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10)新天地を求め離村

ア)地区民の離村

 昭和39年
(1964)秋の収穫を終えると、水没地区民の離村・移住が始まった。この年、ダムサイトになる下穴馬地区の長野、鷲をはじめ、

 上穴馬地区の上半原、下半原、荷暮、池ヶ島、箱ヶ瀬、持穴、大谷、野尻、影路、米俵の合計12集落、住民2000名余が離村した。

 翌40年
(1965)秋には上穴馬地区の伊勢、久沢の両集落が離村し、昭和41年(1966)秋には上穴馬地区の東市布と石徹白地区の三面、小谷堂の集落が離村した。

 こうして、先祖代々穴馬郷に暮らしてきた村人は姿を消し、合計17集落、525世帯、2千数百人の人達が父祖の地を去った。

 九頭竜川ダム建設工事は昭和40年4月から本格的に開始された。



イ)離村者の転出先

 当時の離村者転出先を地域別にみると、府県別では岐阜県が263世帯と半数を占め、次に愛知県の168世帯、福井県の62世帯と続き、その他は散発的であった。

 転出世帯数の多い岐阜、愛知両県を市郡別にみると、過半数は岐阜県南部から愛知県西部へかけての中京地方に集中し、

 名古屋市81世帯を筆頭に、岐阜市71世帯、関市34世帯、犬山市26世帯、各務原市19世帯などと続いた。

 中京地方に次いで転出が集中した地区は、油坂峠を越え、隣接する郡上市白鳥町の64世帯で、郡上市の中心地八幡町は13世帯であった。

 一方、福井県は大野市が43世帯、福井市が9世帯、和泉村下穴馬地区が5世帯と続き、その他は県内各地に1世帯ずつであった。

 ふるさと伊勢地区だけをみると、府県別では岐阜県24世帯、愛知県9世帯、大阪府、福井県各3世帯、京都府1世帯であった。

 市郡別では岐阜市10世帯、関市7世帯、名古屋市6世帯、大阪市2世帯、福井市2世帯などであった。

 このように九頭竜ダム建設によって和泉村12集落が湖底に沈み、5集落が奥地残存のため離村した。

 住民の移住先は、前記のように大半が太平洋側であった。これは離村者のほとんどが旧上穴馬村民であり、

 油坂峠の開通後、距離的に近い郡上市白鳥町から生活物資が流入し、商業的に岐阜県、さらには愛知県との結びつきが深かかったことを物語っている。



ウ)新天地を求めた集落跡の石碑

 旧村落近くに建てられた石碑に「ふるさとの碑」「望郷」などと刻まれ、離村した村人の想いが込められている。

 私は、その中で昭和30年
(1955)真名川ダム建設で離村した西谷村上秋生の石碑に心惹かれた。

 その石碑には「倶会一処」
(くえいっしょ)と刻まれている。「お互い散り散りになり、いつ再会できるか分からない、

 たとえ現世で会えなくても、浄土で倶
(とも)に会いましょう」という浄土真宗の言葉である。

 村人たちは一抹の不安を感じつつ、新天地での再出発を誓って離村していった。

 あれから半世紀が過ぎ世代も交代、ふるさとへの想いも薄れたことであろう。

 時代の流れとはいえ一抹の寂しさを感じる今日この頃である。せめて、ふるさとへ想いを馳せながら記録し、心にとどめておきたいと思う。