5.2 北陸の一向一揆



(3) 文明7年(1475)一揆後の北陸情勢

 文明7年
(1475)3月、州崎兵庫を将とする加賀湯湧谷衆を中心とした一向一揆は、蜂起したものの富樫政親勢に討ち破られ越中(富山県)へ敗退しました。

 敗退先は越中井波の瑞泉寺とその近く砺波郡
蟹谷(かんだに)庄の土山(どやま)道場(富山県福光町)などです。

 この一揆勢の敗北で身の危険を感じた蓮如は、同年8月21日便船を仕立て海路を利用して吉崎を脱出しました。

 これ以後、和田本覚寺蓮光が吉崎道場の留守職を任され北陸の本願寺末寺・門徒達を文明13年
(1481)頃まで統轄します。

 一方、その後も加賀各地において本願寺門徒による小規模な一揆が頻発しましたが、

 加賀守護富樫政親に各個撃破され、一揆衆数百名が隣国越中砺波郡井波の瑞泉寺及び土山道場などを頼って亡命しました。



(4) 文明13年(1481)の一向一揆

 蓮如が吉崎道場を退去して6年後の文明13年
(1481)、越中瑞泉寺の蓮乗(蓮如の二男)を将とする一揆は、砺波郡一帯を支配していた国人領主石黒光義と戦って攻め滅ぼしました。

 この結果、越中砺波郡一帯は瑞泉寺、土山道場
(安養寺後の勝興寺)など本願寺門徒に支配されることになります。

 一地域にすぎませんが、この一揆は史上最初の本願寺領国を実現したもので、本願寺坊主による最初の領国支配となりました。

 この勝利が近隣諸国の本願寺門徒に及ぼした影響は大きく、 4年後の飛騨白川郷の一向一揆、さらには7年後の加賀一向一揆
(長享の一揆)などに対する起爆剤の役割を果たしました。



(5) 長享2年(1488)の一向一揆(加賀の一向一揆)

 長享元年
(1487)秋、加賀に蜂起した大規模な本願寺門徒を中心とした一揆は翌年、守護富樫政親を攻め滅ぼし加賀一国を制圧しました。



○ 一揆発生前の加賀情勢

 当時、加賀の情勢を概観すれば、文明6年
(1474)の一向一揆以後、富樫政親は加賀国守護に返り咲いたものの政権基盤が弱く、

 その弱体に付け入って国人、名主百姓らによる荘園侵略や年貢未進などが続発し、下剋上の社会風潮が蔓延していました。




 その一部が次に列挙する事実です。

@ 文明8年
(1476)加賀国人、西郡四郎と加賀本願寺門徒が連携して富樫政親の所領倉月庄内南新保西方を侵略横領した。

A 文明9年
(1477)中院家領の加賀額田庄、加納八田庄を守護代が横領したのを本願寺門徒が同調する。

B 文明12年
(1480)東大寺領の越中国高瀬庄の地侍が本願寺門徒と同心して年貢未進をなす。

C 文明13年
(1481)11月、祇園社領の河北郡刈野村の年貢未進となる。

D 文明14年
(1482)8月、比叡山衆徒が大講堂集会議において本願寺の本寺である妙法院門跡へ訴える決議をする。

E 文明17年
(1485)10月、一向宗門徒、州崎和泉入道慶覚が臨川寺領、宮の腰へ侵入し占領した。

F 文明18年
(1486)8月、近衛政家領の加賀安江保の年貢を百姓が納めないので加賀松岡寺・本泉寺を代官に任命して年貢を確保した。

G 文明18年
(1486)11月、安楽光院領、加賀横北庄の代官、立町伊豆守、北隣坊(松岡寺蓮綱)、米郡一揆(江沼郡)などが同調して同庄を横領した。



 このように加賀では支配する立場の守護・守護代はじめ領主の代官、有力坊主衆、国人、地侍、名主百姓などが、それぞれに有利な荘園を横領し合う状況にありました。

 それは不在地主である荘園領側からみれば「下剋上の基、日月泥土に落つるの道理、眼前為るべきもの哉」の姿に映りました。

 恐らく当時の加賀からの年貢はほとんど横領され、本所領主の手に入るものは皆無に近い状態でなかったかと推測されます。




○ 将軍足利義尚の近江出陣と加賀守護富樫政親の参陣

 長享元年
(1487)9月、将軍足利義尚は近江の六角高頼を討伐するため諸国守護に出陣を命じました。

 この下命に応じ加賀守護富樫政親と有力家臣団も近江へ出陣したので、その支配権を狙っていた本願寺派門徒団は好機到来と蜂起の檄を各講中へ飛ばしました。

 この本願寺門徒団の不穏な動きを急使で知った政親は将軍に謁して「私の国の加賀一向宗の土民らが専修念仏の法を立てて、

 年貢を少しも納めず、そのうえ党を結んで郡ごとに一揆の組をつくり、言語道断の狼藉を働いています。

 将軍から越前・越中・能登に御教書を下していただき、私を支援することを命じて下されば、

 必ず一揆の者どもを退治して領国を安定し、将軍に忠節を尽くします。」と訴え将軍義尚の同意を得ました。

 こうして長享元年12月下国を許された政親の軍勢は一揆制圧のために加賀へ帰国しました。




○ 長享の一向一揆(長享2年5月、6月)

 帰国した政親は居館のある石川郡野々市の西方にある小山の高尾山に要害を構え始めました。

 この高地を砦として堀を掘り、土塁を築き、櫓をあげ、乱杭、逆茂木を並べ、富樫一族・家臣団、

 幕府から応援派遣された大和・甲賀の精兵500余人を加えて都合1万人の軍勢が立て籠もって合戦の準備をしました。

 この有様を見た一揆側は、ひとまず富樫氏に和解を申し入れますが聞き入れられず、政親側の出方をみようということになり、

 州崎和泉入道慶覚、河合籐左衛門尉宣久の両名を大将に、高尾山からわずか2キロ余り離れた
上久安(かみひさやす)に要害を構え500余人が立て籠もって対峙しました。

 こうして長享元年12月頃から翌2年5月頃まで両陣営の対峙が続きましたが、一揆側は軍議の結果、

 幕府指令で隣国からの援軍が加賀に進入する前に富樫軍を攻撃することを決めます。

 まず河北勢で越中国境を固め、江沼勢をもって越前との国境を固めさせました。次に政親と対立していた大叔父の富樫泰高を担ぎ出して総大将に据えました。

 一揆の総大将となった泰高は家臣2千余騎を率いて野々市の大乗寺に陣を構え、一揆勢の総数は富樫勢の10倍以上12万人ほどになりました。

 長禄2年
(1488)6月5日、戦端が開かれた頃、幕府指令で出陣した越中守護・畠山政長の家臣松原出羽守信次、

 竹中石見守らの軍勢5千余騎が倶利伽羅峠から侵入しましたが、河北一揆勢5千余騎に迎え討たれ越中へ追い返されます。

 同じ頃、能登守護・畠山
義統(よしずみ)も、幕府から出陣催促を受けて一軍を南下させていましたが、

 河北郡黒津舟
(内灘町)で笠間・高橋の一揆勢に迎え討たれ敗退しました。

 越前守護・朝倉勢が動いたのはさらに遅く、政親が討死する前日の6月8日でした。朝倉勢5千余騎が加賀国境の橘
(加賀市)から侵入し陣を構えたところ、

 あらかじめ大聖寺山に待機していた敷地・福田の一揆勢7千余りが、これに襲いかかり激戦となりました。

 翌日、高尾城陥落を伝え聞いた朝倉勢は兵をまとめ引き上げてしまいました。こうして幕府命令による

 越中・能登・越前三方面からの支援軍は、いずれも国境において一揆勢に阻止されました。

 さて話を戻し、富樫軍の主力が立て籠もった高尾城への総攻撃は6月7日早朝より開始されましたが、

 4万9千余の一揆勢は一斉に
額口(ぬかぐち)の陣へ襲いかかりました。これに対して城中からは2千余騎が反撃したにすぎません。

 一揆側は城兵をおびき出す作戦で少し退却し、城兵が深追いしたところを左右から州崎・河合の手勢がこれを押し包んで攻撃しました。

 この合戦で富樫方は有力武士500人、雑兵千人余が戦死して総崩れとなり、屋形に火をかけて山城に立て籠もりましたが、もはや敗色が濃厚でした。

 総攻撃の6月9日早朝、一揆勢の大将州崎慶覚は、ただ一騎で諸陣を駆け巡って「投降する者は皆助命する」と触れ回り、

 城兵に降参を勧めると過半の者が投降し城中には政親以下300人足らずの者が残っただけであったといいます。

 政親は単身で大手口
(正面)の敵中へ突入して阿修羅の如く戦いましたが、次第に山頂の本陣へ追い詰められ、最後まで生き残った30人の家臣とともに自害しました。

 「長享の一揆」は高尾城の落城、富樫政親の敗死によって終りました。この敗北で富樫政親側は全滅に近い打撃を受け、

 蓮如の吉崎滞在後期から始まっていた一向一揆と富樫政親の対決は、守護側の完敗、一揆側の圧勝裡で幕を閉じました。


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