6.3 時代背景と関連事項
(8) 郷村制の成立と社会組織
○ 郷村制の成立
村はムレを語源とし、人の群れが一定地域に住みついて共同生活を営んだ社会的な単位でしたが、大化以来は郷、里の名で呼ばれ官制上は消えていました。
ところが平安中期頃から村人の生存地域としての村が税を納めるようになり、鎌倉期になると
土豪の強力な者は荘園支配を脱して 守護の保護の下で新しい村を統制するようになりました。
室町期になると村の自治が進み、応仁の乱以後は荘園制が崩壊、村が社会組織の重要な単位となり、
宮座を中心とする村落結合が進み、更にこのような村の連合体が形成され、一般にこれを惣と呼びました。
百姓請といって惣百姓の連帯責任で年貢を請負うのですが、これによって不法な重税に対抗することができ、
その他災害防止とか生活維持のための入会地、灌漑用水管理等を行うことで、村の自治的団結がますます強固になりました。
郷は大家族である郷戸の郷戸主を中心とした行政単位でしたから地域とは無関係でした。
これが平安期には何郷という一定地域を示すようになり、鎌倉期には国衙領は主に郷を単位として存立しました。
室町期になると寺社直轄領などを先駆として独立自治的な郷ができ、これが一般化して応仁の乱後は
村と共にほとんど全国に普及し、いわゆる郷村制が社会単位の最も基礎的なものになります。
このような郷や村は高度な自治制をもち、また、文化の温床ともなり、農民を基盤に下級武士、僧侶、
商人、職人、芸能人等中堅層を広汎に包含して都市の要素と農村の要素を共通に備えていました。
戦国大名は、この地方自治組織の中核である郷村に目をつけ、動いている実体に即して分国統治法式を推進しました。
分けても織田信長は郷村の保護助長政策をとり、郷村制を地方制度の単位としました。
信長の独創的諸政策を踏襲した秀吉は、兵農を分離して城下町に郷村の上層部を吸収し、都市と農村の区別を明らかにしました。
また、刀狩りによって農民の武装を解除し、農民が武力化することを不可能にしました。
慶長2年(1597)5人組、10人組の法制を発布して5人組制を全国的に組織し、徹底的に検地を行い農民を完全に土地に縛り付けました。
かくして郷村における防衛、自治の力は完全に去勢され相互扶助と隣保共助の組織だけが残されました。
それは更に江戸期の5人組法規制定と厳しい実施によって法的にも禁制郷村制が完成します。
○ 社会組織
郷村制を基本とする一円知行制が一般化した室町期の郷村では、住民の大部分は百姓と呼ばれ、百姓には名主・作人・下作人がおりました。
名主・作人は地主又は自作農民で、別名を本百姓とも番頭百姓とも呼びました。名主はしばしば武士化して郷士・地侍・給人・被官などと称しました。
下作人は名子(なご)とか下人(げにん)などと呼ばれ農奴的な存在でした。また農業を行いながら商業を営んだり、
鍛冶・鋳物・土器・その他の細工などに従事した職人等がおり、僧侶・神官等は文字・医術・農業技術等の指導者で、寺社は郷村の文化センターでありました。
郷村自治の代表機関が公には番頭・名主沙汰人(みょうしゅさたにん)と呼ばれる者で、民衆の間では老(おとな)又は長(おとな)、老衆、年寄衆などと呼ばれました。
別に若衆とか若党と呼ばれる青年の集団社会が形成されていました。このような郷村を
数箇所統御した武士が館を構えて存在し、更にこれらを多数支配したのが大名でした。
このほか社会の上層部に公家と僧侶がおり、公家は鎌倉期に5摂家に分裂しましたが、室町期には清華家、大臣家、
羽林家、名家等に細分化し、寺院は社会状態の推移に応じて大名化したところに特色を示しています。
|