5.4 北陸の一向一揆


(8) 織田信長と越前一向一揆

@ 越前一向一揆の蜂起

 天正元年
(1573)8月20日、朝倉義景の敗死によって越前を平定した織田信長は、元亀3年(1572)8月北近江対陣中に信長方へ寝返り、

 越前攻めの先手陣の一人として活躍した前波吉継(桂田長俊と改名)を越前守護代として一乗谷に、

同じく寝返り組みの一人である富田長秀
(富田長繁ともいう)を府中城主に任命し、その目付として津田元秀、木下助左衛門尉、明智光秀の三人を北の庄に配置しました。



● 桂田長俊に対する富田長秀の反乱


 天正2年
(1574)正月19日富田長秀は桂田長俊の専横、重税を批判して国内の一揆衆を扇動し、総勢15万という一揆勢をもって一乗谷へ攻め寄せました。

 翌20日一乗谷砦の木戸口を突破し、桂田長俊はじめ家臣らすべてを討ち取り、次の21日に余勢を駆って北の庄の津田元秀ら織田信長家臣の館へ攻め寄せて追い出しました。

 この動きに本願寺は、すかさず越前・加賀の末寺や一向衆に一斉蜂起を指令、富田長秀に与力した一揆勢が蜂起しました。

 その動きを要約すると次のとおりです。

 @ 一乗谷を攻めた8日後、正月28日に仏敵高田派仙福寺を襲って気勢を上げる。

 A 本願寺指令により金沢御坊から坊官
(寺侍)七里三河法橋頼周が越前に入り、長崎称念寺を陣所に定め、越前一向一揆の総大将となる。

 B 朝倉景鏡が身の危険を感じ、家臣・家族らとともに平泉寺へ逃げ込んだ。

 C 2月上旬、府中城主富田長秀誅伐のため15万の大軍で北の庄に押寄せて富田長秀の家臣らを討ち取った。

 D 2月14日、一向一揆の大軍は富田長秀の本拠地府中を包囲した。長秀は府中町人衆、鯖江誠照寺、横越証誠寺など

 反一向勢力の合力を得て奮戦したが、長泉寺山
(鯖江市)で部下の裏切りによって背後から銃撃されて討死した。

 E 2月下旬、七里三河法橋頼周の指揮で一揆の全軍が平泉寺へ押寄せた。迎え討った平泉寺衆徒や朝倉景鏡の家来なども善戦したが 4月14日には寺内へ乱入され全滅した。

 F 平泉寺を焼亡させた一揆勢は、同年5月織田庄にいた朝倉兵庫助景綱の砦を襲い、景綱を敦賀へ追い払った。

 G 国内の旧朝倉系武士や信長系の国人らを掃討した一向一揆は、さらに反一向宗の勢力にも矛先を向けて暴れ回った。

 曹洞宗大本山永平寺も、このとき一向宗徒に襲われて北の庄へ避難している。

 H 6月中旬、一揆勢は信長の部将堀秀村らが守備していた北陸道の要所木の芽峠砦を攻撃して、

 これを奪い、堀秀村、
阿閉(あつじ)貞征(さだゆき)ら守備隊を敦賀へ追い払った。

 信長は敦賀に羽柴秀吉、丹羽長秀らの部隊を置いて越前の動向を監視させましたが、この時点ではそれ以上の行動には出ませんでした。

 信長方の守備隊を木の芽峠から追い払った一揆勢は、木の芽峠にある観音寺丸、鉢伏城、鷹打嵩砦や燧が城、今庄城などの要害を厳重にして信長軍の攻撃に備えました。



● 越前一向一揆の内部分裂 

 越前が「一揆持ち」の国になると本願寺第11代門主顕如
(1543〜1592)は、本願寺支配を樹立するため、

 本願寺坊官を支配者として越前へ送り込み本願寺領国制を具体化させました。

 越前守護として下間筑後法橋頼照を、足羽郡司として下間和泉守を、大野郡司として杉浦壱岐を、

 府中・南条の支配には七里三河法橋頼周に支配させる態勢をとりました。

 新しく支配者となった本願寺坊官らは越前一国の門徒住民などに対して、租税は従来の半額にするが、それを全部本願寺へ納めるよう指令しました。

 末寺の坊主達は本願寺からの知行を所望しましたが、本願寺側はそれは門徒からの志納金で賄うべきであると撥ねつけました。

 そうなると坊主達は、それぞれの立場で門徒に負担を強いることになるから本願寺の租税負担は有名無実となり、

 門徒・農民達の負担が従前よりもかえって重くなりました。

 この過分な負担に対し門徒達の不満は次第に高まっていきました。更に自分たちの手で国の政治を行うため一揆を起こしたのに

 上方
(本願寺)から来た何も知らない支配者の下知で国の政治が壟断されるとは思いもよらないことでした。

 こうした不満が募り、次第に大坊主の命令に服さない門徒達が増えていき、それを実力で押えようとする大坊主や現地支配者などと殺傷沙汰が引起されるに至りました。

 これに対して越前守護下間筑後法橋頼照は、一揆衆で徒党を組む者は成敗するという奇妙な命令まで出さなければならない事態に至りました。

 一揆の中に一揆が起るといった現象が頻発し、日を追う毎に階級的反目が深刻化していきました。

 越前一向一揆は、こうした内部分裂を抱えながら織田信長軍と対決しなければならなかったのです。




A 織田信長の越前侵攻

● 越前一向一揆の壊滅


 天正3年
(1575)8月15日、信長は10万5千余の大軍を敦賀に進め、木の芽峠、杉津口などの砦めがけて一斉に攻撃してきました。

 杉津口砦に籠っていた一揆方の堀江景実、神波七兵衛らは、すでに裏切りを決めていたため、

 同じ砦内にいた七里三河法橋や円宮寺など一揆勢は背後からも攻撃を受け、たちまち総崩れとなり、砦は放火されて炎上しました。

 この杉津口砦の炎上を見た木の芽峠、鉢伏、今庄、燧の諸砦に籠っていた一揆勢は、たちまち戦意を失い、我先に府中方面へ退却を始めました。

 これを数百艘の舟に乗った信長軍が河野海岸へ上陸し、馬借街道から府中へ急行した明智光秀、

 羽柴秀吉の軍勢が二手に分かれて、今庄方面から退却してくる一揆勢を待ち受け討ち取りました。

 このとき府中の町は一揆勢の死骸で足の踏み場もない有様だったといいます。この戦で惨殺された

 一揆衆は3万から4万にも及んだといわれ、まさに古今未曾有の大虐殺でした。




● 信長の侵攻と越前支配

 越前の一向一揆を殲滅した信長軍は、坂北郡にあた豊原寺
(坂井市丸岡町)を焼き払い、

 余勢を駆って加賀へ侵入し能美、江沼両郡を席捲して、大聖寺、檜尾に砦を築いて守備隊を置いて引上げました。

 信長は越前一国を柴田勝家が支配することを命じ、不破光治、佐々成政、前田利家らには府中三人衆と称し

 今立・南条両郡及び丹生郡の一部の分掌と柴田勝家の目付を、大野郡は金森五郎八と原彦次郎が、敦賀郡は武藤宗右衛門が支配することを命じて9月26日岐阜へ凱旋しました。




● 一向一揆の余燼と消滅

 越前支配後の本願寺教団に対する取締りは厳しく、本願寺派門徒の改宗政策が強行され、一向一揆再発防止措置が徹底して行われました。

 柴田勝家は翌天正4年
(1576)刀狩りを行って兵農分離政策を推進しました。これも一旦「一揆持ち」の国になった越前に対する一揆再発防止の一環でした。

 天正8年
(1580)11月、柴田勝家は加賀一向一揆の首領級の国人19人の首級を信長のもとに送って加賀一国の平定を報告しています。

 天正9年
(1581)2月、上洛した柴田勝家に対し信長は越前・加賀平定を功賞し、加賀一向一揆の組織的活動は消滅しました。

 長享2年
(1488)高尾山の攻撃に始まった加賀本願寺領国と一向一揆の長い歴史は93年の歩みをここに閉じました。


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