2北陸への伝播


(1)概 要


 北陸地方は古くから白山信仰の影響もあり、念仏信仰が浸透する環境にありました。

 白山は養老元年
(717)僧泰澄によって開かれ、天長9年(832)頃には越前・加賀・美濃から白山登拝する三馬場禅定道が信者のために開かれたといいます。

 平安中期には三馬場とも神仏習合による天台浄土教として阿弥陀信仰を軸とする常行三昧の行法が取り入れられていました。

 こうした地域環境の下、鎌倉中期には浄土宗をはじめ時宗、一向宗
(踊念仏衆)など

 念仏系諸派の新宗教が念仏聖によって盛んに北陸道、日本海交通を利用し北陸地方に伝播してきました。

 法然らの唱える専修念仏が禁止される2年前、元久2年
(1205)の興福寺奏状には「専修念仏が北陸・東海等の諸国で盛んに唱えられている。」と記されています。

 このように念仏系諸派の徒が広く各地に散在した北陸地方へ鎌倉後期、初めて浄土真宗の教義をもたらしたのが高田派三河教団の念仏者達でした。

 平安期以降、北陸各地に建立された太子堂、来迎堂、念仏堂など天台・真言系寺社の僧侶達が

 阿弥陀仏信仰の高僧や聖、念仏者等と接触していく中で、高田派など念仏系諸派に改宗していきました。



(2) 高田派三河教団の越前への伝播経路


 鎌倉後期、東海地方三河を拠点に教線を伸ばし、越前へ浸透してきたのが三河教団の念仏者、和田の信性、大町の如道らでした。

 彼らは古代から中世にかけて人や物の往来が盛んであった白山信仰の道筋を利用し、

 三河から奥美濃を経て越前東部から九頭竜川、足羽川に沿って教線を伸ばしてきました。

 詳しい経路をみると現在の愛知県岡崎市辺り、西三河から矢作川を遡り、岐阜県明智町辺りの山沿いから旧中山道に入り、

 木曽川を渡って飛騨川の支流上の保川を遡って長良川渓谷の越前街道(国道156号)に出て、

 さらに北進して現在の白鳥町を左折し油坂峠を越えて越前の旧穴馬村を経て大野、福井に至ったといいます。



(3) 越前における高田派三河教団寺院の開基

 
@ 和田の信性と和田道場(後の和田本覚寺)

 
和田の信性は三河国野寺本証寺系の念仏者で、正安2年(1300)頃、足羽川沿いの足羽郡和田荘に道場を開きました。 これが後の本覚寺です。

 信性の没後、長男
(長松丸)と二男(長若)が対立し、長男が寺から退出したため二男が本覚寺を継ぎました。

 寺を退出した長男が早世したため門徒衆は応永14年
(1407)本願寺第6代巧如(1376〜1440)の弟、頓円鸞芸(とんえんらんげい)を住持に招請し超勝寺を開基しました。

 その後、本願寺7代存如(1396〜1457)の頃、和田本覚寺は本願寺派に帰依したといいます。

 この本覚寺・超勝寺は戦国期、共に越前本願寺門徒衆を率い朝倉氏や本願寺派加賀一家衆と戦うことになります。

A 大町の如道と大町専修寺

 大町の如道は三河国和田勝鬘寺
(しょうまんじ)を開基した円善の弟子で、円善は三河門徒の中心となって活発な布教活動を展開し、やがて、その教線を越前へ伸ばします。

 その門弟、如道は正安2年
(1300)頃、足羽郡大町に専修寺を開基し、当地を拠点に越前はじめ近江・若狭にまで教線を伸ばし、ついに当地の専修念仏の指導者となりました。

 鎌倉後期、応長元年
(1311)布教のため本願寺第3代覚如と長男の存覚が越前へ下向し、20日間ほど如道のもとに逗留しました。

 このとき如道は覚如親子から『教行信証』の講義を受け、本願寺派へ改宗したようですが、

 没後、その子孫は分裂して三門徒派を名乗り、本願寺派から離れていきました。

B 法善光実と折立称名寺

 大野郡折立
(旧美山町折立)に折立称名寺を開基した法善光実(佐々木盛則)は鎌倉幕府御家人佐々木三郎盛綱・四郎高綱の子孫だといいます。

 鎌倉中期
(正嘉4年・1260頃)、法善光実は足羽郡東郷村で高田派3世顕智が巡錫したとき教化され、高田派寺院を開基しました。

 その後、南北朝から室町時代に当寺の門弟達が北陸各地に拡散し、越前には佐々木盛綱・高綱を始祖とする寺院が15ヶ寺あり、その多くが折立称名寺から分立したといいます。

C 佐塚の専性と越前大野専光寺

 佐塚の専性は遠江国挟東
(静岡県大東町)の出身、三河の顕智の教えを受け高田専修寺に参詣し、大野郡専光寺を創建したといいます。

 しかし、専性が創建した専光寺は該当寺院が見当たらず、大野郡中挟
(なかばさみ)専西寺(せんさいじ)(後に今井に転じて西応寺と改称)でないかといわれています。 



(4) 本願寺派の伝播状況と関連寺院


 親鸞没後、京都大谷廟堂の3代目留守職を継いだ覚如(1270〜1351)は応長元年(1311)、高田派など東国門徒に掌握された廟堂留守職の主導権を取り戻し、

 本願寺中心の浄土真宗を確立するため長男の存覚
(1290〜1373)を伴って越前へ下向しました。

 その第一歩が越前の大町専修寺を拠点に越前、若狭、近江にまで教線を拡大した高田派三河門徒団に属した如道らの支持を得ることでした。

 覚如と存覚は大町専修寺に20日間ほど逗留し、大町如道、和田信性、田嶋行如の三念仏者に対し真宗の根本聖典『教行信証』を講義し、本願寺派へ帰依させたといいます。

 この覚如らの講義は、直ちに実を結ぶことはありませんでしたが、本願寺の教線を北陸と繋ぐ伏線として後世に残したことが評価されています。

 なお、大町如道の子孫は宗派を分裂させ、三門徒派を形成して本願寺派から離れていきました。

 その後、室町時代、本願寺第5代綽如
(1350〜1393)は宗務を法嗣の第6代巧如に譲り、越中国杉谷に隠遁しましたが、

 明徳元年
(1390)住寺を越中国井波に移して瑞泉寺の勅号を賜り、北陸地方における本願寺派拠点の基盤をつくりました(伝承)

 第7代存如
(1396〜1457)は永享10年(1438)弟の宣祐如乗(1412〜1460)を井波瑞泉寺に下向させ当寺を復興させました。

 その後、如乗は嘉吉2年
(1442)、加賀二俣本泉寺を開基して越中・加賀における本願寺門徒の重鎮になりました。

 この頃、越前では和田本覚寺の蓮光が高田派から本願寺派へ帰依しました。

 こうして本願寺8代蓮如が吉崎道場を開く文明3年
(1471)までに、本願寺派は徐々に越前、加賀、能登、越中など北陸地方にその基盤を形成していきました。



(5) 本願寺派寺院・田嶋興宗寺の開基と行如

 鎌倉時代後期、京都から北陸道で越前へ入った唯一かつ最古の本願寺派念仏者、行如は越前長畝郷田嶋に興宗寺を開基したといわれます。

 行如は鎌倉執権北条時政の玄孫で但馬の住人でしたが、26歳の頃、京都在番中に親鸞の教説に接し、その弟子となり行念と称しました。

 親鸞没後、行念48歳の時に越前へ下り越前長畝郷
(坂井市田島)に草庵を結んだといいます。生国の但馬の由緒で道場の地を但馬と呼びましたが、これが後に田嶋→田島に改まりました。

 正応3年
(1290)覚如が21歳の時、父覚恵と共に東国祖跡巡拝をした際、3年間大谷廟堂の留守を行念が守ったといわれます。この時行念は64歳でした。

 その後、覚如が廟堂の留守職を継承した際、行念の労を賞して法名の『如』の一字を賜り『行如』と改め、寺号の興宗寺を許されました。

 応長元年
(1311)覚如が越前へ下向し大町専修寺で『教行信証』の講義を受け、正和4年(1315)5月89歳で没したといいます。

 この興宗寺も、それから約160年後の第5世円慶の代に蓮如の吉崎進出の供をして御坊建立に尽力します。



(6) 蓮如以前の本願寺派歴代庶子一族の動き


 第3代覚如以降の本願寺は、鎌倉時代末期から南北朝期、大谷廟堂から脱却して天台浄土系の

 寺院を志向していましたが、自らの末寺を創建し育成させようとまでは考えていませんでした。

 したがって、本願寺第8代蓮如の登場と共に本願寺派で活躍する寺院のほとんどは、それ以前は他の門流に属していました。

 前述の本願寺第3代覚如・存覚の代に大町如道や和田信性が本願寺派に帰依したといわれますが、

 おそらく一時的な接触、交流にすぎなかったのが真相ではなかったでしょうか。

 本願寺派の越前への進出は、本願寺歴代の庶子一族の繁出で拡大していきますが、その第一歩は足羽郡和田郷西方の本覚寺から始まりました。

 同寺では信性の没後、長男と二男が対立し二男が本覚寺を継承しました。長男は寺から退出した後、

 早世したため、門徒衆は本願寺第6代巧如
(1376〜1440)の弟、鸞芸頓円を招請し吉田郡藤島超勝寺を開基しました。

 超勝寺は頓円没後、その子如遵も孫の巧遵も門徒衆から批判されており、おそらく蓮如が吉崎へ下向するまで依然として高田派寺院に属していたとみられます。

 他方、本覚寺は本願寺第7代存如
(1396〜1457)の代に『三帖和讃』など各種聖教・典籍類の下付を受け、本願寺血縁の藤島超勝寺より一歩早く本願寺派に帰依していました。

 超勝寺頓円には玄真周覚という弟がおり、彼は旧本覚寺門徒衆から頓円に代って越前に招請され、吉田郡荒川に興行寺を開基しました。

 玄真周覚の子孫は頓円以上に広く繁出し、長男永存は丹生郡石田西光寺を創建、長女・二男は時衆に、

 次女は足羽郡稲津照護寺良空の妻に、三女は存如の弟・宣祐如乗の妻になって加賀二俣本泉寺へ、

 四女は今立郡山本荘へ下っていた毫摂寺善智へ嫁ぎ、三男は興行寺を継ぎ、四男は平泉寺に入り、

 五男は斯波氏に属し、六男は毫摂寺善智の養子に、それぞれなっています。

 こうして本願寺歴代の庶子一族が越前で繁出しましたが、蓮如が吉崎へ下向する以前の

 本願寺庶子一族には本願寺派への帰属意識はなく、血縁と法縁とは別との認識をもっていました。

 他派寺院へ入寺していた本願寺一族が本願寺派の下へ結集し始めるのは、長禄元年
(1457)蓮如が本願寺住持となり、一宗創立を決意した後になります。

 庶子一族の参入によって本願寺勢力は一挙に拡大しますが、蓮如は各地の一族の要となる諸寺院に改めて自分の子女を配し、その再掌握を図っていきました。


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