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3 仮説伊勢村のルーツ
ふるさと伊勢村のルーツを結論づけると、平安末期から鎌倉初期、原野だった小河川源流に良木を求めて、
美濃武儀郡方面から少数の先木地師(3人衆)一族が住み始めた。
当初、彼らは原野を切り拓き、焼畑農をして木地物を作って暮らしていたが、年を経るに従い、その子孫は移住する者と帰農する者とに分化した。
その後、源平合戦に敗れた少数の落人が伊勢村へも逃げ延びて匿われ、彼らも木地師に同化した。
鎌倉中期までは、せいぜい5,6戸、2,30人の同族的マキ集落であったが、徐々に戸数・人口が増えていった。
鎌倉後期から室町初期、美濃を経由して伊勢神宮の御師が布教活動で立寄った際、村人は師檀関係を結び、上伊勢皇大神宮神明社を建立した。
この縁で村名を伊勢村と名づけ、御師も神主として神社近くに定住するようになった。
当地は伊勢川最上流域の清流地に位置していたが、谷間の段丘上にあったため
日照時間が短く、冬期は雪深く地形的、気候的条件に恵まれなかった。
その上、灌漑技術が未熟なため水田耕作ができず、焼畑農が中心であった。
当初、焼畑農で生計可能な集落規模は、最大戸数16戸・人口100人位までで、
これが生活を支える限界値となり、その後、一種の百姓株となって後々まで重視されることになった。
人口が増えれば生活は苦しくなり、余剰民は否応なく下流へ移動し、原野を開拓しなければならなかった。
こうして集落は、室町中期までに上・中・下の3垣内に分かれた。
当初、村人の精神的支柱は伊勢信仰であったが、やがて室町中期、蓮如の浄土真宗が僻地の伊勢谷へも伝播すると、村人は熱心な真宗門徒になって道場を建てた。
この頃から軽神崇仏思想が芽生え、精神的に意識の変化が生まれたと思われる。
それは神社近くに住み、従農者の援助で奉神一筋に専念していた神主が、その援助を失い自活せざるを得なくなったことである。
神主一家は、やむ無く上伊勢から下流にある中伊勢へ移住し、神職と農業を兼ねて生計を維持することになった。
4 神社信仰と祭神の複合
鎌倉後期から室町初期、伊勢信仰布教のため立寄った御師を迎えた村人は師檀関係を結び、
神田を寄進して神明社を建立した。これが村の氏神となる上伊勢皇大神宮神明社である。
神明社の祭神は天照大神であり、本地仏は大日如来である。ところが、離村直前の現地調査では、
本殿奥院に祀られた一番古い懸け仏の秘仏を白山本地仏の十一面観音でないかと推測している。
しかし、私は大日如来だと推測する。また、神社建立年代に関して、垂迹思想発展前の祭神は神鏡であるが、
当社には室町期の鶴亀鏡が祀られていて、年代的に鶴亀鏡より秘仏の方が古かったという。
これから考察し、神社建立は鎌倉後期から室町初期でないかと考える。このほか
本殿敷地内に摂社の八幡社、薬師社の二社が祀ってあり、御前立ち踏み分け阿弥陀仏と薬師如来像が祀られていた。
また、踏み分け阿弥陀仏は時衆でよく使われた仏像だったという。このように上伊勢皇太神宮には種々のご神体(本地仏)が祀られ、
そのほか奥院に室町期の鶴亀鏡、明治以後の天照大神神像が祀られていた。
こうして上伊勢皇太神宮には種々の本地仏が祀られ、神明社、八幡社、薬師社が複合して老衰した集団社であると分かった。
それは時代の変遷に伴い、その時々の有力者が種々の神々を受け入れてきた現れではないか。
ただ不思議に思われたのは、この地域は白山信仰圏に属すると考えられたが、白山神社は祀られていなかった。
しかし、いつの頃からか下伊勢村に正観音社が祀られていた。ここに祀られた正観音像は小白山別山大行事の本地仏であり、明らかに白山系信仰である。
これらのことから、その時々に村人は、主な神祇信仰を受容しながら複合的信仰をしていたのであろう。
村人にとって祀ってある神が何であろうと関係なく、その知識もなかったことであろう。
ただ有難く、手を合わせ家内安全、五穀豊穣などを願っていたに違いない。
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