屋敷は今も伊藤氏庭園として有名。庭園は江戸期の庭園図本を手本に造園され、昭和7年(1932)国の名勝に指定された。
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