5.3 北陸の一向一揆



(6) 越前朝倉氏と一向一揆



○ 明応3年(1494)10月の一向一揆

 第9代将軍足利
義尚(よしひさ)の死去により、第8代将軍足利義政の弟義視(よしみ)の子、

 
義材(よしき)(後に義尹・義稙と改名)が延徳2年(1490)7月第10代将軍の座に就きました。

 しかし、細川政元を筆頭とする反義材・反畠山政長派の勢力は明応2年
(1493)4月、クーデターを起こして畠山政長を自害させ、義材を捕え京都竜安寺に幽閉しました。

 義材は同年6月29日脱出、越中守護代神保
長誠(ながしげ)を頼って逃げ、将軍職奪還の機会を窺っていました。そして明応3年9月、挙兵して上洛を目ざしたのです。

 これに従った加賀守護富樫
稙泰(たねやす)や一向一揆の有力国人州崎慶覚・河合宣久、朝倉氏に追われ加賀へ亡命中の甲斐浪人らが越前へ侵入してきました。

 軍勢は小松・本折・福田・大聖寺・敷地・菅生・橘
(いずれも加賀の地名)と先陣後陣の間が8里(32キロ)も連なる大軍でした。

 10月18日、一部軍勢は越前大野郡へ進撃し、21日に豊原寺を攻めましたが激戦の末、朝倉軍に撃退されました。

 翌明応4年正月、一揆軍の河合宣久が急死すると州崎慶覚は、将軍足利義澄方へ鞍替え、細川政元方につきました。

 こうして義澄=政元=実如=一向一揆という陣容が形成されました。これに対して朝倉貞景は、

 一乗谷に入った足利義材を擁し、越後の長尾
能景(よしかげ)、近江の六角高頼らと同盟し、反政元・反本願寺の旗職を鮮明にして加賀の一向一揆を挟撃する態勢をつくりました。

 明応8年
(1499)11月、義尹(よしただ)と名を改めた義材は、能登・越中・越前などの兵を率いて

 近江坂本まで進攻しますが、細川政元の反撃に敗れ、大内
義興(よしおき)を頼って周防へ亡命します。



○ 永正元年(1504)8月の一向一揆
 
 文亀3年
(1503)4月、管領細川政元は家臣の朝倉元景に命じ、越前敦賀郡司職の朝倉景豊に謀反するよう唆しました。

 この元景は一乗谷初代孝景の四男で、はじめ孫五郎
景総(かげふさ)と称しましたが妾腹であったため、

 本腹である舎弟教景
(小太郎)に嫉妬し、彼を殺害したことから朝倉家を出奔して細川政元の家臣となっていました。

 元景から宗家に対する謀反を勧められた朝倉景豊は、元景にとって娘婿の間柄であったので、

 細川政元の朝倉家内部撹乱を図った謀略でしたが、陰謀を察知した朝倉貞景の対応が早かったため、この謀反は未遂の段階で鎮圧されました。

 朝倉景豊の謀反工作に失敗した元景は、今度は加賀の一向一揆と結んで、翌永正元年
(1504)8月、再び越前侵攻を図りました。

 この越前侵攻も加越国境で撃退され、元景を使った細川政元の朝倉家撹乱の策謀は失敗しました。




○ 永正3年(1506)の大乱

 越前守護朝倉氏と一向一揆との本格的な対立は、永正3年
(1506)7月に近畿・東海・北陸の広範囲な地域で大規模な一揆が同時に蜂起したときです。

 この一揆の蜂起は、将軍足利義澄・管領細川政元と連携した本願寺第9代実如が命じて挙兵したもので、

 攻撃目標は、能登へ逃亡して勢力挽回を狙う足利義稙
(義材)及びその味方の守護大名達でした。

 すなわち越前の朝倉貞景、越中の畠山尚順、越後の上杉房能・長尾能景、河内の畠山義英などでした。

 この一向一揆のことを「永正3年の大乱」と称し、本願寺法主実如の命令で坊主・門徒が軍事行動を起こした始まりでしたので“具足懸け始め”といわれます。

 この頃の本願寺は、宗教教団というより守護大名化し、管領細川政元と結びついて世俗的権力抗争の渦中に入っていました。




○ 永正3年(1506)越前の一向一揆

 さて越前の状況ですが、3月、一向一揆勢の越前上口
(近江と越前の国境)侵攻から始まりました。

 本願寺実如の指令により、天王寺弥二郎らを大将とする摂津門徒・海津坊主衆・近江高島門徒、顕証寺蓮淳の家臣佐久良宗久の率いる一揆勢らの大部隊が侵入してきました。

 これに対し朝倉方は、七里半越え
(敦賀・海津間)の隘路を扼して反撃を加えたため、一揆勢は海津付近まで潰走し、ここで土民に包囲されて全滅の危機に瀕しました。

 このとき実如から依頼された堅田本福寺明宗が数百艘の兵船を海津に派遣し、全員を救出しました。

 越前上口からの越前侵攻は、こうしてあえなく失敗しますが、同年7月、能登・越中・加賀・越前各国門徒らが連合する未曾有の大一揆軍団が重ねて越前下口
(北部)から侵入してきました。

 一向一揆の第1陣は7月14日大野郡から侵入、これに対し翌15日敦賀郡司の朝倉宗滴
(教景)を総大将に朝倉軍は出陣しました。

 同月17日赤坂で合戦、また豊原の退口で豊原寺大染院・平泉寺明王院および朝倉宗滴が合戦、岩屋合戦では朝倉
景職(かげもと)が活躍しました。

 7月17日、総勢30万という大一揆軍団が兵庫
(坂井市坂井町)・長崎(坂井市丸岡町)などの各所に布陣し一乗谷を攻撃すべく進攻しました。



○ 永正3年(1506)九頭竜川の決戦

 越前守護朝倉貞景は、諸将を集めた軍議で九頭竜川を防御線と定め、ここで一揆軍に反撃する作戦で諸隊を配置、九頭竜川を挟んで一揆軍と対峙しました。

 なお、越前の一向一揆が集団で現れたのは、この戦いが最初であり越前門徒らを率いたのが和田本覚寺・藤島超勝寺・宇坂本向寺らでした。

 これに対して越前高田派・三門徒派の坊主・門徒ら約3000は朝倉軍に与力しました。

 合戦は8月2日、最下流に位置し対峙した中角の渡しで始まりました。一揆勢が一斉に渡河して朝倉方黒丸の陣へ攻め寄せたのです。

 両軍乱戦となりましたが両大将を討ち取られた一揆勢は浮き足だっていました。

 その上流の高木口、中の郷、最上流の鳴鹿口では一部小競り合いをしながら両軍睨み合って対峙していました。

 そんなとき中の郷に対陣していた総大将朝倉宗滴
(教景)が一向一揆の機先を制し渡河作戦を決行しました。

 朝倉宗滴を先頭に隊形を組んだ朝倉勢は、急流を押し渡り敵陣へ襲いかかったため、不意を突かれた一揆勢は、

 たちまち混乱状態に陥り総崩れとなりました。この敗戦が一揆勢の諸陣に伝わり全部隊はパニック状態となって加賀へ敗走しました。

 越前を上・下から大軍で分断しようとした本願寺の作戦は、精強な朝倉軍のため上口からの侵攻を叩かれ、次に下口の大軍による侵攻も大敗を喫して完全に失敗しました。

 合戦後、越前守護朝倉貞景は厳重な一向宗
(本願寺派)の禁止政策をとり、吉崎道場はじめ領内の

 本願寺系諸寺院を全て破却し、坊主・門徒の土地・財産を没収して国外追放処分にしました。

 この時点から以後60年にわたる加賀・越前一向一揆と朝倉氏との宿命的な対立が始まったのです。




○ 永正3年(1506)10月越前へ再侵攻の一向一揆

 加賀へ敗退した一揆勢のうち、越前を追われた本願寺派寺院の坊主・門徒を中心とする一揆勢が同年10月21日再び越前へ侵攻しました。

 その狙いは豊原寺を占領して九頭竜川以北を支配下に置き、本願寺派門徒の安住地を獲得しようとするものでした。

 この侵攻に対し朝倉氏は朝倉土佐守の一隊を出動させ、豊原寺の衆徒には平泉寺の僧兵や山伏などが加勢して寺を防護しました。

 両軍勢は豊原・竹田口で衝突し6時間にわたる激戦の末、一揆勢が敗れ加賀へ追い払われました。




○ 永正4年(1507)帝釈堂口の一向一揆

 越前を追われた和田本覚寺・藤島超勝寺など越前坊主衆ら一揆勢は、執念深く翌永正4年8月、越前へ進撃してきました。

 このとき加賀一向一揆の石川郡
西縁(にしがわ)組の旗本玄任氏一党が越前坊主衆に同調し、

 8月28日、一揆勢は坂北郡伊江郷の
帝釈堂(たいしゃくどう)口から侵攻し、これを待ち受けた朝倉勢と合戦しました。

 朝倉勢は大軍をもって一揆勢を包囲し激しく攻め立てましたので、和田本覚寺・藤島超勝寺など越前浪人主体の一揆勢は打ち負かされ加賀へ退却しました。

 ただ、加賀玄任氏の率いる一隊だけは、一歩も退かず勇戦し一党300余人が全員討死しました。

 『朝倉始末記』には、この合戦で討死した玄任らの幽霊が村人や通行人を悩ますなど怪奇なことが続いたので、

 豊原寺の増信上人が衆僧と共に帝釈堂の前で法華経を読経し、卒塔婆を立てて回向したところ翌日から怪奇な現象がなくなったといいます。




(7) 管領細川政元の暗殺と本願寺第9代実如の変節

 管領細川政元が暗殺された翌年の永正5年(1508)7月、大内義興に支援された足利義尹(よしただ)が将軍職に復帰し義稙(よしたね)と改名、細川高国が管領となりました。

 今まで政元と親交が深かった実如にとっては大変な衝撃であり、これまで好戦的だった本願寺政策を切り替えざるを得なくなる出来事でした。

 一方、幕府は朝倉氏の一向一揆対策に関して永正4年(1507)から行ってきた加越国境の陸海封鎖を解除させる政策をとりました。

 永正15年(1518)幕府は伊勢貞陸を越前へ派遣して朝倉孝景と協議させ、一向一揆の停止を条件に国境封鎖を解除させました。

 こうして幕府は本願寺に対し、加賀をはじめ諸国の門徒一揆を停止させることを厳命し、実如に抜本的な政策転換と実行を迫りました。

 @ 武装や合戦の禁止
 A 派閥をつくることの禁止
 B 年貢未払いの禁止

 実如は同年4月、前記三か条の掟を定め、加賀本泉寺蓮悟を通じて北陸の坊主・門徒に布達せしめ、誓約書の提出を求めて周知徹底を確認しました。

 また、実如の嗣子円如は、蓮如の子息が住持する一門寺院以外の諸寺院が新しく寺内町を設けることを禁止しました。

 この実如の変節、朝倉氏との和睦、それに便乗した加賀統制を強化しようとする加州三か寺の思惑などは、一揆と共に成長した北陸の坊主・門徒などにとって無条件になじめるものではありませんでした。

 これら一連の改革は、蓮如以来の一揆の指導者達にとって著しい不利益をもたらすとともに強い不安と不満を残すことになりました。



○ 加賀一向一揆、分裂の兆し

 こうした一揆衆の不満を代表した形で加州三か寺に抵抗の姿勢を見せたのが和田本覚寺蓮恵でした。

 蓮恵は加州三か寺代表の蓮悟とこの件で論争し、実如から「言語道断の曲言(くせごと)を申す反逆者」として破門されます。

 この事件は、これまで固い団結を維持してきた加賀一向一揆が分裂の兆しをみせた最初の出来事でした。



○ 越後長尾為景と越中一向一揆

 この北陸一向宗(本願寺派)の虚に乗じて、越後の長尾為景が越中への侵攻を開始したのです。

 越中侵攻は永正16年
(1519)3月、翌永正17年(1520)6月、大永元年(1521)から大永2年(1522)6月頃にわたって行われました。

 永正17年
(1520)7月、長尾為景は越中境川城を攻めて一向一揆側に加担していた椎名一族をせん滅しました。

 この合戦には越中一向一揆を支援して飛騨白川郷内ヶ嶋氏の手勢、加賀吉藤専光寺門徒らが戦いましたが、加州三か寺は実如の方針に従って動きませんでした。

永正17年
(1520)12月、新庄城の神崎慶宗以下数千人の一揆勢を撃破して、父能景の宿怨を晴らしました。

 このように北陸一向一揆の足並みは乱れ、越中は越後の長尾為景に国内を席巻されました。




○ 加賀一向一揆の内戦勃発

 大永5年
(1525)2月、本願寺第9代実如は68歳で没します。その後を10歳の光仙(大永7年出家して本願寺第10代証如となる。)が相続し、近親者の教団幹部5名が後見を任されました。

 やがて、本願寺内部は後見人筆頭の顕証寺蓮淳
(蓮如の六男)一派と蓮如以来加賀を指導してきた

 加州三か寺を支持する一派の間に亀裂が生じ、本願寺教団を二分する大紛争となります。




○ 享禄の錯乱(大・小一揆)

 この抗争が勃発する遠因は種々ありますが、直接原因は本願寺第9代証如の後見人蓮淳の志向した

 「本願寺法主が門徒を直接掌握する教団の封建体制の強化」という考え方と、加州三か寺側の

 「荘園制度を温存させながら従来の支配体制の維持存続を図ろう」とする政策的対立にありました。

 享禄元年
(1528)蓮淳の指令に従った本願寺家宰下間頼秀は、直接、加賀へ下って荘園年貢問題について

 三か寺側に干渉し、自らも越中太田保を領有するなど本願寺直接支配の方針を強力に推進しました。

 これに越前から加賀へ亡命していた藤島超勝寺・和田本覚寺
(以後、超・本二寺という。)らが同調し本願寺の方針に従って行動しました。

 その方法は農民門徒の土地を名目的に寄進させて寺内とし、寺が領主に対して年貢を納めないという手法です。

 このような荘園の横領は、寺側も農民門徒にも生産余剰の保留が増え、いわゆる法施、財施の恩恵が多くなりますので、在地領主、農民などは次々に寺内に加わわりました。

 年貢を押えられた荘園領主は、従来どおり加州三か寺に善処方を要望し、加州三か寺は超・本二寺に指図をしますが、その命令は無視されました。

 無視された加州三か寺は上部の本願寺へ提訴して超・本二寺の違背停止処分を求めますが、

 下間頼秀らによって握りつぶされ、逆に加州三か寺側が本願寺違背を行うとみられました。

 享禄4年
(1531)5月、三か寺側は命令に従わない超・本二寺を実力で成敗することを決めます。これが「享禄の錯乱」の勃発です。

 この事件は一向一揆の内部に起った一揆ですが、本願寺の加賀占領政策の変化に伴った深刻な動揺の現われでありました。


 三か寺側の武力行使を知った超・本二寺側は、すばやく両寺の地盤であった白山山麓、山之内荘二曲(ふとうげ)を本拠地として立て籠もり一戦の構えに入りました。

 同年7月、超・本二寺側は、奇襲作戦によって波佐谷松岡寺を襲い、一族を人質にして坊舎を焼き払い攻勢に転じました。

 本願寺証如が動員した三河・近江・飛騨の援兵は、下間備中頼盛の指揮で白川郷から白山を越えて山之内荘に入り、超・本二寺側と合流しました。

 同年7月23日、加州三か寺に次ぐ地位を占めていた清沢願得寺
(住寺は蓮悟の弟、蓮如の十男、実悟)と金剣宮を攻撃、近隣の在家をも焼き払います。

 同年7月29日、若松本泉寺を攻め、すべて焼き払いました。このため蓮悟は能登守護畠山義統を頼って、一族と共に府中
(七尾市)へ亡命しました。

 超・本二寺側は、江沼郡の山田光教寺、黒瀬覚道寺勢などを攻撃するため反転したものの、逆に迎撃されて敗退しました。

 山田光教寺・黒瀬覚道寺勢は超・本二寺側の反撃に備え、越前朝倉氏に援軍を求めました。

 朝倉孝景は同年8月19日、家臣堀江景忠を将として300騎を加賀へ進入させ、続いて8月22日朝倉教景
(宗滴)の率いる本隊8,000騎を投入しました。

 同年10月27日、朝倉教景は手取川を渡河攻撃して7〜800人を討ち取りましたが、大雨のため引き返したため、

 超・本二寺側は石川・河北両郡の一揆の大軍を率いて能登・越中勢に攻めかかり、これを討ち破りました。

 この知らせを聞いた朝倉勢は動揺し、11月上旬、越前へ撤退します。この撤退で山田光教寺顕誓以下

 江沼郡に集結した加賀三か寺派の坊主・国人なども戦意を失い、朝倉教景に従って越前へ亡命しました。

 この結果、加州三か寺体制は完全に崩壊し、本願寺では証如の後見人、蓮淳の勢威が一段と強くなり、

 加賀では三か寺に代って超・本二寺が一揆の頂点に立ち、下間頼秀・頼盛兄弟が宗門内外に権勢を伸ばしました。



○ 若松本泉寺派浪人の叛乱

 享禄の錯乱から6年後の天文6年
(1537)7月、加賀を追われていた若松本泉寺派の浪人達が超勝寺・本覚寺を襲うという叛乱が発生しますが、

 すぐに鎮圧されました。しかし、この叛乱は本願寺首脳にとって、かなりの衝撃を与えた出来事でした。

 それは山科本願寺を焼かれ、畿内における細川晴元との抗争に敗れた直後であり、本願寺法主の地位が動揺していた時期だったからです。

 本願寺証如にとって生命線である加賀支配の貫徹を期したのは、教団を支える財政基盤の大部分を加賀からの収入に頼っていたためです。




○ 朝倉義景と加賀一向一揆

 天文24年
(1555)4月、越後の長尾景虎が大軍を擁して信濃へ侵入し善光寺平へ進出しました。

 武田信玄は出陣に先立ち、姻戚関係にあった本願寺顕如へ使者を送り、加賀・越中の一向一揆諸勢に長尾景虎不在の越後を突かせ、その背後を撹乱するよう要請しました。

 一方、長尾景虎は天文20年
(1451)頃結んだ軍事同盟に基き、朝倉義景に書簡で加賀・越中に兵を出して一向一揆を牽制する作戦の展開を求めました。

 朝倉義景は、この要請にこたえ出陣を命じ、79歳の老将朝倉教景を総大将に8,000の軍勢が天文24年
(1555)7月23日加賀江沼郡に侵入しました。

 この戦には朝倉勢に味方する越前高田派の本流院・松樹院・称名寺・仙福寺など2,000人の門徒勢も出陣していました。

 これに対し加賀一揆勢は、大将和田、洲崎、蕪木をはじめ石川郡、越中の大坊主など5万が各地で迎撃しました。

 8月13日、南加賀各地の局地戦で朝倉勢に圧迫されていた一揆勢は、全軍を結集した総反撃に転じますが、朝倉勢の巧みな作戦によって各地で撃破されました。

 ところが、朝倉勢の総大将朝倉教景
(宗滴)が作戦指揮の陣中で体調を崩し、8月15日一乗谷へ帰館し、9月8日79歳で没しました。

 越前守護朝倉義景は、その後任として朝倉景隆、景健父子を任命し南加賀の拠点を確保しますが、戦局は膠着状態のまま冬を迎えました。




○ 和平工作の動き

 天文24年
(1555)10月、改元され年号が弘治と変わりました。弘治2年(1556)将軍足利義輝によって朝倉氏対加賀一向一揆の和平工作が進められました。

 本願寺も家宰下間駿河法橋頼言を加賀に派遣し、主戦派の説得に当らせましたが、和平に反対する超勝寺教芳ら越前浪人一派は、4月9日下間頼言を毒殺して和平反対の強硬意志を表明します。

 本願寺は、重ねて頼言の弟左近将監頼良を加賀に下向させ一揆側を説得させ、幕府側も朝倉氏に対し和平を求める御内書を与えるなど手段を尽くしました。

 このため同年4月21日、朝倉勢は陣を払って越前へ撤兵し、越前・加賀の間には、つかの間の和平が見られますが長続きしませんでした。



○ 一向一揆主戦派の蠢動と朝倉勢の出動

 幕府、本願寺の和平工作によって越前・加賀の間は、一時、和平の動きみられましたが、この和平も一向一揆主戦派の蠢動と徴発によって長続きしませんでした。

 そのため朝倉義景は永禄7年
(1564)9月1日に朝倉景鏡と朝倉景隆の指揮する二つの部隊を加賀に出陣させ、自らも加賀へ出馬し小松・大聖寺付近で一向一揆と戦いました。

 こうして朝倉氏と加賀一向一揆との武力対決は、永禄10年
(1567)の年末、足利義秋の調停によって和平が回復するまで続きました。



○ 一向一揆と朝倉氏の和睦

 永禄8年
(1565)5月、京都で大事件が起きました。三好長慶の家臣から台頭した松永久秀が三好三人衆らと共謀して室町御所を急襲し、将軍足利義輝を攻め殺したのです。

 この将軍義輝には二人の弟がいて、一人は奈良興福寺一乗院の門跡覚慶、1人は鹿苑院
(金閣寺)の僧侶周嵩といいました。

 松永久秀は17歳の周嵩を誘い出して路上で暗殺し、興福寺へも軍勢を送って覚慶を殺そうとしましたが、足利家の家臣細川藤孝、一色藤長らの計略に助けられて覚慶は脱出しました。

 この覚慶が還俗して足利義秋
(後に義昭と改名)と名乗り、転々としながら永禄10年(1567)11月21日朝倉氏の本拠地一乗谷へ迎えられます。

 当時、足利義秋は朝倉義景の軍事力を頼って上京し、自らが将軍職に就くことを願っていました。

 そのためには朝倉氏と加賀一向一揆との恒久的な和睦を実現することが先決であると考え、側近細川藤孝らが各方面へ働きかけ和平工作に奔走しました。

 義秋自身も一乗谷に入るなり、早速義景を説き伏せて、加賀一向一揆との和議を成就させることの同意を取り付けます。

 何回かの下交渉の結果、同年12月12日和睦の証として、加賀からは一揆側の首領格である杉浦壱岐法橋玄任の子を一乗谷へ送り、

 朝倉側からは義景の娘を本願寺顕如の長男教如に嫁がせること、その妹も本願寺一家衆寺院である越中勝興寺
(高岡市)へ嫁がせることを決めました。

 こうして両国間の和平が回復されましたので12月15日には加越国境に構築されていた両軍の砦を悉く破却して焼き払い、北陸道の通行も自由になりました。

 加賀に浪人中であった超勝寺・本覚寺など越前の本願寺派諸寺院も越前への環住が許されました。

 永正3年
(1506)、朝倉貞景によって追放されてから実に60年ぶりの赦免でした。

 越前朝倉氏と和平を回復した本願寺は、甲斐武田氏、近江六角氏・浅井氏、安芸毛利氏らとも通じ、大坂石山を根拠に戦国大名的立場をますます強化することになりました。




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