6.1 時代背景と関連事項 (1) 鎌倉幕府の守護・地頭 鎌倉幕府は当初、源家統制の私的機関として出発しましたから、その政治は朝廷政治と併行して行われました。 従って幕府が貞永式目を制定発布すると、一方で朝廷は大宝律令以下の格式の補として「新制」と名付ける新法令を発布し、 また、幕府が守護を置いた後も朝廷は検非違使や国司を従来どおり任免していました。 このことは鎌倉幕府全期150年間を通じた特異な性格であり、この点、室町・江戸幕府とは性格上著しい相違がありました。 このように私的機関として出発した幕府の組織は、その勢力が拡大するにつれて必要に応じ発展的に整備され、 公的な政権へ発展していくに従い諸機関も公的性格を持つようになっていきました。 地方機関の一つとして設けられた守護・地頭は、その後、従来の国司や荘園制度に深く関わり、大きな影響を与えていきました。 ○ 守護 文治元年(1185)源頼朝が勅許を得て国毎に有力御家人を任命して設置した職名で、 その職掌は大犯3条と云われる 設置当初の守護勢力は朝廷が任命した国司の支配地、権門・寺社の荘園等には及びませんでしたが、 源義経追捕の事件が起きたのを契機に建久3年(1192)北条時政が兵を率いて入洛し、 院に迫って諸国に守護を、また全国の公領及び荘園に地頭を設置することを承認させます。 守護は当時、惣追捕使と呼ばれ諸国に一人を原則としましたが、一国に二人の守護のあるところもありました。 常設永久官で、任免はすべて朝廷の裁可なく幕府が御家人を守護に任じました。 守護の所在地を守護所といい、おそらく国衙の近くに設けられたと考えられています。 守護は国司の国務を妨害してはならないと規定されていましたが、守護・地頭の勢力が 次第に強大になるにつれ、国司の勢力は衰え、室町期になると国司制はほとんど見られなくなります。
○ 地頭 地頭は本来は荘園を現地管理する職名でしたが、源頼朝によって補任された地頭は荘園の私職を脱して国家の官職に近い性格を帯びたもので、 最初は全国の荘園、公領において権門領たると否とを問わず一様に設置する権利を勅許されましたが、 権門勢家の強硬な反対によって7ヶ月後には平家没家領並びに兇徒隠住の場所のほか権門勢家領の地頭を停止しました。 その職掌とするところは、最初の名目は義経、行家の追捕を主な任務としましたが、一方では補任地の治安維持、 守護所管以外の検断、例えば博打、窃盗、放火、誘拐、姦通、傷害等の処分を行い、又、租税の徴収、貢納等をもその職掌としました。 この 事実上は、その職に付属した得分、即ち土地財産権が重要な意味を持ち、地頭職は封建所領としての物件的性質が濃厚でありました。 従って鎌倉時代の封建所領は地頭職であったともいえます。 鎌倉幕府は御家人の経済的基盤としての土地、即ち地頭職を給し、或いは新たに御家人となった者には、 その所領を地頭職として保証することにより主従関係を結びました。 地頭職は官給の財産でもありましたから、売買、質入、寄進、贈与の対象物となり、これを相続させたり、 分割譲与も可能でしたので、 後には半分地頭職、三分の一地頭職のようなものも現れました。 貞応2年(1223)承久の変によって公家の所領三千余ヶ所が没収され、新しく宣旨をもって御家人に地頭職が分与されたので、その数が急激に増加しました。 この新任の者を新補地頭と呼び、従来の者を本補地頭と言いました。新補地頭は貞応2年(1223)6月の宣旨で決定され、 11町の田畑の中で1町が地頭の得分として年貢、諸役を免除して給与されました。 また、この他に1段について5升の加徴米をとることができ、さらに江戸時代の小物成に当る桑・麻・ 本補地頭では、このような規定がなく地方によって著しく相違し、その地の慣習法によって決定されました。 これら地頭設置によって幕府の支配は直接間接に荘園公領に普及したので、幕府は実質的に全国の封建的統制を完成する端緒を開くことができました。 そのため国家的政治理念の立場から公家の態度は極度に反発的となり、例えば鎌倉に好意をもっていた公卿九条兼実さえ、 その著「玉葉」に“凡そ言語の及ぶところに非ず”といって鎌倉幕府を非難しました。 (2) 室町時代の守護及び国司の盛衰 南北朝から室町期における地方制度の中で特に重視すべきものは守護ですが、後醍醐天皇の 中興政治で国司が復興されたものの、その実行は困難であり依然守護勢力が強大でした。 この情勢を利用したのが足利氏で、諸国の守護は室町幕府成立当初から単に一国内の政治に力を入れ、 権力の拡大を図ったばかりでなく、後に細川、山名、大内等の大名は5ヶ国10ヶ国の守護を兼ねる有様で、幕府の威令も行われないほどになりました。 このように多くの守護を兼ねている大名は守護代を派遣しました。制度上の立場から見ると 国衙領も国司も存在しましたが、実質的にいつ頃消滅したかは明らかではありません。 (3) 荘園制社会の変遷 律令制国家が成立し、国家は新たな土地制度の公領(国家の土地)によって財政的基盤を確立させました。 しかし、この制度も時代の変遷と共に次第に崩壊して公領は減少、私有の荘園が増加していきました。 ○ 荘園制の成立 元来は田舎の園池や別業の田園をさして言ったので、租(班田農民の負担。男女平等で口分田収穫の約3%)を出すのが普通でした。 しかし、奈良時代に既に土地公有の国家の大方針は崩れ、一時的にも私有を認める功田ができ、免租の地(寺・神・職田)が別にありました。 そこで免租の地は私有化を狙い、私有地は免租化を企てました。こうして出来上がった私有地で免租の地を荘園というようになりました。 ひとたび免租になるや検田使の入園を拒み、更に警察権を行う国司の立入りを断り、 不輸(租を出さない)不入(国司不入)の地として国家権力から独立した小国家のようなものになってしまいました。 ○ 荘園の形態 ◎ 墾田地系荘園 ● 荘園の開拓者は、 多くは地方豪族で古くからその地方に定住していた郡司、元国司で土着した者、姓をもつ中央貴族の地方下りした人等でした。 ● 彼らは旧来の帳内、資人、事力等下端の役人、奴婢、班田民、浮浪人等を使って荘園を開拓させました。 ● そこへ付近の小地主の公民が荘園に入り、荘園は公領を中に包んで増大していきました。 このほか中央の貴族、寺社が自ら開墾した荘園を多く持っており、これらを墾田地系荘園と呼んでいます。 ◎ 寄進地系荘園 地方豪族は、不輸不入の特権獲得又は維持のために中央の権門勢家即ち貴族・寺院等と結ぶ必要が出てきました。 そこで土地を寄進して自らは領主となったり、或いは名義上の領主権まで寄進して荘官( 領主権を寄進された貴族・寺院を領家といい、寄進によって米等収入の一部を受け、その代り豪族の土地を保護し権利を守ってやりました。 しかし、領家は自分で十分でない時には、更に院宮などの権威者に寄進して、その保護を受けるようになりました。これを本家( こうして中央の権門勢家は墾田地系荘園の他に寄進地系荘園を持つようになりましたが、この傾向は10世紀の摂関期以後、特に多くなりました。 本家、領家として寄進を受け繁栄したのが藤原氏ですが、政治上の力がなくなると共に年貢は減少し、 代って源平に直接寄進する者が多くなって平家が遂にその第1となりました。 ここに経済面からの土地支配だけでは藤原氏のように弱体化することに気づいた平家は地頭家人制をとり始めますが確立するまでに至りませんでした。 これを源頼朝に至って、守護・地頭制をとり武家政治の経済的基礎を確立したのです。 (4) 荘園制の崩壊と守護大名の出現 鎌倉時代、地頭の勢力が強大になってくると荘園領主は、荘園の管理や年貢の徴収を地頭に請負わせて自己の直接支配から手を引くようになりました。 このような 荘園の所有者である本家や領家を次第に荘園から遊離させることになりました。 やがて地頭は本家や領家から請負っている年貢を納めない場合が多くなり、本家、領家は以前のような直接支配に戻すことを望みましたが、 地頭の力が強く荘園内に及んでいて、全部を元通りに取り戻すことができず、 ここに下地中分という法、即ち荘園を二つに分けて半分は地頭の完全支配、半分は本家・領家の完全支配とすることが一般的となりました。 この傾向は室町初期にほとんど全国に及び、全国荘園の半分は地頭支配地となりました。 力のない本家や領家は勢力が強大な守護に年貢徴収を任せるようになりました。 これを この他、足利尊氏が臨時の処置として一時的に行った これは吉野朝に対抗して戦功のあった守護や武将に恩賞として特定の荘園収入の半分を与えたのですが、戦後も権利を主張して恒久的なものとなりました。 こうした事情で荘園は鎌倉末期頃から次第に崩壊し、度重なる社会動乱に際して 地頭はその身の安全を保証してくれる強力な支配者と契約を結んで、その支配下に入りました。 このような支配者は当時各国の守護でしたから、守護は一層強力になり、守護請で横領した荘園なども在地の荘官は全て守護の臣下となりました。 かくて守護は領国一円を支配する形が新しく出来上がり、鎌倉時代の血縁を中心とした 一族郎党の主従関係を根拠に成立していた封建主従関係が地域を中心とする守護とその領国内武士との主従関係を中心とする封建社会に変化しました。 こうして守護勢力は強大化していき、従来の国司の勢力をも併せて一身に兼ねることになり、 一円を知行する封建領主の性格をも備えるに至り、いわゆる守護大名が成立、その支配地を領国とも分国ともいいました。 (5) 守護大名の強大化と応仁の乱 室町幕府は、その統制が最初から脆弱であって、公武の大権を一身に帯びた専制独裁君主の観があった第3代義満時代が全期間を通じて最盛期でしたが、 この時期でさえ守護大名の反乱があった位ですから、前述のように守護大名が強大化すると将軍の威令は行われず度々反乱が起りました。 以下列挙すれば次のとおりです。 ◎ 明徳2年(1391)山名氏清の乱 ◎ 応永3年(1396)大内義弘の乱 ◎ 永享10年(1438)関東公方足利持氏の乱 ◎ 嘉吉元年(1441)赤松満祐の乱 が発生し、赤松の反乱では第6代将軍義教が満祐の謀略によって殺害されています。 この間の幕政の紊乱は、守護大名の勢力を益々強大にし、中でも細川氏と山名氏の勢力は絶大となって、 守護大名はこのいずれかの配下に属して、天下の勢力がほぼ2分されました。 たまたまこの頃、将軍家の家督争いをめぐり、細川氏と山名氏が対立し、管領家の斯波・畠山両氏も 家督相続に当って内部分裂し、両氏とも二分して細川方と山名方とで対立しました。 この両勢力は畠山氏の内紛をきっかけに応仁元年(1467)5月26日、将軍を擁した細川氏を中心とする東軍と山名氏を中心とする西軍に分かれて戦闘が開始されました。 この戦は全国の軍勢が京都に集中して前後11年間に及んだため京都は荒廃、全国に波及して地方もまたほとんど戦場と化しました。 この間、争乱の中心人物であった細川勝元と山名宗全が相次いで死亡したので戦乱の勝敗は決せず、 文明9年(1477)11月、大内・畠山諸氏らが帰国したことで京都の戦乱は鎮まり、応仁の乱は鎮静化しました。 【参考】 東軍:細川勝元とその一族、畠山政長、斯波義敏、京極持 清赤松政則、富樫政親、武田国信等分国およそ24国 西軍:山名宗全(持豊)とその一族、畠山義就、斯波義廉、 六角高頼、一色高直、土岐成頼等分国およそ20国 ○ 応仁の乱後の影響 日本史では、この内乱を以後100余年間続いた「戦国時代」の幕開けと位置付けていますが、乱が国内に及ぼした影響を要約すれば次のとおりです。 ◎ 幕府は完全に衰退 ◎ 荘園制は崩壊、公家は没落 ◎ 新しい領国支配が出来上がる ◎ 守護大名は分裂弱小化、その家臣が新たに大名 ◎ 大名領国制が全国に行き渡り、群雄割拠の戦国時代が展開 ◎ 古来の名家及び一族郎党を統合した惣領制が崩壊 ◎ 社会結合単位が根底から変化、小家族制が支配的 ◎ 社会思想の全領域に下剋上の現象が著しくなった ◎ 京都が荒廃し文化人が四散して地方へ移住 ◎ 郷村の成長と相俟って地方文化が著しく向上 |