人類誕生と日本民族(3)





8 縄文時代


 縄文時代は、今から約1万5,000年前から約3,000年前、地質年代では更新世
(洪積世)末期から完新世(沖積世)にかけて日本列島が発展した時代である。

 世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代で、旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴式住居の普及、貝塚の形式などが挙げられる。

 縄文時代は、縄文土器が使われた時代を示す呼称であったが、次第に生活内容を加えた説明がされるようになり、
磨製石器を作る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会として捉えられるようになった。

 縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として有効で、土器形式の区分から、この時代を草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けている。

 この時期をAMS法
(加速器質量分析法)で測定し、歴年代に補正した年代で示すと、草創期(約1万5,000~1万2,000年前)、早期(約1万2,000~7,000年前)

 前期
(約7,000~5,500年前)、中期(約5,500~4,500年前)、後期(約4,500~3,300年前)、晩期(約3,300~2,800年前)となる。

 なお、土器編年による区分の他、文化形式の側面からみて幾つかの時期に分類する方法もある。文化史区分については研究者によっていくつかの方法があり、現在、学界で定説は確立されていない。



9 日本民族と縄文文化

● 大規模な気候変動

 最終氷期の約2万年前の最盛期を過ぎると地球規模で温暖化に向かった。最後の氷期である
晩氷期(約1万3,000年前~1万年前)の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほど、急激で厳しい環境変化が短期間のうちに起きた。

 約2万年前に最終氷期が終わってから6000年前頃までは、地球の気温が徐々に温暖化した時期である。

 この間に日本列島は、海面が100㍍以上も上昇し、約6000年前には海面は現在より4~5㍍高く、
縄文海進と呼ばれている。この期間は縄文草創期から縄文前期(13000年~6000年前)に相当する。



● 縄文時代草創期
(約1万5,000~1万2,000年前)…縄文Ⅰ期

 縄文草創期、この期の初め頃は日本列島が大陸から離れる直前であったと推測される。列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心だったが、落葉樹林も一部で出現した。

 地学的に北海道と樺太は陸続きであり、津軽海峡は冬には結氷して北海道と本州が繋がった。晩氷期の気候は、短期間に寒・暖が起こり、厳しい環境変化であった。

 瀬戸内海は、まだ存在しておらず、本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬は一つの大きな島であった。この大きな島と朝鮮半島の間は幅15㌔程度の水路であった。

 その後、温暖化が進行し、氷河が溶けて海水面が上昇、海が陸地に進入して、対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むようになった。

 その結果、貝類や魚類が新しい食料資源となり、日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水でブナなどの森林が形成された。

 一方、狩猟の獲物はゾウやヤギュウの大型哺乳動物からシカやイノシシの中・小哺乳動物に変わっていった。縄文人は竪穴住居で生活し、

 この頃の道具類に小型の骨製U字型釣針、局部磨製石斧、槍・弓矢の製作・使用、
隆(起)線文系土器爪形文系土器・押縄文系土器(多縄文系土器)、女性像を線刻した小礫の製作がある。

◇気候変動 ➡ 温暖化

 ▽西南日本~太平洋沿岸伝い…落葉広葉樹林・照葉樹林が増大…
       コナラ亜属、ブナ属、クリ属など堅果類が繁茂。

 ▽北海道…ツンドラが内陸中央部山地まで後退…亜寒帯針葉樹林が進
      出。日本海側、南部の渡島
(おしま)半島…針葉樹、広葉樹
      の混合林が共存。

 ▽獣肉減少の危機感…獣肉中心から植物資源を加える食生活へ移行

  温暖化による植生の変化…マンモス、トナカイ、ナウマンゾウ、オ
  オツノジカなど大型哺乳動物の生息環境悪化…約1万年前までに
  絶滅。

 ▽植物を食用し消化不良…加熱処理のため煮沸用容器「土器」の必要
  性。土器を手に入れた縄文人…主な食物体系を植物資源に大転換…
  その後、海産資源を加える。

 ▽植物資源の依存度増大…以前と比べ食料安定確保に大きく貢献…
  その結果、土器を持った生活は、定住的な生活様式や人口増加の
  現象をもたらし、1万年に及ぶ縄文文化の出発点となった。

◇縄文草創期の特徴

 ▽新しい道具が短期間に数多く出現

  ▪ 石器群…大型磨製石斧、石槍、植刃、断面が三角形の錐、半月系
       石器。
有形尖頭器、矢柄研磨器、石鏃など

  ▪ 使われなくなる石器群、新しく出現する石器群が目まぐるしく入
   れ替わった。

  ▪ 草創期前半の時期は、遺跡によって石器群の組み合わせが違う。

  ▪ 急激な気候の変化による植生や動物相、海岸線の移動などの環境
   の変化に対応した道具が次々に考案された。

  ▪ 狩猟・植物採取・植物栽培・漁労の新たな生業体系をもとに生産
   力を飛躍的に発展させた。

  ▪ 一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになった。

◇遺跡及び土器

 ▽東日本
  ▪1971年、青森県・
大平山元Ⅰ遺跡隆(起)線文土器とは別種…さら
      に古い
無文土器出土。

      茨城県・
後野遺跡、東京都・前田耕地遺跡神子柴系石器
      と共に
無文土器出土。

       東日本の広範な地域で
隆(起)線文土器に先行して土器が開
      発されていた。

 ▽西日本
  ▪1960年、長崎県佐世保・
福井洞穴…縄文早期の第2地層からクサビ
        形
細石核細石刃とともに爪形文土器出土、第3地層から
     
クサビ形(福井型)細石核細石刃を大量出土、隆(起)線文土
        器
出土。

 
 隆線文土器


● 縄文時代早期(約1万2,000~7,000年前)…縄文Ⅱ期

◇ 主な出来事

▽気候・環境

 日本列島は完全に大陸から離れて島国となっていた。そして初めの頃は、現在よりも気温が2度ほど低く、海水面も30㍍ほど低かった。

 その後、海水面の高さが戻る。
鬼界カルデラの噴火注1で西日本一帯に火山灰が積もる。

 注1:鬼界カルデラ噴火…約7300年前、薩摩半島から約50km南の大隅海峡にあるカルデラが大爆発を起こした。この時の爆発で縄文早期、南九州の人々がほぼ全滅したといわれる。

 この爆発で降った火山灰が、現在、広い範囲で「アカホヤ」と呼ばれる地層として確認され、この地層の上下で縄文早期と前期が分けられている。


▽生活・住居


 数個の竪穴住居で一集落を構成。組合せ式釣針。ドングリ、クルミなど堅果類を植林栽培する初歩的農法が確立、食料資源となっていた。

 狩猟では大型の哺乳動物に変わって、シカ・イノシシなど中・小型哺乳動物が中心となった。狩猟道具として
弓矢が急速に普及した。

▽石 器

 網用の土錘・石錘、ヤス、銛、堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰したりするための石皿や磨製の石なども使われていた。

▽土 器

 圧煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えた。
縄文・撚糸文の尖底土器が作られた。

 
夏島貝塚から撚糸文系土器貝殻沈殿文系土器貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土した。小型の土偶が作られた。

▽貝 塚

 貝塚は、この時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域に作られていた。貝塚はヤマトシジミが主体であった。狩猟とともに漁労が活発化した。

 最古級の神奈川県横須賀市
夏島貝塚、千葉県香取郡神埼町西之城貝塚。押型文土器期に属する愛知県知多郡南知多町先苅(まずかり)貝塚は海面下13㍍の深さから発見された。人口2万100人。縄文犬を人と一緒に埋葬。屈葬。

   
尖底土器 


 縄文時代早期には、日本列島は完全に大陸から離れて島国となっていた。そして初めの頃は、現在よりも気温が2度ほど低く、海水面も30㍍ほど低かった。

 その後、海水面の高さが戻る。
鬼界カルデラの噴火で西日本一帯に火山灰が積もる。

 この時期、相当規模の縄文人定住集落が登場したほか、本格的な漁業の開始、関東では外洋航行の開始など新たな文化要素が加わった。

 ドングリやクルミなどの堅果類を植林栽培する初歩的農法が確立し、食料資源となっていた。

 狩猟では大型の哺乳動物に変わってシカやイノシシなどの中・小型哺乳動物が中心となった。狩猟道具として弓矢が急速に普及した。

 道具類として石器(網用の土錘・石錘、ヤス、銛、堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰したりするための石皿や磨製の石)なども使用、土器(圧煮炊き用の土器)の出現が旧石器時代の生活を変えた。

 縄文・撚糸文の
尖底土器が作られた。夏島貝塚から撚糸文系土器貝殻沈殿文系土器貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土した。小型の土偶を製作した。

 最も古い
定住集落が発見されたのは、九州南部の上野原遺跡金峰町の遺跡で、約1万1000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前に通年の定住が開始されたと推定される。

 この時期の土器は、北東アジア系、華北・華中系、華南系の3系統に分けられ、分布面から見ると、
北東アジア系は北海道から東日本に、華北・華中系西日本華南系南日本から出土している。

 植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林地帯が九州や四国の沿岸部及び関東以西の太平洋沿岸部に限られ、それ以外の地域は落葉樹が優勢だった。

◇遺 跡

  ▽
加栗山遺跡(鹿児島市)…縄文早期初頭…16棟の竪穴住居跡、
   33基の煙道付き炉穴、17基の集石など検出。

  ▽
上野原遺跡(霧島市)…縄文早期初頭…46棟の竪穴住居跡など。
   このうち13棟は桜島起源の火山灰に覆われていた。
   この13棟は半環状に配置…相当規模で定住集落の形成(推定)。

  ▽関東地方
(武蔵野台地や多摩丘陵など南関東)…縄文早期前半…
   竪穴住居が最も顕著に普及…検出された遺跡65ヵ所、300棟超。

  ▽
武蔵台遺跡(東京都府中市)…24棟の竪穴住居と多数の土杭が
   半環状に配置され検出。

  ▽
中野B遺跡(函館市)…縄文早期中頃…500棟以上の竪穴住居跡など

  ▽
若宮遺跡(富士宮市)…28棟の竪穴住居跡など多数の遺跡群
   土器の石器18,000点(うち狩猟用石鏃2,618点)ほど出土。

◇出土した道具類

 これら早期前半の遺跡から、植物食料の
調理器具である石皿、磨石、敲石加熱処理具土器も大型化、出土個体数も増加。

◇定住生活と植物食料

 特に
堅果類が中心。南関東では植物食料のほか漁労活動も重要な役割を果たした。富士山麓にある若宮遺跡では、地形上、哺乳動物の生息環境に恵まれ、主に狩猟生活で定住生活が営まれた。



● 縄文時代前期
(約7,000~5,500年前)…縄文Ⅲ期
● 縄文時代中期
(約5,500~4,500年前)縄文Ⅳ期

◇ 主な出来事

▽環 境

  前期…気温温暖で海面・気温上昇
(縄文海進、海水面4~5㍍高くなる)
   め、現在の内陸部に貝塚が作られる。常緑照葉樹と落葉照葉樹。

  中期…特記事項なし。

▽生活・住居

  前期…竪穴住居が広場を囲んで集落を作る。湖沼の発達により丸木
     舟が作られる。漁労活動開始。

  中期…集落の規模が大きくなる。植林農法の種類もドングリより食
     べやすいクリに変わり大規模化する。
▽石 器

  前期…木器・土器・櫛・黒曜石などに漆を塗ることが始まる。環状
     列石が作られる。

  中期…海岸線ほぼ現在に近くなる。
大型貝塚形成。

▽土 器

  前期…この期を境に土器の数量は一気に増加し、形や機能も多様化
     し、
平底土器が一般化する。
     土器は羽状縄文を施した
繊維土器が盛んに作られる。
     
(→関山式、黒浜式)

  中期…石棒・土偶などの呪物が盛んに作られる。石柱祭壇。
抜歯の
        風
が始まる。気温低下始まる。立体的紋様のある大型土
        器
が流行する。

▽遺 跡

  前期…
耳飾り・勾玉・管玉などの装身具が作られる。
        立石列
(りつせきれつ)環状石籬(いしかき)
      貝塚。人口10万5500人。

  中期…貝塚。人口26万1300人。
  


 縄文前期から中期は、最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、
三内丸山遺跡地域は、この頃の縄文人が、この文化を育んだと推定される。

 この時期、日本列島に
9つの文化圏が形成されたと考えられる。縄文前期中頃は、現在より海水面が3㍍ほど高くなり、気候も温暖であった。

 この時期、いわゆる縄文海進によって沿岸部に好漁場が増え、海産物の入手が容易になった。植生面では関ヶ原より西は概ね照葉樹林帯であった。

◇9つの文化圏

▽石狩低地以東の北海道…エゾマツ・トドマツなど針葉樹が優勢な地域

 トド、アザラシ、オットセイなど寒流系の海獣が豊富…回転式離頭銛
 発達

▽北海道西南部および東北北部…植生が落葉樹林帯

 ミズナラ、コナラ、クルミ、クリ、トチノキなど堅果類の採集が盛んだった。
 回転式離頭銛による海獣捕獲、カモシカ、イノシシなど陸上哺乳類の
 狩猟も行った。

▽東北南部

 動物性食料…陸上(二ホンジカ、イノシシ)、海(カツオ、マグロ、サ
       メ、イルカ)。
 この文化圏の沖合は暖流が優越するため、寒流系の海獣狩猟は行われなかった。

▽関 東

 照葉樹林帯の植物性食料、内湾性の漁労が特徴。特に貝塚は約6割がこの文化圏のもの。動物性食料…陸上(シカ、イノシシ)、海(ハマグリ、アサリ、スズキ、クロダイ)。土器を錘とした網による漁業を行っていた。

▽北 陸

 植生は落葉広葉樹(トチノキ、ナラ)で、動物性食料…シカ、イノシシ、ツキノワグマ。豪雪地帯のため家屋は大型化した。

▽東海・甲信

 植生は落葉広葉樹であるが、ヤマノイモ、ユリの根なども食用。動物性食料…シカ、イノシシ。打製石斧の使用。

▽北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後

 植生は落葉広葉樹に照葉樹(シイ、カシ)が加わる。動物性食料はシカ、イノシシ。漁業面では切目石錘(石を加工して作った網用の錘)の使用が特徴。

▽九州(豊前・豊後を除く)

 植生は照葉樹林帯。動物性食料はシカ、イノシシ。最大の特徴は九州島と朝鮮半島の間に広がる多島海を舞台とした外洋性の漁労活動。西北九州型結合釣針や石鋸が特徴的な漁具である。

 結合釣針は複数の部材を縛り合わせた大型の釣針で、同じ発想のものが古代ポリネシアでも用いられており、この文化圏は朝鮮半島東岸のオサンリ型結合釣針と一部、分布域が重なっている。

 九州南部は縄文早期末に
鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。

 

▽トカラ列島以南
(南西諸島のうち鹿児島県側の薩南諸島に属する島嶼部以南のこと)

 植生は照葉樹林帯。動物性タンパク質としてはウミガメ、ジュゴンを食用。サンゴ礁内での漁労も特徴、漁具としてシャコガイ、タカラガイなどの貝殻を網漁の錘に用いた。九州文化圏との交流もあった。

 これら9つの文化圏は、縄文文化という一つの文化圏内での差異と云うよりは、「発展の方向を同じくする別個の地域文化」と見るべきであるとの指摘がある。

 つまり、これら全ての文化圏のいずれもが共通の、しかし細部が若干異なる文化要素のセットを保持していたのではなく、

 それぞれの文化圏が地域ごとの環境条件に適合した幾つかの文化要素を選択保持しており、ある文化圏には存在したが、別の文化圏には存在しなかった文化要素も当然ながら見られるのである。

◇勾玉からみる地域交流

 遅くとも縄文中期(BC5,000年)頃にはヒスイ製勾玉が作られていたことが判明しており、特に新潟県糸魚川の「
長者ヶ原遺跡」からはヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が発見されている。

 蛍光X線分析によると青森県の「
三内丸山遺跡」や北海道南部で出土されるヒスイは糸魚川産であることが分かっており、縄文人が広い範囲でお互いに交易していたと考えられている。



● 縄文時代後期(約4,500~3,300年前)縄文Ⅴ期

◇ 主な出来事

▽環 境
  気温、再び寒冷化。弥生海退、海水面の低下

▽生活・住居
  大型貝塚。内陸地域にも貝塚。製塩専業集団、塩媒介集団、塩消費
  集団。伸展葬。交易目的の漁労民発生。

▽石 器
  大湯環状列石
(ストーンサークル)、東北地方に集中。

▽土 器
  ムラの一角に
土器塚が出来る。製塩土器。

▽遺 跡
  ウッドサークル
(巨大木柱遺跡)。敷石住居址。人口16万300人。



 縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下が起きる。関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなった。

 一方、西日本や東北では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していった。中部や関東では主に採れた堅果類がクリからトチノキに急激に変化した。

 その他にも青森県の
亀ヶ岡石器時代遺跡では花粉の分析から、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっている。

 その結果、食料生産も低下し、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じる。

 文化圏は9つから4つに集約され、この4つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれ、東日本、西日本、九州、沖縄という現代に至る日本文化の地域的枠組みの基層をなしている。

 「北海道西南部及び東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」の5つがまとまって単一の文化圏
(照葉樹林文化論における「ナラ林文化」)を構成、

 「北陸・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」「九州
(豊前・豊後を除く)」がまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における「照葉樹林文化)を構成するようになった。

 その結果、縄文後・晩期には文化圏の数は前記の4つに減少する。

 縄文中期から後期に移る4千年前は遺跡数が少なく、人口が激減したことが分かる。青森市の
三内丸山遺跡もこの頃廃れ、寒冷化が始まったためというのが定説である。

 しかし、立命館大の矢野健一教授
(考古学)は「寒冷化だけが原因かどうか。ほかの寒冷化の時期でこんなに人口が減った例はない。

 衰退が目立つのは関東や中部で、根菜などの栽培を発展させて栄えたものの、人口が増えすぎて行き詰まったのだろう」と指摘する。

 逆に、近畿を中心に西日本では遺跡が急増する。「土地に余裕があった西日本に、関東・中部からかなりの人数が移住してきたらしい」という。

 少人口時代に適していた縄文的スローライフ。今度は、移住民で膨らんだ西日本が対応を迫られることになった。



●縄文時代晩期(約3,300~2,800年前)縄文Ⅵ期

◇ 主な出来事

▽環 境
  気温2度前後低下、海面も低下。漁労活動壊滅的打撃受ける。

▽生活・住居
  木製の大刀。漁労の網。東北の太平洋側に銛漁開花。

▽石 器
  北九州・近畿でも
縄文水田

▽土 器

  
夜臼式土器

▽遺 跡

  貝塚。人口7万5800人。

 


▽縄文晩期の稲作


 縄文後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの
焼畑稲作が行われていたことが判明している(プラント・オパール注1の研究成果)

 イネには、ジャポニカ
(日本製)とインディカ(インド製)などの亜種があり、ジャポニカは更に、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャパニカ米)に分かれる。

 温帯ジャポニカは、中国の長江北側から日本列島というごく限られた地域に
水稲農耕と密接に結びついて分布している。弥生時代以降の水稲も温帯ジャポニカであるとされる。

 列島へは、まず熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播した。縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県や鹿児島県の
上野原遺跡などから検出されており、

 籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパール
(イネ科植物の葉などの細胞成分)は、後期後半の西日本各地の遺跡から発見されている。

 熊本県の
上南部(かんなべ)遺跡の土壌と土器胎土からイネのプラント・オパールが検出され、岡山県総社市の南溝手(みなみみぞて)遺跡で発掘された土器6点の中の4点からイネのプラント・オパールが検出された。

 うち2点は縄文後期中頃、およそ3500年前(炭素14年代)に属している。その他、穂を摘み取るのに使われたと推定される石器(穂摘み具)や打製土掘り具と見られる石器が発見された。

 晩期の
突帯文土器を伴う岡山市北区津島江道遺跡は水田遺構として最も古いもので、3㍍×5㍍前後の小区画水田である。

 このため、後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。

 ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、ダイズなども混作されていた。

 注1:プラント・オパール分析…植物珪酸体の化石から植物の種類を推定する方法