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(2) 浮遊・逃散農民の移住説

 奈良時代、苦役から逃げ出した班田農民が美濃を経由して当地まで逃散したと考えるのは、距離的、地形的にも飛躍しすぎであろうか。

 こんな僻地にまで逃げ延びなくても、もっと他に適地があったことであろう。

 平安時代以降は貴族・豪族による原野・山林の私有地開拓が進み、荘園が拡大したことを考えると、

 美濃山麓辺りで苦役を強いられた小農民や浮遊農民が山間僻地へ逃散し、山野を開拓した可能性がないとは言えない。

(3) 木地師の移住説

 木地師が一時的に仮住いし、やがて帰農したことも考えられるが、これに関する伝承や風習は残っていない。

 しかし、彼らは古くから奥地に入って逞しく暮らしてきた。その子孫が帰農したと考えても矛盾はない。

 そこで木地師の歴史を概観すると、室町末期、近江小椋庄筒井集落は木材の枯渇などから蛭谷、君ヶ畑の2集落に分裂し、

 良材を求めて全国に木地師が散らばったという話が有名である。しかし、この頃の木地師を草分にするには時代が遅すぎる。

 一方、木地師の全国展開は、古い順に先木地師、地木地師、後木地師、流木地師と区別して呼んだ地域があるように、その展開は古代から何回かに分かれて波状的に行われたようだ。

 先木地師は、もともと全国各地に存在した木地師が早い段階で移住した人達で、平家落人伝説に直接関わった人達だという。

 越美国境付近の村々には平家落人伝説を伝える村が多い。伊勢村の草分民は先木地師だった可能性がある。

 木地師が集落を構える場合、川の最上流域を選ぶのが大きな特徴という。良材が得られたから当然であろう。

(4) 伊勢神宮御師の移住説

 伊勢という地名の由来を考えると、僻地に布教で立寄った御師が村人と師檀関係を結び伊勢神明社を建立した、この縁で村名を伊勢と名づけた可能性がある。

 平安末期から室町期、各地に私有地荘園が発生して朝廷の財政基盤が衰え、伊勢神宮の経済状態も不安定になった。

 そこで伊勢神宮の下級神職たちは、御師として全国各地へ出向いて布教活動を行った。

 彼等は各地で祈祷を行って御祓大麻を頒布し、神宮への参詣や神田の寄進を促した。

 鎌倉後期には尾張、美濃の国で多くの人々が伊勢信仰をもつに至った。布教が越美国境を越え、僻地の伊勢村に浸透したとしても不思議でない。

(5) 金堀人・鉱夫の移住説

 山師が山間地で鉱山を発見し採掘を始めたのは、いつ頃からであろうか。

 貞享4年
(1687)の越前国絵図に「上伊勢村より未申(西南)の方に鉱山跡あり」とある。この記録から江戸期以前に、鉱山の存在が窺える。

 伊勢峠を越えた隣村の上秋生村に中天井鉱山があったが、これは江戸中期から大野藩によって経営されていた。

 地理的にやや遠いが、室町中期、越前国府
(越前市)に近い池田町魚見村付近で鉱山採掘が盛んだったという伝承がある。

 魚見村は室町中期、越前守護斯波義敏の家臣で金堀奉行の内藤但馬守が大勢の鉱夫を当地に住まわせ、

 金山を採掘したのが村の始まりという。枝村に中出、金山、辻という名も残っている。

 貨幣経済が盛んになった室町期に各山地で鉱山開発が盛んであった。越前国内も当然、鉱山の採掘が盛んに行われた。

 上伊勢村に存在した鉱山は、廃坑後、一部の鉱夫が先住民に同化した可能性は考えられるが、時代的に遅すぎるため草分民になり得ない。

 また、この付近には美濃と越前を結んだ蝿帽子峠があり、鎌倉期から南北朝期に既に搦手道として、或いは白山信仰ルートとして人の往来があった。

 従って峠下や近くの道筋に早くから小集落のできる素地があった。さらに、伊勢村の人口増加と下流域への拡散経緯を考えれば、すでに散村が立地していたと考えられる。