1 浄土真宗の誕生
(1) 浄土教(浄土思想)
平安中期から社会が混乱し、政情が不安定になっていくにつれ、極楽浄土への憧れ、東方穢土、西方浄土の浄土思想が貴族の間に広まっていきました。
それまでは人を近づけ難く、威力的、魔力的な密教が中心でしたが、慈悲満面に溢れる阿弥陀仏信仰へと変化していき、貴族達は南無阿弥陀仏の念仏を唱えるようになりました。
浄土教は阿弥陀仏の極楽浄土へ往生し、成仏することを説く教えです。『浄土』という言葉は中国における認識で、
思想的には インドの初期大乗仏教の『仏国土』がその原型にあり、多くの仏にそれぞれの浄土が説かれています。
しかし、中国・日本では阿弥陀仏信仰が流行するにつれ、浄土といえば一般的に阿弥陀仏の浄土を指しています。
中国・唐時代の善導が「念々に浄土教を聞かんと思い」という場合の『浄土教』が阿弥陀仏の浄土です。
浄土教が成立したのはインドで大乗仏教が興起し、無量寿経と阿弥陀経が編纂された紀元100年頃といわれます。
この阿弥陀仏の極楽浄土に関する大乗経論は非常に多く、浄土往生の思想を強調した論書として、
龍樹の作と伝える『十住毘婆沙論』、世親の『無量寿経優婆提舎願生愒』があります。
観無量寿経は4~5世紀中央アジアで大綱が成立し、伝訳に際し中国的要素が加味され、中国・日本の浄土教に大きな影響を与えました。
中国へ2世紀後半から浄土教関係の経典が伝えられ、5世紀初めには廬山の慧遠が般舟三昧経に基き白蓮社をつくっています。
やがて浄土三部経を根本経典として山西省の玄中寺を中心とした曇鸞が『浄土論註』、
道綽が『安楽集』、善導が『観無量寿経疏』を著し、五濁悪世の末法の世に適した称名念仏中心の浄土教が確立しました。
日本へは7世紀前半に浄土教が伝えられましたが、9世紀前半に円仁(AD794~864)が中国五台山の念仏三昧法を比叡山に伝えました。
やがて良源(AD912~985)が『極楽浄土九品往生義』、源信(AD942~1017)が『往生要集』を著し天台浄土教が盛んになっていきます。
ところが平安期の浄土教は、主として京都の平安貴族が信仰し、宇治の平等院も浄土思想に基づき藤原頼道が築いたものです。
やがて空也(AD903~972)が現れ、庶民にも浄土教を広めるようになり、市の聖と呼ばれました。
また良忍(1072~1132)は「一人の念仏が万人の念仏に融合する」と説いて、融通念仏の祖となりました。
こうして天台浄土教以外にも念仏者が輩出してきましたが、平安末期から鎌倉初期にかけて法然が出現し浄土宗を開創しました。
(2) 浄土宗と法然(1133~1212)
浄土教思想が浸透しつつあった平安末期、法然が出現して浄土宗を開き新宗教として展開しました。
それ以前は念仏といっても自力的修行が要求されましたが、法然は他力念仏を主張して
① 当代はもはや無戒時代で自力修行では不可能であるから易行宗でなければならない。
② 寺塔、造像、学問は必ずしも必要ではなく、貧しい無学者であっても救済される。
③ 自力でなく専修念仏を本旨とする。
等の諸点を新宗教の根底におきました。
法然は初め比叡山に上がり、次に南都に遊学して諸宗の奥義を究めますが満足できず、
ついに中国の善導の『観経疏』の一文に触発され、専修念仏を唱導する浄土宗を開創しました。
この末法の時代には阿弥陀仏の御名を称えることによって極楽浄土に引き取って頂き、
そこで悟りを開くほうが相応しいと説き、専ら念仏の易行のみを修する立場を選択しました。
この他力易行の念仏は愚人、悪人こそ救われる道として、当時の民衆に大きな影響を与え、法然の周りには貴族から遊女に至るまで集まったといいます。
これに対して旧教団から厳しい迫害を受け、また、この宗団のとった専修念仏の他力易行思想を
誤って実践した門弟のために法然は189人の連署した7か条の起請文を書かざるを得なくなりました。
しかし、その効なく、誤った門弟の行動も治まらなかったため、興福寺の解脱坊貞慶から訴訟されるなど、ついに朝廷から専修念仏を禁止され、土佐へ流罪に処せられます。
その後、79歳で赦免され京都へ戻りますが、翌年80歳で遷化しました。建久2年(1187)に著した『選択本願念仏集』は法然の名高い著書です。
ただ、専修念仏を説く法然の浄土宗は民生において、なお徹底を欠いたため、下級貴族、
地方武士及び名主クラスの社会層に信奉されたに留まり、旧教団の勢力圏外にあった関東、東北、九州方面で弘通しました。
(3) 親鸞(1173~1212)
承安3年(1173)京都の日野で生まれましたが、両親が早世したため9歳で青蓮院で得度し、以後20年間、比叡山延暦寺の堂僧として修行しました。
建仁元年(1201)京都六角堂に参籠し、救世観音を祈念、95日目の暁、救世観音(聖徳太子)の夢告を受け、法然の下に参じました。
入門5年後の元久2年(1205)選択集の書写を許され、釈綽空と名を改め、さらに善信に改めて法然高弟の一人になりました。
建永2年(1207)35歳の時、奈良興福寺の訴えで朝廷から専修念仏を禁止され、法然は土佐、親鸞は越後へ流罪となります。
建暦元年(1211)赦免されて、法然は京都へ帰りましたが、親鸞は越後に留まり伝道生活に入りました。
建保2年(1214)越後を出て常陸へ向かいましたが、上野、下野で布教して42歳の時、常陸に着きます。
45歳で笠間稲田郷に僧庵を建て、ここを本拠にして伝道します。この間、常陸や下野などに直弟子24人を開山させました。
その後、65歳ころ帰京し、以後文書で布教に努めます。ところが親鸞帰京後、東国で様々な異端が流行し、その説得のため息子善鸞を東国へ派遣します。
しかし、善鸞は異端の専修賢善に傾注して、正しい念仏者まで弾圧しようとしたため、
建長8年(1256)手紙で親子の縁を切りました。その後、 弘長2年(1262)親鸞は90歳の高齢で没しました。
(4) 親鸞思想の要約
● 思想の中核
親鸞の思想の中核は
① 二種廻向(往相廻向・還相廻向)
② 二種往生(真仏浄土=報土・化身浄土=辺地土)
にあるといいます。
念仏信者の人間に阿弥陀仏は、極楽浄土行きの切符(往相廻向)だけでなく、還りの切符(還相廻向)も与えました。
仏としてあの世へ行き、菩薩として衆生救済のためこの世に帰ってくるというのです。
利他の行者は、利他の精神ゆえに浄土へ行って、しばらくそこに留まった後、やがてこの世に帰り、苦しんでいる人達を救済しなければなりません。
また、極楽浄土も二種類あって、他力念仏を信仰する行者は正真正銘の真実の極楽(真仏浄土)へ行って往生できますが、
自力念仏を唱える人や阿弥陀仏の救済を疑ったり、信仰がいい加減な者は、仮の浄土(化身浄土)へ行き、そこで疑いの罪を償った後に真仏浄土に迎え入れられるというのです。
極楽浄土での阿弥陀仏は、人間界では法蔵菩薩と名を変え、等正覚は弥勒となって衆生を救済します。
往生という言葉は往きて生まれると書き、あの世へ往って再び生まれ変わるということを意味します。
親鸞の考えた浄土というのは、無碍光如来の国(無碍光明土)、すなわち光の国(世界)であり、そこは礙げられることのない光が隅々にまで及び、
永遠の光(明)に照らされた菩薩の世界です。この光を多くの苦悩をもつ衆生にもたらすことを命ぜられます。
親鸞は光を礼讃して、無碍光、無量光、無辺光、清浄光、歓喜光、知恵光、難思光、超日月光などと種々の言葉を用いています。
親鸞の世界観によれば、人間はこの世とあの世とを絶えず往復する旅人です。
人間は死んでもまた再び子孫となって生まれ変わります。さらには人間ばかりでなく全ての生きとし生けるものは
永劫という時間の中で生まれ変わり、死に変わり永遠の流転を続けるものであり、
この宇宙の永遠の往還の中に身を任すことが大切であるという「自然法爾」という考えを晩年に編み出しました。
● 悪人正機説
親鸞の教えを解説した弟子唯円の著書「歎異抄」は18条からなり、その第3条の「悪人正機説」とは「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というものです。
これは善人ですら極楽浄土に行くことができるのだから、悪人が極楽浄土へ行くのは当然ではないかという思想です。
自ら善に励み、自分の成した善によって極楽往生をしようとする人は、己の善を誇って、ひたすら阿弥陀仏にすがろうとする心に欠けているので、
そういう「自力」のある間は、自力の心を捨てて、ただ阿弥陀仏の名を呼べば救ってやろうという阿弥陀仏本来の救済対象ではありません。
しかし、そういう人でも自らの心を改めて、専ら「他力」すなわち「阿弥陀仏の力」にすがれば正真正銘の極楽浄土(真仏浄土)にいくことができます。
どのような行によっても、この苦悩の世界から逃れることが出来ない者を憐れんで阿弥陀仏は、
あの不可思議な願いを起こされたのだから、その本当の意思は悪人を成仏させようとするためです。
自分の中に何の善も見出さず、ひたすら他力を頼むしかない我らが如き悪人の方が、かえって救済に預かるに相応しい人間です。
自力作善の人は他力(阿弥陀仏)を頼む心が少ないので極楽往生をすることは難しいが、自分の心を翻して他力を頼めば極楽に往生ができます。
それに対して煩悩具足の我々は、念仏以外の他に行では、とても生死を離れることは出来ません。
そういう人間を極楽往生させようとするのが阿弥陀仏の本来の願いであり、悪人こそ極楽往生ができるのです。
しかしながら、この「悪人正機説」を前面に出しすぎて、唯円は親鸞の思想の中核をはっきり語らなかったため、親鸞の最も大切な中心的思想が出ていません。
親鸞の記したものは、念仏は悪人成仏のためのものであるが、これを逆手にとってどんな悪行をしても構わないという考えに対しては、はっきりと反論を加えています。
(5) 浄土真宗の概要
鎌倉初期、浄土宗を開いた法然の教えを弟子親鸞が継承発展させ、後に教団として自立した宗派です。
親鸞によって始められた浄土真宗は、その年次が『教行信証』の完成した元仁元年(1224)とされますが、
彼自身は法然から独立して一宗派を始めるという考えを全く持っておらず、法然の唱導した浄土教の念仏の教えこそ真実の教え(浄土真宗)であると考えていました。
もっとも親鸞の立場は、むしろ信心を徹底し、信が定まった時に、必ず仏となるものの仲間(正定聚)に入る。すなわち、浄土往生以前に、この世で救いが成就する(現世正定聚)とされました。
しかも『信心』も『念仏の行』も如来より回向されたものとされる絶対他力の教学を完成させました。
彼の主張は絶対他力で、いかなる修行も必要とせず「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と説く悪人正機の他力宗で、
人間はすべて罪深き者であるから、念仏を唱えて救済を願うべきであるとし、彼自らも人々と共に自然法爾の念仏を回向する同行であると説きました。
この悪人正機、至心信楽の絶対他力の教えは、主として最下層の農民であった下作人、賎民等の社会層に浸透して仏教史上画期的な展開をみせます。
こうした最下層農民への徹底した平民的教義は、惣領制が支配していた関東・東北地方では、
上級支配者が下層民の宗教信仰まで統一することが多かったため、布教を成功させることが出来ませんでした。
しかし、室町時代になり北陸、近畿、中国地方等農村分解がある程度進んだ、いわゆる先進地帯に布教の中心が移されていきました。
親鸞は老子の影響を相当受けたのか『教行信証』の中で、その思想を述べており、老子の説く生成の理が親鸞の思想に動的な柔軟性と幅を持たせたといわれます。
また、不朽の名著『教行信証』の他に多くの独自性を持った『愚禿抄』『歎異抄』など数多くの著書、消息等を残しました。
(6) 浄土真宗の宗義
○ 本尊:阿弥陀如来一仏
○ 経典:浄土三部経(仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経)
○ 称名念仏:南無阿弥陀仏を唱える
ただ『南無阿弥陀仏』という阿弥陀如来のはたらきにまかせて、全ての人は往生成仏することが出来るとの教えから、
他宗派に比べて多くの宗教儀式や習俗にとらわれなかったため、庶民から広く受け入れられましたが、他宗派からは反発を買いました。
(7) 浄土真宗の分派と吸収
親鸞没後、下野(栃木県)の高田専修寺をはじめ法脈を継いだ関東門徒団の布教活動で発展していきます。
その後、京都大谷の親鸞祖廟の留守職を継承した覚如(親鸞の曾孫・1270~1351)が本願寺第3代を名乗り本願寺教団を開きました。
しかし、覚如は浄土真宗を本願寺中心に統一しようとして高田派門徒団等に反対され両派は対立していきます。
やがて本願寺第8代蓮如が出現し、蓮如は著しく広範囲に多数の信者を獲得し、さらに分派宗派を吸収しつつ巨大な本願寺教団を築きました。
蓮如は御文(御文章)と称する平易な教義書による布教法と講を活用した親鸞の正信念仏偈や和讃の唱和など集団的行事を行うことによって、
吉崎道場を中心とする加越地方、一身田の伊勢地方、亀山御坊を中心とする播磨平野、広島地方等で多数の信徒を獲得し新宗教団を拡大させました。
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