(1) 

   

1 農耕民と集落の出現

 古代人は大陸から伝来した稲作を受け継ぎ、農耕民族として土地に定住し集落を形成した。以来、幾多の苦難を乗り越え、歴史的変遷を経る中で階層分化した。

 10世紀半ば頃から春に田の耕作を請負い、秋に収穫米の中から地子米を支払う新しい農民が現れ始めた。

 請負は一般的に1年契約で耕作権は弱かったが、いわば農業を専業とする人々であり、

 これを田堵と呼び、ここに初めて厳密な意味での農民が誕生したといわれる。

 農民が生存する最低条件は、衣食住を自給自足できる自然環境がなければならない。原初は近くに山野及び小河川がある山麓に居を構えたに違いない。

 日当たり、水、薪、材木、木の実、小動物などが入手しやすい環境、灌漑用水、焼畑農ができる地域環境を探し求め、

 適地に住みつき集落をつくった。その成立は画一的でなく集落毎で異なっていたであろう。

 稲作を始めた古代人の農耕集落と同じ場所で、その子孫が今も住み続けている所があるかもしれない。あるいは、都から逃れて山麓に住みついた集落もあろう。

 人口が増え、その子孫が新たに原野を開拓し住みついた集落もある。平安中期以降は合戦に敗れた落人が山野に隠れ棲み帰農した集落もある。

また、水陸交通の要所に人々が集まり定期市ができ、そこが街村化した集落もある。人々は様々な理由によって集落をつくってきた。

 彼らが住みついた地域は、その広さによって自然に適正な人口、戸数が決められた。

 人口が増加すると生活が苦しくなり、余剰民は集落から離れて原野を開拓しなければならなかった。

 山間僻地にできた集落は浮遊農民、木地師あるいは落人などが切り拓いたところが多いという。

2 伊勢村の草分民を探る

 越前国
(福井県)の東南端、越美国境近くの山間僻地にできた集落が伊勢村であった。

 初見史料は天正7年
(1579)織田信長の部将金森長近が大野郡の領主になったとき、所領3万石を部落別に記載した名寄帳に伊勢10石(上・中・下)とある。

 したがって、金森領になる前から伊勢村は存在し、すでに上・中・下の3集落に分かれていた。

 そこで更に時代を遡って村の草分を推測すると、次の人々がルーツとして浮上してくる。

1) 平家落人の隠遁説

 越美国境山麓の村々には源平合戦の落人伝承が多い。あくまで伝承で史実ではないが、すべて切り捨てるのも忍びない。

 国境にある平家岳など山々に付けられた名称、その麓につけられた平家平の地名、麓の村々に伝わる平家踊りなど数々の地名、

 伝承が今も残されている。ただ、これらの伝承は木地師達が伝えたという説もある。

 北陸地方では1183年
(寿永2)、倶利伽羅峠の戦に敗れた平家落人が山野を逃げ延びる途中、越美国境にも一部隠れ住んだかもしれない。

 穴馬郷
(現大野市・旧和泉村の一部)は大野郡の僻地、九頭竜川上流に位置し、

 山一つ越えれば美濃国
(岐阜県)であり、他郷と比べて遥かに文化が遅れ、隠遁地としては最適であった。

 仮に事実だとすれば隠遁時期は、平安末期から鎌倉期初期になる。ただ、少人数で落ち延びても自力で生き延びられたかどうかは疑問が残る。