坂井平野と用水路(6)




(13)江戸時代(西暦1615~1868)

1幕藩体制と士農工商
 

 徳川家康の死後、三代将軍家光の時代までに、将軍が全大名・朝廷及び直臣家臣団を支配する仕組みが整えられました。

 中央の統一政権である幕府とその支配下で領国を持つ諸藩が政治権力を構成し、土地、人民を支配する幕藩体制が確立しました。

 幕府や諸藩は村を行政単位とし、かつての荘官や有力名主だった村の最上層の農民を庄屋、組頭、百姓代などの村役人にしました。

 そして村人の間に5人組を隈なく作らせ、互いに監視させ、年貢未納や逃亡者があれば連帯責任を負わせました。

 村には田畑を占有し検地帳に登録され年貢を負担する本百姓と土地を持たず本百姓の土地を借りて耕作する水呑百姓がいました。

 農民は田畑、屋敷にかけられる本年貢とその付加税、山や海などの産物にかけられる税などを負担し、その他臨時の土木工事等に動員されました。



2坂井平野の村々と用水


 坂井平野は当時、主に福井藩領、幕府領、丸岡藩領に分かれましたが、この地域は用水路、排水路が網の目のように張り巡らされていました。

 用水の多くは九頭竜川から取水し、特に鳴鹿大堰で堰止められた九頭竜川の水は裏川と呼ばれた分流に入り

 新江口、楽間口、大島口、神明口などいくつかの水閘によって高椋郷、磯部郷、十郷の118ヵ村6万6000石余の地を潤しました。

 享保2年(1717)の「鳴鹿用水方万留万歳帳」によれば、福井藩領17ヵ村、幕府領福井藩預所39ヵ村、丸岡藩領57ヵ村、旗本本多大膳領5ヵ村とあります。

 記録上、平安時代まで遡れる十郷用水の例は極めて少なく、新江用水は明らかに江戸時代にできたものですし、

 その他の用水は、いつ頃出来たものか不明ですが、坂井平野にできた荘園の歴史を辿れば、古くからあった用水路が江戸時代に整備されたものでしょう。

 福井藩は水はけの悪い坂井郡浄土寺村から山岸村までの間に5700間にわたる大堤を築いて悪水を集め、

 山岸村の水門の開閉によって片川の排水を順調に流すなどの大工事を行っています。

 近世の用水制度は江戸初期以来、徐々に整備されましたが、以前から用水の管理を行ってきた大連家のような

 有力農民に引き続き用水の管理を命じたり、普請人足などを従前どおり組合の村々に命じたり、

 旱損時に一定の日時を限って旱損の激しい村に配水する切水を前例を踏襲して命じるなど従来の諸慣行を尊重しながら新しい用水秩序を確立していきました。



3坂井平野の用水路と諸施設


 九頭竜川の大河を堰止め用水路に引き込む工事は、当時、多くの労力と技術を要する大事業でした。

 その場合、川の深さや流れの速さなどにより種々の技法が用いられましたが、当時の技法を挙げると次のようなものがありました。

 堰には川に多くある玉石をただ積んだだけのもの、蛇篭と呼ばれる竹で編んだ縦長、横長の篭(堅篭、横篭)に玉石を詰め、周りに3,4本の杭を打ち込み、流されないように藤蔓で縛りつけたもの、

 沈枠と称しで木で組んだ四角の枠の側面に縦横に細い木を結び付けて玉石を入れて川底に沈め、周りに杭を打ち込んで藤蔓で固定したもの、

 また三俣、牛などとも称され、三角錐又は三角柱を横にした形に木枠を組み、これに蛇篭や石を詰めた俵を入れ、川底に打ち込んだ杭に結び付けて固定したものなどがありました。

 これに粗朶柴や莚などを結び付けることもありましたが、玉石の間を潜り抜ける洩れ水もあり、大水の際には水が堰を超えることもありました。

 小規模な堰の中には川の中に何本かの杭を打ち、それに粗朶柴を結び付けたもの、胴木と称した角材を川底にすえ、これに柴を掛けたもの、

 杭に竹の簀子を掛け、それに莚を掛けたもの、石や砂を詰めた俵を積んだもの、単に丸太を投げ渡したもの、石を積み上げたもの、大きな岩をいくつか並べたものなど様々でした。

 用水の取り入れ口は、鳴鹿大堰のところで分かれる裏川のように単に分流になっているものと水門から取り入れるものがありました。

 石や木、竹で水路をつくり用水や飲水を引く樋も各所にあり、川や用水の上に架かるものは筧、川底や地下に敷設したものは底樋、埋樋などと称しました。

 九頭竜川の裏川から取水する新江用水には取水口から末端まで筧57、埋樋63、底樋2、樋が交錯する違水道が5つあったいいます。

 十郷用水には水量を調節する施設として横落堤があって、用水不要のときには堤を崩すことにより、

 不要水を近くの兵庫川に落とし、用水の必要な春にはまた築き直しました。こうした作業を毎年繰り返していたのです。

 また、十郷用水には「御定水閘」などもあり、ここで用水は幾筋にも分かれましたが、ここの水門の開閉によって、それぞれの用水の水量調節を行っていました。

 排水のための水門もあり、九頭竜川には長さ3間、内のり幅3間、高さ1丈2尺で32ヵ村立会いの山岸村水門などもありました。



4坂井平野の用水支配


 福井藩の「用水御掟書」に22ヵ条の規定があり、用水支配の基本とされました。

 主な規定は次のようなものです。
 1) 争論が起こった時の取扱い

 2) 時間を限って分水する切水
 3) 用水路

 4) 分水
 5) 用水の両岸や用水幅

 6) 水除堤・村囲堤・田地囲堤などの堤
 7) 分杭・分石・胴木・江幅定杭

 8) 橋下や筧下の通水
などです。そのほか役人の心得なども詳細に定められています。

 福井藩には数名の用水奉行が任命され、多くの用水を管轄していました。また、それぞれの用水に用水組合がつくられ、

 それぞれの組合を維持・管理したのは井奉行・水奉行・井番・井役などと呼ばれた有力農民でした。

しかし、これらの役職は用水の諸慣行をめぐって争論が多く、苦労の多い役職でした。



5坂井平野の用水維持と諸負担


 用水には「公儀御普請所」と称し、幕府や諸藩が経費を負担する重要なものから、組合の村々で維持するもの、1ヵ村または個人で維持する「自普請所」など様々のもがありました。

 十郷用水の村々についてみますと、毎年行われる大きな普請として鳴鹿大堰の築立普請、用水取水口である裏川入口の江浚え、

 神明取水口の江浚えや修理、横落堤の切壊し、築立普請などがありました。そのほかそれぞれの村で行う江浚えや岸の柳刈などもありました。

 鳴鹿大堰の築立には、ここから取水する村々を治める福井藩、丸岡藩、幕府領福井藩預役所ならびに旗本本多大膳家、同荻原家から

 毎年、藤1000貫と杭1000本に相当する代米16石2斗8升5合が援助されました。
これで山竹田から藤・杭を買い取って工事を行いました。



6坂井平野の用水をめぐる争論

 この時代の用水をめぐる争論及び主な出来事を年表にしました。

1615(元和1)年5月 大坂夏の陣 大坂城陥落
1616(元和2)4月17日 徳川家康死去、久能山に葬られる。
1624(寛永1)年5月 本多成重、丸岡藩4万6300石の初代藩主となる。
1643(寛永20)年6月 福井藩、三国湊と滝谷出村との境に口留番所、異国船改めのため三国に番所を設置。
1690(元禄3) この年、坂井郡兵庫川下井堰 川崎・石丸村⇔楽円・油屋村の用水争論 江戸出訴
1697(元禄10)年8月 坂井郡内の幕府領36ヵ村の百姓、連判をもって組頭へ夫米赦免を願い出る。
1699(元禄12)年12月14日 幕府、坂井郡川崎、石丸両村と楽円、油屋両村の兵庫川下井堰をめぐる争論を裁許。
1700(元禄13)年 この年、坂井郡大味村と荒井村、十郷用水をめぐり争う。
1727(享保12)年 この年、鳴鹿大堰で川底をならす大工事が行われる。
1734(享保19)年4月 預所坂井郡中筋村と丸岡藩領4ヵ村、江縁置土をめぐって争い、江戸公訴となる。
1743(寛保3)年 この年、鳴鹿大堰で川底をならす大工事が行われる。
1745(延享2)年10月29日 預所坂井郡東長田村と丸岡藩領福島村の用水江筋出入、幕府裁許に従い落着。
1751(宝暦1)年8月18日 吉田郡五領ヶ島の百姓、鳴鹿大堰を破壊し、十郷、高椋、磯部の各用水組合の村々と争い、江戸出訴となる。
1752(宝暦2)年2月22日 坂井郡東長田村の幕府代官所へ300人余の百姓が押しかける。
1752(宝暦2)年6月13日 幕府、福井藩や丸岡藩などに十郷用水堰所出入の内済を命じる。
1753(宝暦3)年4月13日 鳴鹿大堰相論で双方の代表、幕府評定所で対決。
1755(宝暦5)年2月2日 幕府、鳴鹿大堰争論を裁許。
1770(明和7)年 この年、坂井郡上金屋川下58ヵ村と東二ツ家村が十郷用水で争論、江戸出訴となる。
1772(安永1)年12月4日 幕府、坂井郡二ッ屋村と丸岡藩領58ヵ村との簗出入を裁許。
1779(安永8)2月17日 丸岡藩一揆、坂井郡福島村組頭宅を打ち壊す。
1793(寛政5)年10月 坂井郡滝谷出村、三国湊の権益に対して江戸へ出訴。
1796(寛政8)年6月 坂井郡大牧村他5ヵ村と正善村他5ヵ村の堤上置出入、幕府出訴。
1804(享和4)年 この年、坂井郡下番村と中番村が十郷用水で争論、江戸出訴となる。
1810(文化7)年8月 坂井郡鳴鹿山鹿村と谷口村、簗をめぐり争う。
1842(天保13)年 この年、鳴鹿大堰で川底をならす大工事が行われる。
1849(嘉永2)年4月 福井藩領や預所内の村々と丸岡藩領坂井郡樋爪村、為安村の十郷用水路出入、公訴となる。


 
越前の平野部は水が得にくい、排水もしにくい村が多かったため用水争論が頻発しました。争論の原因は

 ◎ 堰や取水口に関するもの
 ◎ 分木・分石・胴木や番水など水の配分に関するもの
 ◎ 普請人足や普請の諸経費に関するもの
 ◎ 排水に関するもの
 ◎ 用水掛りの橋・簗・河戸・水車や木・作物に関するもの
 ◎ 新田開発に関するもの

など様々であり、これらの中には番水や普請の経費をめぐる地主と小百姓の争論もありました。

 争論が起こり、当事者同士で解決できない時は領主の裁断を仰ぐことになります。幕府領では代官、福井藩では用水奉行、その他の諸藩では郡奉行などが担当し解決にあたりました。

 しかし、その際はできるだけ近辺の大庄屋・庄屋など有力農民を仲裁人として、内済すなわち当事者同士の話し合いによる解決が勧められました。

 両者の対立が激しく、どうしても内済できないときには裁断に委ねることになります。幕府領や複数の藩領に跨る争論で、

 国元で解決できない場合は江戸の幕府評定所で裁許を受けることになり、これを江戸出訴(公訴)といいます。

 しかし、江戸出訴となれば多くの経費がかかるし、農民間にしこりを残すことも多く、幕府としては極力裁許という方法は避けようとしました。

 したがって、公訴の手続きを済ませた後に内済になる場合、評定所で取調中に内済を勧告され、

 国元へ帰って内済を行った場合なども多く、最終的に評定所で裁断が下るということは少なかったようです。

 また、たとえ裁断を下した場合でも、その後双方が裁断に従い和解する証文を提出させています。

 坂井平野における用水争論で、幕府評定所で裁許を下された代表的なものを前記年表に記してあります。そのうち主なものをみてみましょう。

1) 鳴鹿大堰争論

 寛延4年(1751)から宝暦5年(1755)にかけて、九頭竜川の本流と裏川の間の中州である吉田郡五領ヶ島の5ヵ村と、

 裏川から取水する新江・高椋・十郷・磯部の各用水組合の村々118ヵ村(以下鳴鹿用水組合と総称)との争論です。

 この争論は寛延4年(1751)8月18日の夜、福井藩五領ヶ島の者たち70人ぐらいが大堰を壊したことに端を発します。

 鳴鹿用水組合の村々は、これらの村々を支配していた東長田・下兵庫・中番の幕府三代官所と

 丸岡藩に五領ヶ島の非法を訴え、適正な処置を願う嘆願書を提出して争論となりました。

 五領ヶ島の村人たちの主張は「鳴鹿大堰はこれまで用水を必要としない秋から春にかけて堰を切り放して水を流してきました。

 ところが当年はこれがなく例年のように裏川の浅瀬を渡って九頭竜川右岸の浄法寺山へ柴刈に行くことができないので堰を切り開けました。」というものでした。

 これに対して鳴鹿用水組合の主張は「鳴鹿大堰は用水がいらない時期も堰を切り開けない定堰であり、堰の石一つも触れることはできない慣わしです。

 領主様たちから毎年藤1000貫、杭1000本分の米を支給されていますが、これは秋から春にかけての出水で傷んだ箇所を修理するためのものです。

 堰の下手は深い淵になっており、少し手を加えても大きな損傷となり簡単には修繕ができません。」というものでした。

 近隣の庄屋や三代官による調停工作もまとまらず、宝暦3年(1753)4月、双方の代表が幕府評定所で対決することになりました。

 数ヵ月かけて慎重に双方からの聴取が行われ、代表たちは一旦国元へ帰され、その後二度に渡って検使による詳細な現地調査が行われました。

 その後かなりの期間が経過した宝暦5年(1755)2月2日に裁断が下されました。

 内容は、毎年秋8月から春4月までの用水不用の期間、大堰138間のうち、南側24間を切放つというものでした。

 鳴鹿用水組合にとっては、やや不本意な結果となりましたが、一応双方の主張の間を取った形となっています。

 九頭竜川の河川利用や大堰下に取水口を持つ河合春近用水や福井城下の上水でもあった芝原用水などの事情も考慮したものでした。

2) 用水路の下流での排水をめぐる争論

 これは多くあったようですが、坂井郡大味・荒井村などは、九頭竜川・兵庫川などが氾濫しますと、田地が冠水し、なかなか水が吐けない低湿地であり、

 田地境の畔や道などが兵庫川からの洪水を防ぐ堤防の役割を果たしていました。したがって、こうした畔や道が新たにできるとか、盛土して高くなれば上手の悪水は吐けず、

 これを低くすれば下手に悪水が多く流れ込むといった事情があり、下兵庫・大味・荒井村などの間で争論が絶えませんでした。

 同郡の上番・中番・下番・河間・宮前村なども、悪水の処置に苦しんだ村々であり、互いに争論を繰り返しながら、

 これまで用水・悪水が田越えに流れ込んでいたり、用水路・排水路が不分明であったりしたものが次第に改善されていきました。

 また、川崎・石丸村にとっては悪水川である兵庫川も楽円・油屋村にとっては用水として利用されており、

 楽円・油屋村がつくっている堰が1年中そのままにしておく定堰か、用水不用の時に取り払う堰かをめぐっても争論が起きています。


主な参考文献
福井県史通史編        福井県
福井県の歴史       印牧邦雄著
日本地名大辞典18福井県   角川書店
福井県大百科事典     福井新聞社