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5 仏教の伝播と真宗信仰
村人の真宗信仰は極めて厚く、道場を中心に敬虔な宗教生活の中で暮らしてきた。
物心つく前から自然な生活環境、雰囲気の中で育てられ、幼少期から自ずと信仰心を育んできた。
ただ、豪華で身分不相応な仏壇を置くわりに神棚を置かない家が多く、
伊勢皇太神のご符も仏壇の引出しに入れておくなど軽神崇仏意識が強かったことは否めない。
その伊勢谷にいつ、どのように仏教が伝播してきたのであろうか、それを探ってみよう。
(1)念仏系諸派の伝播
地方の一般庶民に仏教が伝播したのは鎌倉後期であろう。念仏系諸派の新宗教が念仏聖によって盛んに北陸道などを利用し地方へ伝播してきた。
法然らの唱えた専修念仏が禁止される2年前、元久2年(1205)の興福寺奏状に「専修念仏が北陸・東海等の諸国で盛んに唱えられている」とある。
鎌倉後期、念仏系諸派の徒が各地に散在した北陸地方へ、初めて浄土真宗の教義をもたらしたのは高田派三河教団の念仏者であった。
既存の太子堂、来迎堂、念仏堂など天台・真言系寺社の僧侶達が、阿弥陀仏信仰の高僧、聖、念仏者等と接触していくなかで高田派など念仏系諸派に改宗していった。
その中で越前へ伝播したのは高田派三河教団の念仏者、和田の信性、大町の如道らであった。
彼らは古代から中世に人や物の往来が盛んになった白山信仰の道筋を利用し、三河から奥美濃を経て越前東部から九頭竜川、足羽川に沿って教線を伸ばした。
つまり越美国境の峠を越え、越前穴馬郷を経由して大野、北庄(福井)に至ったといわれる。
おそらく念仏者たちは行く先々で布教に努めたことであろう。その教えが伊勢谷へ伝播したかどうか明らかではない。しかし、少なくとも可能性があったといえよう。
(2)越前への高田派三河教団の伝播
正安2年(1300)頃、足羽川沿いの足羽郡和田に三河国本証寺系の念仏者信性が和田道場を開いた、後の本覚寺である。
その後、本願寺7代存如の頃、和田本覚寺は本願寺派に帰依したという。
同じ頃、足羽郡大町に三河国和田勝鬘寺の門徒、如道が大町専修寺を開基し、越前をはじめ近江・若狭にまで教線を伸ばし、当地の専修念仏の指導者となった。
そのほか大野郡折立に法善光実が折立称名寺を開基し、南北朝から室町期に当寺の門弟達が北陸各地に拡散、多くの寺院を開いた。
また遠江国挟東出身の佐塚の専性は大野郡に専光寺を創建したという。
(3)越前への本願寺派の伝播
応長元年(1311)京都大谷廟堂の3代目留守職を継いだ覚如は、高田派など東国門徒に掌握された留守職の主導権を取り戻し、
本願寺中心の真宗を確立しようと長男存覚を伴って越前へ下向した。
その第一歩が越前の大町専修寺を拠点に教線を拡大した高田派三河門徒団の如道らの支持を得ることであった。
覚如と存覚は大町専修寺に20日間ほど逗留し、大町の如道、和田の信性、田嶋の行如の
三念仏者に真宗の根本聖典「教行信証」を講義し、本願寺へ帰依させたといわれる。
この講義は直ちに実を結ぶことはなかったが、その後本願寺が教線を北陸へつなぐ伏線となり、それを後世に残したことが評価されている。
その後、室町期に本願寺5代綽如は、宗務を法嗣の6代巧如に譲り越中杉谷に隠遁したが、
明徳元年(1390)越中井波に住寺を移して瑞泉寺の勅号を賜り、北陸地方での本願寺拠点の基礎を築いたといわれる。
永享10年(1438)7代存如は弟の宣祐如乗を井波瑞泉寺に下向させ再興させる。
さらに如乗は嘉吉2年(1442)加賀二俣本泉寺を開基して、越中・加賀の本願寺門徒の重鎮となった。
この頃、越前の和田本覚寺の蓮光は高田派から本願寺派へ帰依した。こうして本願寺8代蓮如が吉崎道場を開く文明3年(1471)までに、
本願寺派は徐々に越前、加賀、能登、越中など北陸地方にその基盤を築きつつあった。
本願寺派の越前進出は、本願寺歴代庶子一族の繁出で拡大していたが、蓮如が吉崎へ下向するまでは
本願寺への帰属意識はなく、血縁と法縁は別との認識で他派寺院へ帰属していた。
しかし、蓮如が本願寺住持として一宗を創立、その後吉崎道場を開くと庶子一族は
これに参入して本願寺勢力は一挙に拡大する。蓮如は一族の要となる諸寺院に改めて自分の子女を配し再掌握を図った。
(4)蓮如の吉崎布教
長禄元年(1457)43歳で本願寺8代留守職を継いだ蓮如は、当初近江国で教線を拡大するが、比叡山衆徒に無碍光衆の邪徒と厳しく非難されて本願寺を破却される。
また、近江門徒と比叡山衆徒との戦いにも敗れ、他に布教の新天地を求め最適地としたのが越前吉崎であった。
この頃、応仁元年(1467)京都では応仁・文明の乱が発生し、多数の都人が地方へ移り住むようになる。
文明3年(1471)9月、58歳の蓮如は吉崎山上に完成させた道場で布教活動を始めた。
その直後から続々と門徒が群参し蓮如自身が驚くほどであったという。翌年1月には早くも門徒の群集参拝を禁ずるほどの盛況ぶりであった。
その要因は北陸地方に古くから培われてきた浄土信仰の蓄積、乱世を覆っていた末法思想の社会情勢、
それに加え蓮如が考え出した斬新な伝道手法と姿勢の成果であろう。
北陸各地の寺坊主や道場坊主らに率いられた門徒達は、蓮如が平座で門徒に臨み、
同朋・同行を力説、分かりやすい言葉で弥陀の本願を諄々と説く姿を見て、従来の坊主が高座から権威的な態度で
門徒に臨んでいた姿しか知らなかった庶民には新鮮な驚きと親しみを感じさせ、熱烈な真宗信仰の虜にしてしまったに違いない。
こうして無知な庶民たちは門徒の列に加わることで現世に生きる希望と来世での願望を併せ持つ「安心」の境地を得られるものと信じたのであろう。
蓮如の説いた真宗信仰は燎原の火の如く北陸一帯に伝播した。この頃、穴馬郷へも蓮如の吉崎布教が寺坊主を通じて伝わり、
それまで高田系或いは時宗系信者であった村人も本願寺派一色に転宗したものと考えられる。
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