(4) 小浜市東勢〜大飯郡高浜町



若狭鯉川シーサイドパーク全景(小浜市)


◎ 丹後街道(勢峠〜高浜間概観)

 現在、丹後街道は鯉川まで小浜市内に入っていますが、江戸期以前は勢峠(小浜市)を越えると大飯郡になりました。

 勢峠を越えて東勢から海岸沿いの袖崎を迂回し、荒木、下加戸、上加戸を経て鯉川に出ました。

 鯉川から若狭和田まで、街道は海岸に沿って進み、途中、本郷で道が分かれました。

 左に行けば佐分利川に沿って、国境の永谷峠を越え丹波(京都府綾部市)に向い、青戸入江を右にみながら西進すると和田に向かいました。

 和田から高浜にかけては、海岸線に併走して3本の道が通っていますが、中央の道が昔からの街道だといいます。

 高浜も古い城下町だったところで、今もいくらかその面影を残しています。



西勢から東勢方面の風景(小浜市) 加戸海岸(小浜市)


◎ 大飯郡の概要

 大飯郡は天長2年(825)7月10日、遠敷郡の一部をもって成立しました。この地域が古くから豊かな文化

 を持っていたことは、大飯町大島に平安期の優れた仏像がいくつも伝わっていることから推定できます。

 平安期から鎌倉期には、大飯郡の隣国であった丹後国加佐郡との境界が明確でなく、田井浦(舞鶴市田井)は大飯郡青郷に属していました。

 中世、国境が定まるとともに、田井浦は丹後国加佐郡志楽荘に「押領」されました。

 鎌倉幕府から本郷の地頭に任じられた東国御家人の源朝親は、やがて本郷を本拠地として本郷氏を名乗るようになりました。

 大飯郡の土着武士は幕府、守護方として行動する者が多く、応安4年(1371)の若狭国人一揆の時も、

 本郷、青、佐分、河崎氏らは、守護一色氏に従って一揆方を討っています。

 本郷氏や佐分氏は、鎌倉期以来の勢力を保って、守護の家臣にはならず、室町期には将軍直結の奉公衆になりました。

 戦国期になると武田氏の支配が強まり、本郷、佐分、大草氏に対抗して、高浜に逸見氏、和田に粟屋氏、

 佐分利川上流の石山に武藤氏という武田氏配下の有力武将が配置されました。

 ただ、永正14年(1517)と永禄4年(1561)に逸見氏が守護武田氏に背く事件が起きており、武田氏の大飯郡支配が安定していたとはいえません。

 武田氏末期、逸見氏や本郷氏は織田信長と結び、逸見昌経は高浜城主としての地位を信長から認められます。

 天正9年(1581)昌経の死後は、丹羽長秀の配下の溝口定勝、その後、天正11年(1583)に堀尾吉直、

 天正15年(1587)〜文禄2年(1593)に浅野長吉(長政)の代官浅野久三郎、文禄2年(1593)〜慶長5年(1600)に

 木下勝俊の代官木下宮内少輔がそれぞれ高浜城主となって支配しました。

 慶長5年(1600)関が原合戦で戦功をあげた京極氏が小浜藩領主となり、寛永11年(1634)酒井氏が入封して若狭を支配しました。


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塩浜海岸(大飯町) 袖ヶ浜海岸(大飯町)


◎ 本郷(大飯郡大飯町本郷)

 本郷は佐分利川下流の左岸に位置し、北は青戸ノ入江に面し、地内を丹後街道が東西に通り、

 道に沿って上下村、市場村、下薗村が形成され、中世から商工業者が混在した在郷町でした。


 また、佐分利川左岸堤防上を佐分利街道が通り、国境の永谷峠を越えて丹波(京都府綾部市)へと通じていました。

 この地域を支配した本郷氏の館は高田城と呼ばれて、上下村字浄光寺にあったようですが、

 天文年間(1532〜1555)に北の達城に移ったため、この辺りが本郷村の中心地域になりました。

 本郷村は、高浜から小浜への物資運送の継ぎ場でもあり、町場には宿屋、茶屋などの店が開かれるなど宿駅的な機能を有していました。

 また、佐分利川流域の村々の物資の集散地でもあり、市場村の東市場、西市場は、その交易の中心地でした。

 さらに宝暦年間(1751〜1763)から野尻銅山の荒銅の積出港として繁栄しました。

 天保9年(1838)の家数は上下村76軒、市場村68軒、下薗村16軒の合計160軒ありました。



本郷青戸大橋付近の海岸(大飯町) 本郷白浜海岸付近(大飯町)


◎ 和田(大飯郡高浜町和田)

 片間川流域に位置し、北境は高浜湾に面しています。現在は若狭高浜海水浴場として関西方面からの浴客で賑わう観光地です。

 当地は中世の和田荘だったところで、若狭守護武田氏の有力家臣粟屋氏が支配していました。

 和田は海上交通の要所であったため、永正14年(1517)丹後国守護一色氏の守護代

 延永春信が若狭高浜の逸見氏と結んで若狭に侵入したとき、和田に陣が置かれました。

 また、永禄4年(1561)にも和田で丹後勢との合戦がありました。粟屋右衛門大夫は、

 和田村白石山に城を築いていたといわれます。この頃、和田〜小浜間は船が用いられていました。

 江戸期、和田村に大飯郡内を支配する陣屋が置かれ社倉と伝馬が置かれました。また、

 和田陣屋下〜小浜間を結ぶ和田通船が明治初期まで続けられ、本郷村、勢井村にも寄港しました。

 このように和田は交通の要路として、海陸の連絡起点になっていたことから商業も盛んでした。



高浜和田海岸(高浜町) 青葉山遠景(高浜町)

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◎ 高浜(大飯郡高浜町)

 高浜は高浜湾に面し、丹後街道に沿った所にあり、地名は中世、室町期から見え、大飯郡木津荘のうちにありました。

 明徳4年(1393)5月、丹後国、天の橋立へ参詣途中の将軍足利義満が「木津荘高浜の矢穴」を一見し、高浜の玉花院に1日逗留したといわれます。

 この矢穴(八穴)とは、波の侵食によって穿たれた、天王山と城山との間の8つの穴を指し、名勝として知られていました。

 戦国期、武田氏が若狭領国を支配した頃、その家臣、逸見氏が高浜城に入り、丹後兵の侵入に備えました。

 永正14年(1407)6月、丹後加佐郡の一揆が若狭に攻め入ったとき、逸見豊前守や本郷の国人、本郷政泰らが「高浜之要害」を防備しました。

 永禄4年(1561)5月、高浜城主逸見昌経が守護武田氏に叛く事件が起きました。このとき

 敦賀郡司朝倉景紀は武田義統の要請を受けて若狭高浜へ出兵し、逸見昌経の拠った「松尾ヒル畠」を攻撃しました。

 そして「高浜、同城下、青郷」まで、ことごとく焼き払ったため、逸見昌経は逃亡しました。

 逸見昌経は織田信長と結び、武田氏滅亡後は信長から高浜城主の地位を認められましたが、

 天正9年(1581)病死しました。その後の高浜城主の変遷は、大飯郡の項で説明したとおりです。

 このように高浜は、永禄8年(1565)頃に築かれた高浜城の城下町を形成しましたが、

 寛永11年(1634)酒井家の若狭入封によって城は廃され、熊川、佐柿と並ぶ町場として町奉行が置かれるようになりました。
 
 元禄年間(1688〜1703)には石塚町、横町、赤尾町、本町、中町、大西町、今在家町、

 岸名町などの町があり、家数500余戸、農漁工商が雑居した在郷町となりました。

 延享3年(1746)の家数は、浦方175軒を含めて603軒で、他に16の寺庵があり、人数は2567人でした。

 文化4年(1807)には家数は672軒、人数2738人、寺16ヵ所、社4ヵ所と増加しています。

 明治22年(1887)塩土、若宮、三明、事代、宮崎の5町と子生(こび)、坂田、中津海、鐘寄、畑、立石、薗部、岩神、笠原の9ヵ村が合併して高浜村になりました。

 明治34年(1901)舞鶴鎮守府開庁に伴い、当村は軍港区域及び要塞地帯となりました。



奇勝八穴の1つである明鏡洞(高浜町) 中山寺(高浜町)


 丹後街道は、城下町の中にあった若宮から立石へ出ると、中寄で国道27号と分かれて東三松、西三松を経て関屋川に沿いながら青郷に至ります。

 青郷を過ぎると関屋、蒜畠、六路谷を経て吉坂峠を越え丹後国(京都府舞鶴市)へ入りました。



◎ 関屋(大飯郡高浜町)

 関屋は、高浜町の西部を流れる関屋川の上流域に位置した集落で、丹後街道の国境、吉坂峠を控えて、古くから関が置かれたところと伝えられます。

 ここは丹後街道だけでなく丹後の松尾寺から下りてくる巡礼道、丹後多門院から若狭上津の黒部谷へ下りてくる道が出合う要所でした。

 だから昔はここに「関」が置かれたのでしょう。その名残りか、路傍に「休屋」が残されています。



◎ 蒜畠(大飯郡高浜町)(ひるばたけ)

 福井県の最西端、大飯郡高浜町六路谷の1つ手前(東側)に蒜畠集落はあります。

 その南端、街道沿いに「若州女留関所之古跡」と記された関碑があり、「女留」とあることから、江戸期、この付近に女留番所がありました。

 幕府の政令に従い、各国は「入鉄砲」と「出女」に厳しく目を光らせました。

 ここを過ぎると六路谷を経て吉坂峠へ上っています。今はトンネルで通過しますが、旧峠路は、トンネルの上を直角に越えたといわれます。


吉坂峠下の吉坂トンネル 吉坂峠下の吉坂トンネル


◎ 吉坂峠(福井県・京都府県境)

 高浜町と舞鶴市の県境にある標高約120mの峠で、古来、この峠を丹後街道が通っていました。現在は吉坂トンネルが峠下を貫通しています。

 この峠は、北の青葉山(高浜町)と南の三国岳(高浜町)の間にある若狭・丹後旧国境尾根の最低鞍部にあります。

 近世、東方(福井県側)の蒜畠に女留番所が置かれ、さらに古代、中世には東の関屋に関所が置かれたといいます。

 また、峠は戦略的要地として、しばしば合戦の場となり、戦国期に若狭・丹後の諸勢力が戦いました。

 永禄9年(1566)高浜城主逸見駿河守が丹後の兵を迎え撃ったと「若狭郡県史」に記されてあります。

 旧峠は現在、廃道になり、高浜町六路谷からの旧峠登り口に杉森神社があって、境内に菩提樹の巨木と国天然記念物御葉付銀杏2株があります。

 県境の峠道左右には大石があり、古来から旧国境を示す境石だと伝えられ、また、形が犬に似ていることから犬石といわれます。

 西(丹後)に向かって右の石を若狭犬、左の石を丹後犬と呼ぶそうです。


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主な参考文献

角川地名大辞典18福井県    角川書店
福井県史 通史編2 中世、近世1   井県
越前・若狭 歴史街道   上杉 喜寿 著
近江・若狭と湖の道     藤井 譲治 編
福井県の歴史          印牧 邦雄 著
福井県の歴史散歩         山川出版社



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