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イ)搦手幹線道と山村経済
天保3年(1832)5月大野藩は、長い間、商人が請負っていた面谷鉱山を御手山とし、
明治5年(1872)までの約40年間、鉱山経営を続けた。その間、面谷鉱山の上下荷一切(炭を除く)を藩内の木本牛方が運送した。
伊勢谷に散在した村々は郡上藩に属し、大野藩からすれば他領であったが、面谷鉱山が穴馬郷内の大野藩飛び地にあった関係で、
鉱石(面谷銅)を大野町へ運ぶのに伊勢道、秋生道といった美濃道(西道)を利用した。
10人ほどの木本牛方が運送する上下荷は5月から11月までの間、伊勢谷を経由して大野町へ運送され、
伊勢村は中継地の一つになった。こうして伊勢道は面谷村と大野町を結ぶ搦め手幹線道として安定した。
次に牛方の移動が伊勢谷の山村経済に与えた影響を牛方が運んだ荷物からみる。
★上り荷(大野町から面谷村へ)
米、塩、味噌、酒、乾塩魚、茣蓙(ござ)、農具、炊事具、太物
(綿布地)など
★下り荷(面谷村から大野町へ)
面谷銅、杉四分板、榑板、山菜、穴馬紙、素木地など上り荷
は主に面谷鉱山で働く人達の生活品であり、
下り荷は面谷銅を除き、伊勢谷を下る途中、村々から仕入れ
た品々である。一方、伊勢谷の村人は生活必需品を次の方法
で買い入れていた。
★村人(歩荷)が不定期に町へ出る
★村人が秋仕舞いに町へ出る
★木本牛方に依頼する
★行商人から買い入れる
当時の伊勢谷は大野町の商業圏に組み込まれ、村々の暮らしに商業資本が浸透していた。
村人は農林業の自給経済だけでは暮らし難く、副業の農産品を換金し生活必要品を手に入れなければならなかった。
村人の不定期、秋仕舞いの外出は大野町へ出ると手次寺へ泊り、途中、沿道の笹又村、中島村、秋生村の近縁百姓を頼って世襲で定宿にした。
木本牛方は下伊勢の又左衛門方を定宿にし、毎日、3頭の牛が泊った。同所には面谷鉱山へ通う木本牛方や行商人が宿泊し、伊勢谷の商業中継基地になった。
明治3年(1870)の又左衛門方記録によると、牛方の輸送力は、牛が1俵半、牛方が半俵、合計2俵であった。1俵は4斗2升である。
牛方は面谷銅の荷物がないとき、下り荷として伊勢村、久沢村で杉四分板一間物を4銭で買入れ大野町へ運んだ。
当時、歩荷も多く、村人は大野町で買いたい必要品があると村人の歩荷に頼むことが多かった。
行商は、ほとんど大野町からやってきた。当時、大野町ホウキヤの弥左ェ門は、
百姓が使う生活用品一切を牛方に運ばせ、下伊勢の又左衛門方に預け販売した。
呉服ものは尾張一宮方面からの行商が多かった。その他大野町五番の谷村屋は副食品、農具、日用品を運んだ。
越中の薬屋、飛騨高山の原三左ェ門等も明治20年(1887)頃まで伊勢谷へ商品を入れていた。
ウ)油坂トンネルの開通と商業経済圏の変化
明治26年(1893)越美国境の油坂峠にトンネルが開通すると穴馬郷諸村と岐阜県白鳥町との間の交通が開け、商業経済圏に大きな変化が出てきた。
それまで大野町商業圏に依存してきた穴馬郷は、この頃から生活必要品の買入れや村人の出稼ぎ、出郷など岐阜県方面へ依存することが多くなった。
ただ、伊勢谷の村々は岐阜県白鳥方面との距離が遠かったため他村より商業経済圏の変化は遅れた。
明治21年(1888)の運賃、商品などの諸物価を挙げると次のとおりである。
★町宿料 4銭 ★米1俵3円12銭
★歩荷の運賃(大野町〜中島村6銭、中島村〜下伊勢村10銭)
★石臼1個 14銭 ★弁当(中島村)3銭 ★メザシ7匹1銭
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