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エ)穴馬道(東道)改修と物流の変化

 大野町と穴馬郷を結ぶ道には、東道
(大川通)、中道(若生子越)、西道(笹俣越)があった。

 そのうち東道
(大川通)は、下唯野村から下山村へ抜ける九頭竜川に沿った道で、大野から美濃・飛騨方面へ通じる最短路であったが、

 荒島岳の山塊が九頭竜川に抉り取られた峡谷があり、山道のほとんどが急崖を這う歩危で人と牛がやっと通れる難所であった。

 近世、大野郡坂谷や穴馬の村々が美濃郡上藩領となり、勝山若猪野村に代官所が置かれると、

 藩役人らが勝山若猪野と郡上八幡間を往復するのに使った。しかし長い間、改修されないまま、主に近隣村の生活経済路として利用されたに過ぎない。

 ところが、明治14年
(1881)頃から道路改修の要望が高まり、翌15年(1882)県へ穴馬道改修の請願

 とともに面谷鉱業社が1500円寄付、穴馬郷各村が人足2万7000人寄付を申し出た。

 さらに明治18年
(1885)、2年後の明治20年(1887)10月西本願寺福井別院で執り行われる准如250回忌に法主明如(大谷光尊)が下向することが決まった。

 そこで大野郡長ら有力者が法主に穴馬郷への巡錫を懇請したのである。法主明如は、これをを承諾し「難行険路特悲憐」の旗幟を下された。

 これに感謝した穴馬郷の村人は、この年、法主明如の旗幟の下、4800人が200日の労働奉仕と

 工事費5000円で突貫工事を行い、穴馬郷箱ヶ瀬村までを車道にした。

 こうして明治20年
(1887)10月27日准如250回忌の帰路、法主明如は大野から穴馬道(東道)へ入り面谷村で宿泊、翌日、油坂峠を越え美濃から帰京した。

 県も村人の熱烈な願いに大野・穴馬
(東道)両道を一括して県道美濃道と公称し、

 明治21年
(1888)8月、一番の難所であった下唯野から下山までの改修工事に着工、明治23年(1890)6月竣工した。

 この工事は仏原から右岸へ渡り、湯上を経て法善壁を通って下山に至るものであった。

 その後、明治31年
(1898)仏原の九頭竜川に琴洞橋が架橋されて穴馬道(東道)は一新し、県道美濃道として大野・穴馬間の幹線道となった。

 以後、面谷鉱山等の鉱石は、この幹線道を荷馬車で運搬されるようになり、

 西道
(笹俣越)、中道(若生子越)は物流経済の道から外れ、牛方や歩荷の失業とともに衰退した。



オ)面谷鉱山民営化と村人の稼働状況

 明治6年
(1873)面谷鉱山は大野藩経営から面谷村民営に移された。この頃、面谷村人口218人、他村他所からの流入人口193人、合計411人が居住していた。

 明治8年
(1875)面谷村63戸の惣代12人が大野町有力者5人から鉱山仕入金2,000円を借りて稼働するが経営難に陥り、

 明治14年
(1881)12月、大野町有力者の出資7万円、村民提供の鉱坑3万円を併せて資本金10万円で鉱業社を設立し再開された。

 しかし、明治21年
(1888)3月、三菱社が経営権を引き受け鉱山の近代化を進めることになった。

 面谷鉱山は近隣の村人に少なからず経済的な影響を及ぼした。炭焼きや鉱夫手伝いなど現金収入のほか、物流経済の中継地となった沿線村落に商業経済を進展させた。

 伊勢下村も鉱石運搬の中継地として木本牛方らが定宿し、下り荷がないときは久沢、伊勢村などから物産を仕入れ大野町へ運び、

 村人の現金収入に一役買った。伊勢の村人も面谷鉱山へ出稼ぎしたが、その数は定かではない。長老の話によれば、鉱山最盛期には出稼者が多かったという。

 また、明治中期以降、面谷鉱山に限らず村人の出稼ぎ傾向が強くなっていく。

 一方、明治31年
(1898)穴馬道(東道)が改修され、この道が大野・穴馬・美濃を結ぶ物流運搬の幹線道に昇格すると、

 物産運搬の経路が変化し、穴馬道
(西道・笹俣越)や穴馬道(中道・若生子越)は急激に衰退した。

 この頃から村人歩荷や牛方交通も衰退し、村落間の連帯も徐々に薄れていった。



カ)農林業と経済生活

★農 業

 江戸末期の伊勢村石高は10石5斗であるが、明治6年
(1873)6月石高の称が廃され、段別賦課に改められた。

 明治末期の伊勢村の耕地は15町99畝2歩であった。時代が下るつれ、耕地の拡張、耕作法の改善、

 品種の改良等が徐々に進み、収穫高も増加していくが、山地農村の米作は、平地農村に比べ相当の差があった。

 山村は気温、水温、日照など気象条件が悪いうえ積雪が多く、雪解けを待って水田準備を始めるため、水は冷たく、田植えも遅れた。

 この頃「ぬるめ」と称し、水田の水を遠回しに入れるなど工夫されたが、江戸期に比べ特段の変化は見られない。

 その上、山村は気象条件から不作の年が多く、しかも土地が痩せ、施肥の釣合いが不十分なため、米の品質も悪く味も良くなかった。

 そのため米は祝事など特別な時だけで、主に稗を常食にし昔からの焼畑を続けた。伊勢村の米作と焼畑を簡記すると次のとおり。

☆米 作

 八十八夜
(新暦5月初旬)が済むと籾種を池に浸し、苗代田に蒔いたので平地農村に比べ、かなり遅れた。

 田植は概ね6月10日頃から6月23、24日までに行った。手間が遅れても半夏生
(7月2日)を限界とした。

 穂が出るのは210日
(9月1日)前後で、刈入れは10月半ば頃、それからハサに掛け、ハサに屋根をして、

 その上に雪が積もり雪の中でハサから稲を入れて、家の中で千歯扱
(ヤモメ)で脱穀した。手間が遅れると稲の始末に年を越すこともあった。

☆焼畑
(ナギ畑)

 伊勢谷は山村のため耕地が少なく、耕地獲得に特別の努力を払ってきた。山腹の斜面を開いて火を入れてつくる、

 いわゆるナギ畑は、貧困な山村に適した開墾法で食糧自給の道であった。

 火入れの時期は春と夏があり春焼きが多かった。栽培順序は1年目が稗、2年目が粟、

 3年目が小豆、大豆が多く作られたが、順序は必ずしも一定しなかった。



★林 業

 明治6年
(1873)7月地租改正令が施行、田畑や山林を個人所有に分割することになった。

 しかし、伊勢村は古くから惣持山制を保ち、ほとんどの山林を村で共有し入会する林野であった。

 個人分割すると貧困者が早く手離し、他所の者に所有され、村人が自由に入会できなくなることを恐れ、

 従来からの慣習を優先し、だれ某外50人と形式的に土地台帳に登記し惣山制を保持した。

 山仕事は男の仕事であり、サツキ・トリイレ以外の3月から11月までの間、田畑仕事を女に任せ、

 雪の少ない年は2月中旬頃から山に入って伐採や木出しにかかった。

☆林産業

 伊勢谷に限らず山間地の穴馬郷は、杉、檜、松、楢、椈、欅等林産の宝庫であり、

 村人は商品価値のある良材を伐採して換金、一方で盛んに焼畑等を行った。

 やがて、乱伐が原因し水害が頻発した。伊勢下村の三島又左ェ門は木材仲買人として

 明治20
(1887)年頃から大正7(1918)年頃まで木挽流筏業者10人を使い檜、松材を筏で大野郡勝原まで出し、荷馬車などで大坂木場へ運んだ。

☆草刈場
(肥料採取)

 伊勢村では草刈をシバトリと言い、焼畑の後に生えた若草を刈って田に入れた。

 昔からの慣習に従い、自家に近い所を焼畑にした。草刈りの日時と場所を制限する慣習は近年まで続けられた。



☆製炭業
(炭焼き)

 炭焼きは重要な生業で、現金収入の道であった。銅の製錬には多くの白炭
(堅炭)を必要としたので、

 面谷鉱山の周辺村落は各戸で製炭に従事した。伊勢村にも製炭者はいたが、盛んだったという話はない。

☆製紙業
(紙漉き)

 紙漉きは江戸初期から行われ、穴馬紙として紙質が強靭で虫害がない等定評があり、帳簿や障子紙に重用された。

 村人は紙漉きに精を出し、楮皮も売買された。伊勢村をはじめ穴馬郷各村へ大野町や郡上八幡の商人が随時出張して穴馬紙や楮皮を買占めていた。

☆養蚕業
(生糸づくり)

 養蚕は現金収入に適した副業であった。特に明治中期以降、伊勢村だけでなく各村で盛んに行われた。

 農業の基本形態は稗・粟、養蚕となり、各戸で蚕を飼い、1戸で4貫から8貫を生産した。米1俵が3円70銭のとき、繭1貫が2円50銭の収入になった。

 それまで山に自生する桑・楮を採取していたが、焼畑(ナギ畑)に桑・楮を植えるようになった。

 伊勢村から2里ほど離れた大谷村の若山磯吉は、明治15年
(1882)7月村内に製糸工場を建て、

 原動機に日本型水車を使って製糸を行い製品を郡上八幡を通じ販売した。

 明治38年
(1905)当時、女工15人を使っていたという。こうして明治年間、海外貿易の発展と共に穴馬郷の養蚕業も盛んになり桑園改良事業が行われた。