6.2 時代背景と関連事項 (6) 群雄割拠と大名領国制 応仁の乱後、幕府の統制は全く弛緩し、将軍足利義尚の支配権は山城一国だけと貧弱かつ形式的な存在となり 室町幕府は実質的に権威を失いました。 一方、諸国の諸将は各々独立して領国支配を強化し、その圏内を完全領土として領国経営を行いました。 この領国支配権内においては軍事・司法・行政の各部門が各々独立して専断実施され、それぞれ特殊な性格を示しました。 しかし、法制は貞永式目を範としたものが多く、その内容は領国内を完全に知行し統一する政策、 家臣統制策など新しい武家社会組織に関し、ほぼ共通する規定及び一般民衆への深い政治的考慮をめぐらしたものでした。 (7) 下剋上の風潮と農民一揆 ○ 農民一揆の頻発と戦国大名の出現 応仁の乱によって室町初期の守護大名は没落し、その家臣が領国を横領略奪したり、名もない地方土豪が勢力を強化したりして新興大名となっていきました。 この旧支配者に属していた者が、その主人を倒して支配者の地位に就く現象を一般に下剋上と呼び、室町期にはあらゆる領域でこの下剋上の風潮が見られます。 こうした風潮は農村の力も成長させ、自治制の発達によって惣のような連合体をつくりあげた郷村は、不法な支配者に対し農民一揆を起こして強力に対抗しました。 当時、戦国大名のもと農民は次第に加重する租税と貨幣流通、商品経済の農村内部への浸透によって経済的に著しく窮乏してきました。 このため農民は徒党を組み、多数の郷村を結合して領主に対し賦課の減免を要求し、 15世紀中頃からは各人が農具などを持って暴力で領主に迫って自己の主張を強要しました。 こうした農民の集団的行動を土一揆・徳政一揆などと呼んでいますが、土一揆は主に近畿地方のような 郷村制を発達させ、また商品経済が農村にも普及した地方に多く発生しました。 当時の農民を苦しめた土倉や酒屋などの高利貸の経済的圧迫から逃れる目的で徳政令の発布を要求し、 貸借関係を帳消しにさせたものが最も多く、足利義政は土一揆の要求によって13回も徳政令を発しています。 応永25年(1418)近江国大津の馬借数千人が京都で一揆を起こしたのをはじめ、正長元年(1428)の徳政一揆は 京都に乱入して酒屋・土倉・寺院を破壊し、種々の物品を掠奪し借銭も悉く破棄させました。 このような一揆は忽ち近畿一円に波及し、翌年には播磨や丹波にも土一揆が蜂起しました。 享徳3年(1454)の徳政一揆で幕府は徳政条目を改め、借銭の十分の一を以って本物を取り返すことにしました。 しかし、一揆の頻発は止まず、16世紀後半に有力な戦国大名が出現するまで続き、徳政令も前後数十回に及びました。 中でも文明17年(1485)に蜂起した山城・大和・河内の土一揆は大規模で、山城は国を挙げて土民が参加しその勢いは強力でした。 山城国衆36人を中心とする民衆勢力は畠山政長及び畠山義就の軍勢を会議の決議で実力で山城国から追放し、 両畠山氏が設けた関所を撤廃して山城一国を支配し、総国月行事を置いて法律の議定並びに施行をして7年間にわたって土民自治制を続けました。 この民衆政権も後に在郷武士の有力者に掌握され、彼らを大名的に成長させる結果を招き内部的に崩壊していきました。 ○ 一向一揆の発生 この他下剋上の風潮は宗教界にも波及し、15世紀末期から一向一揆が発生して16世紀中期に最も盛んになりました。 一向一揆は近畿・北陸地方に大規模に蜂起したもので、真宗本願寺派の民衆教団組織が連合した勢力で、その構成分子は大部分が農民でした。 中でも本願寺蓮如は一向一揆の組織者として活躍し、吉崎道場を開いて、ここを本拠にして農民と在郷武士の連合軍を組織し、長享2年(1488)加賀国に蜂起しました。 この一向一揆は高尾城を攻略して加賀守護富樫政親を自殺させ、その後、約1世紀の間、真宗農民支配による本願寺領国が成立しました。 この勢いは更に諸国に及び、相互に連絡して領主と対抗し、上杉謙信の祖父長尾能景も越中の一向一揆に攻められて戦死しました。 元亀元年(1570)本願寺光佐は、一向一揆を指導して伊勢の長島城に拠って信長に対抗し、容易に降伏しませんでした。 しかし、こうした一揆の勢力も全国統一という大きな時代のうねりに逆らうことはできず、 天正2年(1574)長島の衆徒約2万は、信長の大軍に絞殺されて降り、三河一揆は家康と妥協し、石山本願寺もまた武器を放棄しました。 |