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8)大正期

 大正は明治と昭和の谷間と言われた時代である。国内は日露戦争後の不況で行き詰まり、

 一般農民、庶民の暮らしは貧しかった。不況を救ったのが大正3年
(1914)7月発生した第1次世界大戦であった。

 日本の資本主義は第1次世界大戦への参戦によって、またとない発展の機会を得たのである。

 欧米諸国からアジアへの輸出が途絶えた隙を狙って、日本商品は中国、インド、オランダ領インドネシアなどに氾濫し、

 連合国からは軍需物資の注文が殺到、製鉄、機械、造船、化学工業などが目覚ましく発展した。

 国内の社会構造は農業段階から工業段階へと成長し、農村人口は都市へ流出した。

 しかし、この特需景気で潤ったのは一部財閥、資本家だけであり、一般の農漁民、労働者は物価高騰に苦しみ、日々の暮らしもままならなかった。

 その不満が米騒動になって現れ、全国へ波及した。大正7年
(1918)11月第1次世界大戦が終わるや戦後恐慌が押し寄せ、

 さらに大正12年
(1923)9月に関東大震災が追い討ちをかけるなど不穏な社会情勢が続いた。

 そんな中、大正15年
(1926)12月大正天皇が崩御され、裕仁親王が践祚し昭和と改元された。

 この時期、上穴馬村では面谷鉱山の廃坑以外に特記することがない。恐らく村人たちは明治以来の質素な生活で日々を凌いでいたことであろう。

 面谷鉱山の廃坑で職を失った鉱夫や村人たちは、帰農するか職を求めて県外の鉱山などへ転出するしかなかった。

 資本主義による商工業経済は辺境の村々にまで浸透し、やがて世界大恐慌の影響が農山村の隅々まで波及してきた。



ア)主な出来事

★大正元年
(1912)7月 明治天皇崩御、嘉仁皇太子践祚、大正と改
          元。

★大正 3年
(1914)7月 第1次世界大戦勃発。
★大正 4年
(1915)  伊勢、下半原、野尻の3区に養蚕組合設置。

★大正 5年
(1916)   面谷鉱山、純益金32万2429円で絶頂期。  
★大正 7年
(1918)8月 米価暴騰、米騒動。

★大正 7年
(1918)11月第1次世界大戦終結、面谷鉱山、種々の原因
          で甚大な損害受ける。

★大正 8年
(1919)  面谷鉱山、物価高騰、鉱夫欠乏などで操業
          困難に陥る。

★大正 9年
(1920)3月 戦後恐慌、不況のため失業者続出する。

★大正10年
(1921)9月 伊勢分教場新築される。
★大正11年
(1922)   相次ぐ不況到来、面谷鉱山廃坑に至る。

★大正12年
(1923)9月 関東大震災発生
★大正13年
(1924)  大野〜上半原間の美濃道に自動車が通行す
           る。

★大正14年
(1925)   大谷区に自家発電で電灯が灯る。
★大正15年
(1926)12月大正天皇崩御、裕仁親王践祚、昭和と改
           元。



イ)上穴馬村の農村生活

★農 業

 この時期、農業生産をたかめるため区長会を通じ農事改良の指示や実行が促された。

 主に種子の選択・苗株の間隔・株の本数改良などで、毎年継続事業としては、米麦種子の塩水撰と短冊型苗代が奨励された。

 こうして米の収穫高は前代に比べ増大した。肥料については緑肥または堆肥が奨励されたが、

 牛馬を飼育する農家が多く、厩肥が容易に得られたので堆肥舎を設置する者はいなかった。

★養蚕業

 明治中期以来次第に発達し、大正4年
(1915)伊勢、下半原、野尻の3区では養蚕組合が設置され、稚蚕の共同飼育が行われた。

 上穴馬村では、気候の関係で春蚕の飼育が不利であるため、夏秋蚕の飼育が奨励された。

 また、上穴馬村は御即位記念事業として大正3年から3ヵ年間、桑苗を無料で各戸に配布して植栽させ、

 夏秋蚕用にあてさせたので、大正3年の植栽反別が23町6反から5年には26町に増加した。

★畜産業

 戸数割賦課等級普通額以上の農家に対し、各戸が牛又は馬を一頭以上、飼育繁殖するよう奨励された。

 上穴馬村では大野郡産牛馬組合から種牡牛一頭を借受け改良繁殖に努めた。

 しかし村民は家計上から牡馬を購入し荷馬車の運送に従事したため牡馬が減少した。

 大正8年牛馬の価格が高騰したため売却する者が多く、しかも補充を躊躇して購入しなかったため飼育頭数が減少した。

★林 業

 村是の一つである基本財産林の造成は、村の行啓記念事業でもあった。条例が設定され、

 50年間に毎年杉・檜・松を混交して村で1万本以上ずつ植樹する計画が立てられた。

 村では明治44年から植樹に着手し、大正7年までに8万7054本が植栽された。

 一方、明治末期から大正期にかけて栃材木が重宝され、栃木を伐採し荷馬車で出荷した。

 山の資源を商品として盛んに売買するに従い、村人の山村生活は次第に衰退していった。

★副 業

 農業的副業として黄連栽培が盛んになった。黄連は江戸時代から穴馬地方で広く栽培されてきたが、

 この時代には桑園の下植等として行われ、多いもので10万株以上栽培する者もいた。

 大正7年以来、黄連の価格が高騰したため、さらに栽培が盛んになり、大正8年には村で200貫の生産があり4500円の収入になった。

 次に衣料原料として麻の栽培も次第に増加した。村では呉服(絹織物)、太物
(綿布地)の移入を抑制するため手織を督励した。

 第1次世界大戦で大正5年以来、綿糸の価格が暴騰したため村民は麻織物を自織し、綿織物の代用にする者が一層増加した。



ウ)面谷鉱山の閉山

 江戸期から採鉱してきた面谷鉱山は、従来の良鉱部をほとんど採掘し尽くし、

 さらに発展させるには、探鉱によって有望な新鉱脈を発見しなければならなかった。

 大正5
(1916)年度は、第1次世界大戦の影響により鉱産物需要が増大したため、

 鉱区を43万4858坪に広げて純益金32万2429円を得るなど好景気を享受し絶頂に達した。

 しかし、翌大正6年度は生産高が減少、純益金も16万996円余と半減し、加えて米価暴騰、賃金高騰など営業費は増加の一途をたどった。

 大正7年度は前年に続き社会・経済情勢はさらに悪化し、加えて大雪に見舞われ、鉱山施設などが大きな損害を受けた。

 こうして面谷鉱山は経済悪化による諸物価の高騰、労働賃金の上昇に加え、鉱夫が不足するなど操業困難に陥った。

 相次ぐ不況の到来と銅価格の暴落によって、大正11年
(1922)遂に廃鉱するに至った。

 離職した鉱夫は、主として奥羽地帯の小鉱山に出て働くか、あるいは転職するしかなかった。面谷村落の歴史も鉱山の閉山とともに幕を閉じたのである。