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カ)戦後の上穴馬村
ポツダム宣言の受諾によって、日本は連合国軍の占領下に置かれた。村民は戦争から解放されたが、生活の窮乏に直面しなければならなかった。
深刻な食料不足、インフレの進行に加え、異常気象、労働力不足、生産資材の欠乏等
累積する悪条件が重なって、昭和20年度産米は稀有の大減収を記録した。
全国各都市から罹災者や疎開者の転入が続き、復員や引揚げによる需要人口の増加、
占領による外米輸入の途絶、供出制度の弛緩も加わって戦後の食糧事情は極度に深刻化した。
一日の主食配給量は2合1勺で、その内容も甘藷、馬鈴薯、大豆等がほとんどであった。
昭和21年(1946)に入ると食料危機は、ますます深刻化し、端境期には飢餓に瀕する状態で、7,8,9の3ヶ月間は一般配給量の約2割が欠配となった。
このような食料事情から蕗、蕨、ぜんまい等山野に自生する食料資源の採取や非農家、学校等の自給農園の増設が奨励された。
さらに食料危機を突破するため、麦、馬鈴薯の早期供出に奨励金が出された。
特に馬鈴薯の供出が完遂されるか否かが、大野郡の食料危機突破に重大な関係を持つとさえ言われた。
衣料も極度に不足したので、雑繊維類を確保するため野生苧麻(からむし)の採取が割当てられたり、
重要物資の見返品として重要な役割を持った生糸の増産が図られたり、国民学校(小学校)に対し養蚕奨励がなされた。
★農地改革
昭和21年(1946)2月、第1次農地改革が実施された。不在地主の全小作地と在村地主の全国平均5町歩を超える小作地が解放された。
小作料は金納のほか無制限に物納を認めた。しかし、この改革は不十分だと占領軍に指摘され、同年10月、第2次農地改革が実施された。
それは在村地主の保有地を平均1町歩(北海道は4町歩)に引き下げたのである。この結果、寄生地主は大きな打撃を受けた。
農地改革の根幹は小作地の80%を自作農地にすることにあった。これによって上穴馬村の階層関係は大きく変わった。
しかし、地主は寄生地主から耕作地主に経営形態を変えることで、その勢力を残存させた。
特に山村の開放が行われなかったため、山村地主は薪炭、採草、山仕事を通して農民に対し支配力を維持した。
★インフレ抑制策
昭和21年(1946)2月、金融緊急措置令が発令され、金融機関の預金が封鎖された。
現金の引き出しは個人の世帯主は300円、世帯員1人100円、事業者は賃金1人500円までに制限された。
同年3月2日、日銀券の流通が禁止され、翌3日から新円を発行、一般には500円を限度として旧円を新円に交換した。
★教育の民主化
昭和22年(1947)3月、教育基本法、学校教育法が制定され、六・三・三・四制による新学制が発足、
戦前の軍国主義教育から民主主義教育に改まった。親と教師が協力して民主教育を推進するためPTA運動が全国的に広まった。
上穴馬村における小中学校の整備・変遷はつぎのとおり。
◇昭和22年(1947)4月 国民学校は小学校となる。
上穴馬第1国民学校は大和小学校、上穴馬第
2国民学校は日進小学校と改称。
◇昭和22年(1947)5月 新学制により中学校が創設、大和中学校と
日進中学校が設置、小・中学校とも伊勢、
久沢分校を設置。
◇昭和31年(1956)10月東部中学校を設置(大和・日進両中学校廃止)
伊勢分校・久沢分校を設置。
◇昭和37年(1962) 伊勢分校廃止(東部中学校に統合)
◇昭和41年(1966)3月〜11月上穴馬地区民移住のため全校が廃校
閉鎖。
キ)道路交通と商圏の変化
大正8年(1919)道路法が改正され、穴馬街道は県道福井・八幡線になった。
昭和27年(1952)に2級国道に昇格、国道157号線になる。(昭和50年(1975)に158号線に改称された。)
この道は明治以降、度々改修され今日に至ったが、東の油坂越えは険しい道で、
明治26年(1893)初めて油坂トンネルが開通し、大正初期には上穴馬村持穴から東市布まで荷馬車道に改修された。
昭和初期、東市布から油坂トンネルへの拡幅工事が進められ、昭和16年(1941)油坂トンネルが改修されて、全線を通しトラックが通行できるようになった。
一方、油坂トンネル開通後、明治27年(1894)頃から岐阜県白鳥町への交通が開けると、
上穴馬村伊勢谷以外の村々は買入商品の7割を白鳥町方面へ依存するようになった。
商圏が大野町から白鳥町商圏へと変化し、村人の出稼ぎや出郷も岐阜、愛知方面へと傾いていった。
また、太平洋戦争中は、木炭や木材が大量に搬出された。戦後、村内の各道路整備が進むとともに奥地まで林道が延び、
伐採された木材はトラックで搬出され、山村労働に依存していた村人は土地から離れ、都市労働者になる傾向を強めていった。
ク)国鉄バスの営業運転
営業バスが初めて穴馬道(県道福井・八幡線)を走ったのは昭和8年(1933)である。
加藤自動車(現在の大野交通の前身)が大野町から勝原まで、次いで朝日、大谷までと徐々に運行経路を延ばし上穴馬村下半原に達した。
しかし、戦争が激しくなるにつれ燃料が不足し、鉄道省に請願して省営に肩代わりしてもらった。
こうして昭和19年(1944)9月大野町から大谷まで、また谷戸口から中竜までを省営バスが通るようになった。
大谷から岐阜県白鳥町まで路線が延長されたのは、戦後間もない昭和20年(1945)10月で、これで幹線道路に国鉄バスが全通することになった。
村内各支線にバスが通るようになったのは昭和30年(1955)以降のことである。
昭和32年(1955)4月から大谷・上伊勢間10キロ余の路線を1日2往復、国鉄バスが運行された。ただし、12月から3月までは積雪のため運休した。
ケ)和泉村の誕生
◇ 昭和28年(1953)町村合併促進法が成立した。県は九頭竜川上流域の上穴馬・下穴馬・石徹白三村に合併を要請した。
◇ 昭和31年(1956)上穴馬・下穴馬二村の合併構想が整えられた頃、石徹白村に越県合併の動きが浮上した。
◇ 昭和31年(1956)9月30日、三村合併は二段階で行うことになり、上・下穴馬両村が先行合併して和泉村は誕生した。
◇ 昭和33年(1958)10月14日、石徹白村三面・小谷堂地区だけが和泉村に編入され、他地区は岐阜県白鳥町へ越県合併した。
コ)伊勢湾台風の被災
昭和34年(1959)9月26日夕方、潮岬付近に上陸した台風は愛知県に大被害を与えて北上し、和泉村を通って白山の東を富山県へ抜けた。
このときの山間部の降水量は200〜300ミリで、台風通過時には大谷地区で2時間降水量は104ミリに達し、鉄砲水となって一瞬にして大きな被害を与えた。
この災害は村民にとって未曾有のことで、大谷区と朝日区では耕地の3分の1が流出、鉄筋コンクリートの大谷橋、箱ヶ瀬橋も流出、
道路は各所で決壊、交通も寸断し、死者26人(朝日23人、大谷1人、上半原2人)、罹災者数937人、家屋の流出26戸を出す大災害となった。
サ)九頭竜ダム建設の経緯
★ 電源開発プラン
九頭竜川の開発が芽生えたのは昭和32年(1957)であった。当時、電源開発会社は
御母衣ダム完成後の開発拠点に九頭竜川開発を考え、北陸電力も有峰ダムの次に九頭竜川開発を考えていた。
昭和32年(1957)5月電源開発計画案が発表されると、同年10月には北陸電力計画案が発表され、九頭竜川開発計画は両社が競願する形となった。
★ 県議会決議と村議会の対立
昭和36年(1961)3月県議会は九頭竜川電源開発に関し、北陸電力に指定を要望する決議を行った。
これに対し和泉村は、3月31日村議会で県議会決議を非難する声明書を発表、4月10日に両社の開発プランを比較検討した結果、
電源開発会社支持を明らかにした。こうして県議会を中心とする県当局と地元和泉村の意見は完全に対立した。
★ 電発・北電両社の水没補償方針を和泉村拒否
昭和36年(1961)6月電力界実力者の勧告と通産省調停案を電発・北電が受諾し、
昭和37年(1962)2月電発・北電両社は、共同を前提に水没補償方針と補償基準に関する
説明書を村長に手渡し回答を求めた。和泉村は内容を検討し全面拒否の態度を打ち出した。
電発・北電両社は「このままでは工事が進められない」と共同声明を発表、調査事務所を閉鎖し社員・関係者を一斉に引き揚げさせた。
補償問題は完全に行き詰まり、開発計画も吹き飛びそうになった。
★ 県議会電発特別委員会笠羽委員長の斡旋
笠羽委員長斡旋案の要点は
(1)補償は電発一社で行う
(2)公正妥当な補償を行う
(3)奥地残存地区の救済は県の責任で行う
という補償三原則を両者で確認するものであった。これによって県は和泉村の主張をほぼ認め、
昭和37年(1962)10月15日県と村の話し合いが行われ、具体的交渉が再開された。
★ 九頭竜ダムの建設
九頭竜ダムは当初「長野ダム」と呼ばれ、昭和40年(1965)4月朝日地区から2.5q上流の長野地籍に総工費約259億円で着工された。
ロックフィル式を導入し、完成までに20人近い犠牲者を出したという。
昭和42年(1967)12月貯水が開始され、底辺の厚さ564m、高さ128mのロックフィルは3億5300万トンの貯水量を支えた。
総出力32万2000kW、年間発生電力量8億7600kW/hは、当時、福井県の年間電力量13億300kW/hの約66%を賄える量であった。
昭和43年(1968)5月、九頭竜川上流の渓谷に完成した湯上・西勝原・長野の3発電所は営業運転を開始した。長野ダムは完成後、九頭竜ダムと改称された。
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