(23)
![](ise1/a_line021.gif)
イ)戦前の上穴馬村
昭和5年(1930)起きた世界大恐慌は日本へも波及し、日本経済は決定的な打撃を受け、
失業者は300万人を超えた。経済不況は農村へも押し寄せ、農産物価格は下落し、都市へ働きに出た多くの農村子弟は失業し帰村するしかなかった。
他方、この年は豊作だったが、1俵13円20銭の米価が4円まで暴落し、豊作飢饉といわれた。
翌年は東北、北海道地方が冷害で大凶作となり、農村の窮乏はどん底に陥った。
都市で失業した帰村者が増加して農村人口は膨張、著しく窮乏し夜逃げや娘の身売りが相次いだ。
上穴馬村も大同小異であり、昭和6年(1931)は凶作となり、苦しい生活を強いられた。
★農 業
戦前の上穴馬村の米作状況を概観すると、毎年増減を繰り返しており、今日と比べると非常に不安定な作柄を示している。
ただ、従来の堆肥、厩肥に代わり、昭和初期から徐々に硫安が使用され多収穫傾向にあった。
また、昭和15年(1940)頃から温床折衷苗代が始められ、田植えも5月中旬までに終わるようになった。
★養蚕業
昭和3年(1928)御大典記念事業として上穴馬村各区に桑苗が配布された。養蚕業は大正期から昭和初期にかけて最盛期を記録し、
昭和4年(1929)には春夏秋蚕を合わせて養蚕戸数539戸、年産1万126貫に達し、ほとんどの農家が養蚕を行った。
しかし、昭和5年(1930)主要市場のアメリカへの生糸輸出が激減、産繭価格が暴落して減収する。
そして昭和9年(1934)を境に急激に減少していった。上穴馬村も昭和12年(1937)以後、
増減を繰り返しながら昭和16年(1941)太平洋戦争の勃発によって激減した。
★林 業
大正期に続き、昭和期も上穴馬村の基本財産林の造成は引き続き行われた。
昭和8年(1933)には官行造林予定地の伊勢羽見谷など保安林26町歩の解除を農林省へ申請し、
昭和9年(1934)伊勢羽見谷に官行造林5町3反歩の地拵えをし13年に同所に7町歩、14年には13町歩の造林を実施している。
民有林の植樹も補助金の交付を受け毎年増加したが、太平洋戦争勃発後、金属回収の余波を受け、
その代用に木材の需要が増大、伐採が行われた。針葉樹は国策にそって伐採され、薪材も自動車燃料木炭ガス用として伐採された。
次に製炭業をみると製炭改善は極めて緊要であった。村では副業奨励と製炭改良のため
昭和4年(1929)に伊勢区細谷で5月20日から64日間、黒炭講習会を行っている。
昭和15年(1940)上穴馬村の炭窯数は119(白炭104、黒炭15)、うち伊勢区は白炭5、黒炭2の計7である。
製炭高は昭和15年(1940)8万9000俵・9240円(1俵平均2円16銭)、翌年は更に増加し、
戦時下には青年学校男子生徒全員が5月から10月にかけて製炭作業を行い、昭和18年(1943)上穴馬村の自営製炭は最高1万1650俵に達した。
★副 業
その他上穴馬村では副業奨励のため、昭和5年(1930)講師を招聘して椎茸栽培・屑繭整理・真綿掛講習会を開催している。
昭和6年(1931)には山葵10坪以上、大麻1畝歩、ラッキョウ3畝歩以上の栽培者に対し、
昭和8年(1933)にも山葵・大麻・黄連などの栽培者に、それぞれ補助金を交付して奨励した。
昭和9年(1934)から木炭用の萱俵の生産奨励に努めたので、昭和11年(1936)には4万1000枚、価格にして1845円の生産高を上げた。
ウ)道路交通の変化
越美国境にある油坂峠と油坂トンネルの改修は、多年の懸案であり、昭和初期から関係者が努力してきたが、種々の難問題で実現できなかった。
日華事変も長期戦が濃厚となった昭和15年(1940)、福井・岐阜両県知事が本格的に乗り出し、
昭和16年(1941)油坂トンネルは改修され、トラック通行が可能になった。
エ)戦争と上穴馬村
★満州事変
昭和6年(1931)9月、奉天郊外柳条溝で南満州鉄道爆破事件が発生、これを契機に日本軍は軍事行動を起こした。
以後、我が国は戦争への道を進んだ。平和な山村も次第に戦争の影響を受けるようになった。
上穴馬村では昭和元年以降、毎年平均32名が入営、その多くは歩兵として入隊した。入営者数も戦争の激化とともに増加した。
★上海事変
昭和7年(1932)2月、上海事変が起こると第9師団に動員令が下り、鯖江歩兵第36連隊と敦賀歩兵第19連隊は上海へ出動した。
上穴馬村では26人が応召した。うち2人が戦死し、1人が重傷を負った。昭和10年(1935)6月、鯖江・敦賀両連隊は満洲に出動しハルピン付近の警備に当たった。
★日華事変
昭和12年(1937)7月、北京郊外の盧溝橋事件を契機に日華事変(当時北支事変、のち日支事変)が勃発し、日本軍は中国本土に対する大規模な軍事行動を開始した。
日華事変が勃発すると、昭和12年9月、第9師団に動員令が下り、鯖江・敦賀両連隊は直ちに出動した。
両連隊は上海上陸後、南京攻略・徐州会戦・漢口作戦等に参戦した。
昭和14年(1939)6月復員令が下り、同月末に国内へ帰還、7月に復員を完結している。日華事変は満州事変とは比較にならない本格的な戦争であった。
そのため上穴馬村でも在郷軍人の大規模な召集が行われ、働き盛りの男子が続々出征した。こうして村民も戦争の渦中に巻き込まれていった。
★太平洋戦争
昭和15年(1940)に入り、日華事変は、いよいよ長期戦の様相を深めるとともに、軍部は石油その他の重要軍需物資の不足に悩み始めた。
列強が門戸を閉ざしたため、日本は国際的孤立に陥って貿易が衰退し、悪性インフレが発生した。
そこで政府や軍部は、必要な軍需資財を確保するため南進政策をとり、昭和15年9月には北部仏印に、翌年7月には対米交渉を続けながら南部仏印に進駐した。
米・英・加・蘭の各国は日本の在外資産を凍結し、また米・蘭政府は石油の輸出を禁止した。
この間、しばしば対策を協議したが、結局、日米交渉は不調に終わり、英・米と開戦することを決定した。
こうして昭和16年(1941)12月8日、日本海軍はハワイの真珠湾を奇襲、米英に宣戦を布告し、太平洋戦争に突入した。
しかし、昭和17年(1942)6月のミッドウエー海戦の失敗が転機となって、戦局は次第に不利になり、
昭和19年(1944)4月にはサイパン島が陥落、アメリカ空軍の根拠地になると、日本本土はB29の空襲下に晒されるようになった。
昭和20年(1945)8月6日及び9日にアメリカの原子爆弾が広島・長崎に投下され、8日にはソ連が突然日本に宣戦布告して満洲へ侵入した。
ここに至り日本政府は、遂に敗戦の不可避を悟り、同月15日ポツダム宣言を受諾し、連合国側に無条件降伏した。
オ)戦時体制と村民生活
軍隊への大動員、軍需工場への徴用などによる農業労働力の不足は、上穴馬村にも深刻な影響を与えた。
青少年団員は、秋の収穫時に出征軍人を出した農家の稲刈り、稲運び、稲架け、薪運搬等について奉仕作業を行った。
この戦争で肥料・農機具の不足など生産条件の悪化、インフレ進行による農業所得の低下など村民生活は一層苦しさを増した。
米の収穫量は激減し、これに外米輸入も途絶して食料不足は深刻となった。
昭和16年(1941)には通帳制による米の割当配給が開始された。このほか衣料品・調味料など生活物資すべてに配給が実施された。
しかし村民一人当たりの配給量はまことに微々たるもので、最低生活の維持すら困難な有様であった。
しかも各村落に対し、米の供出割当がなされたので、食料不足はますます深刻となった。
昭和18年度米に対する供出割当責任供出量は10石、自発供出量は40石で計50石であった。
![](ise1/a_btn119.gif)
|