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6 越美国境の落人伝承
(1)大野市(旧上穴馬村)久沢
★平家岳
源平合戦に敗れた平家の残党が山深く逃れ、隠れ住んだのが平家岳山頂。海抜は1440bだが、頂上はやや平坦で湧水がある。
★平家平
久沢の平家平に平家の残党が逃げ住んでいた。しかし、見つかって滅ぼされた。
★平家岳麓の墓石
麓から離れた別の谷間の合流点に12,3個の墓石が列立し、真中は高く両脇は次第に低い石が立ち、あたかも主人、家来の墓の区別を示すようである。
★平氏が源氏の兵を待ち受けていた所
オオゼ待ちと呼ぶ。ここで平氏が敗れ山へ逃げた。源氏はその山を焼き払った。
それでこの山を焼原という。焼原でも敗れて隠れた山をかくれ山と呼んでいる。
(2)大野市(旧上穴馬村)上半原
★平治元年(1159)源平合戦(平治の乱)で敗れた長谷川籐五郎久勝が追手からの難を逃れ、籠った小洞がある。ここを籠り洞と云う。
(3)大野市(旧上穴馬村)伊勢
★三嶋又左ェ門方古文書
先祖は平資盛の子資常で、伊勢の地名は伊勢平氏に由来するという。
「元久元年(1204)3月、平家残党が伊賀・伊勢に蜂起し、資常は見島太郎と称して伊州の先鋒であった。
まもなく鎌倉の兵に敗れ、資常は逃れて飛州の山間に隠れる。住来の野人が見島殿と称す故に、
世を憚り更に三島谷と改め、越前大野郡南山中に身を隠す。
資常の弟に次盛がおり、三島は平家一族にも事を知られることを恐れ、姓を辻と改め、部下16人も同様改名した。
小沢源吾は源助、山下和泉は市兵衛、佐伯帶刀は七左衛門、新金吾貞助は新左衛門、丹嶋治郎は治郎左衛門と改名した。
(4)大野市(旧上穴馬村)東市布
★原左近衛門の先祖由来記
平治元年(1159)の乱のとき、伊藤左衛門尉藤原勝繁は源氏に味方せず、
その子勝正は平家没落の時、平維盛を匿い僧の姿にして大和へ逃がしてやった。
これを知った源義経は怒って勝正の首をはねようとした。勝正は急いで僧に姿を変え、薬師如来の尊像を笈箱に入れ、
文治元年(1185)愛宕郡大原を出て近江国八幡の弟子宅に滞在した。
鎌倉幕府の平家落人詮議が厳しくなったので文治2年(1186)3月下旬近江八幡を出て北美濃に向った。
郡上を経てから越美国境の高山を分け登ってみると柴の庵が5軒あり、
この地に居住し薬師如来を氏神として祀り、土地の名を市布と名づけたという。
(5)大野市(旧上穴馬村)荷暮
★荷暮は平家落人が住みついた村で、野々小屋谷は物干場であったという。
★山中に平家平がある【越前若狭地誌叢書】
「平家の一揆が籠る所か、平家の落人居るか、大野穴馬領内荷暮村の山上に平家平という山あり、
其跡今に掻き上げ土居の形あり、又うち物せと物器財の類土中より出る、城跡とも又屋敷跡とも」とある。
(6)大野市(旧下穴馬村)朝日
★青葉の笛
朝日熊野神社に平安末期の作と伝える青葉の笛がある。村から20町ばかり離れた山に悪源太義平の館跡あり、
御所ヶ平といって義平が落人で3年間隠れ棲んだという。
この時、義平の身回りを世話した村の女との間に子供ができ、その子が誕生する前に都へ帰ることになった。
義平は当地を去るにあたり、生まれた子が男子なら都へ上らせるようにと1尺3寸の脇差と横笛を残して去った。
生まれた子は女子だった。その後、この二種の遺物は鎮守の八幡宮に奉納されたが脇差は紛失し笛は保管されてきた。
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