5.1 北陸の一向一揆



(1) 文明6年(1474)の一揆とその経緯

 浄土真宗本願寺門徒が初めて関与した一揆は、次のような社会情勢のなかで発生しました。

@ 越前・加賀へ波及した応仁の乱
(1467〜1477)

 応仁元年
(1467)京都で発生した応仁の乱は地方へ波及し、越前・加賀では東軍が朝倉孝景と

 富樫政親を軸とし、西軍が富樫幸千代と甲斐敏光が連合して対峙する形勢にありました。

A 吉崎道場の盛況

 文明3年
(1471)吉崎道場が完成した直後から続々と北陸各地の門徒が群参し、蓮如は翌年1月、早くも門徒の群集参拝を禁ずるほどの盛況さでした。

B 越前守護代甲斐敏光、加賀国へ敗退

 文明4年
(1472)8月、朝倉氏対甲斐氏の両軍勢は越前府中で激突し、朝倉勢が決定的勝利を得て甲斐勢を加賀へ敗退させました。

 その後、甲斐氏は富樫幸千代と結び加賀から越前侵攻を繰返し、文明5年
(1473)7月、朝倉方と通ずる富樫政親を加賀山内庄に攻め込んで越前へ敗退させました。

C 本願寺第8代蓮如の危機感

 文明5年
(1473)8月、越前吉崎近くの光塚・蓮ヶ浦に甲斐勢が侵入するなど戦乱が激化、事態が切迫し、蓮如に対し身近な危機感を感じさせました。

 他方、加賀を追われた富樫政親は、同じ東軍の朝倉孝景のもとへ亡命しますが、この頃、蓮如と盟約を結んだといわれます。

 こうして「朝倉=政親」対「甲斐=幸千代」の東西両軍が対立し、加えて本願寺派対高田派の宗派勢力が結びつき、戦闘態勢が形成されました。

D 朝倉・甲斐の和睦と戦況の変化

 文明6年
(1474)6月、美濃国守護代斉藤妙椿みょうちんが兵を率いて越前へ入国し、朝倉孝景と甲斐敏光との和睦を周旋しました。

 朝倉氏も甲斐氏との戦いに手を焼いていましたので、甲斐氏が他国へ立去ってくれることを条件に和解に応じました。

 こうして甲斐氏は兵を収め京都へ引上げてしまいました。このため富樫幸千代側は有力な同盟軍を失い、情勢は富樫政親側が優位へと逆転しました。

E 文明6年一揆で朝倉孝景・富樫政親・本願寺門徒が勝利

 文明6年
(1474)7月26日本願寺門徒群の支援によって富樫政親方は攻撃を開始し、数度の合戦が交わされた後、

 同年10月14日、富樫幸千代の拠る蓮台寺城
(石川県小松市)が陥落し、10月24日には幸千代側の武将らも切腹して富樫幸千代方の敗戦が決定的となりました。

 この結果、富樫幸千代は京都へ没落し、富樫政親の加賀支配権が確立し守護職をその掌中に収めました。




(2) 文明7年(1475)の一揆とその経緯

@ 農民等本願寺門徒の年貢未進、荘園横領などが拡大


 吉崎道場の盛況によって激増した門徒群は、様々な階層職業の者達で構成されていましたが、その大部分は農民以下の庶民でした。

 この頃は兵農未分の時代で、村落内の庶民は、過酷な年貢徴収や公事を要求する守護や荘園領主、その被官化した国人層以上の上級武士に対し反発していました。

 これら門徒達を指導していた坊主・地侍らは、蓮如の教義を都合良く解釈して守護・社寺へ納めるべき年貢など“すべては仏のもの”とし、坊主への志納金に転換させました。

 こうして信仰という隠れ蓑を利用して守護側への年貢は無視され、所領の横領化が進み、諸仏・諸神の廃棄が横行しました。

A 加賀守護職富樫政親の本願寺門徒への圧迫

 加賀一国の守護職となった富樫政親は、国内を確保していくため無法な門徒達を放置しておけませんでした。

 そこで本願寺門徒を鎮圧して「王法為本」の体制を護ることが急務となったのです。

 一方、本願寺門徒は、蓮如のいう仏法領を実現するため守護体制を打倒して、旧来からの年貢公事の廃棄を目指しました。

 富樫政親は、部将槻橋近江守重能の進言を容れて本願寺派の国侍を退け、蓮如との盟約を破棄し、本願寺門徒への圧迫を始めました。

B 文明7年の一揆と本願寺門徒の敗退

 文明7年
(1475)3月、最初の一揆は、州崎兵庫を将とする湯湧谷衆らの蜂起で始まりましたが、たちまち守護方に討ち破られ越中へ敗退しました。

 一揆勢が敗退した先は、越中井波の瑞泉寺、その近くの砺波郡
蟹谷(かんだに)庄、土山(どやま)道場(富山県福光町)などでした。

C 蓮如の吉崎退去

 文明7年
(1475)8月21日夜、蓮如は、にわかに便船を仕立て、海路を利用し吉崎を脱出しました。

 この吉崎退去の直接動機は、富樫政親と本願寺門徒の対立による富樫勢の吉崎攻撃を恐れての逃避であったとみられます。



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