坂井平野と用水路(4)


坂井平野の水田風景


(11)戦国時代(西暦1467~1572)

 嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で将軍足利義教が殺された後、守護大名が勢力を伸ばし将軍家は衰えました。

 守護は荘園領主勢力が弱くなったのを機に代官を送り込んで荘園を侵略し、守護段銭等を増やすなど農民からの搾取を強めました。

 これに対し農民は強力な武力で農民を支配しようとする守護代官を排斥するため、荘園領主と手を組んで戦うこともありました。

 将軍職が守護大名に動かされるようになると、将軍家内部で争いが起き、守護の領国でも諸勢力が揺れ動き内輪もめが絶えませんでした。

 応仁元年(1467)に発生した応仁の乱は、将軍家の争い、細川氏と山名氏の争い、それに守護家の内輪もめが絡み、国内守護大名の大半が二派に分かれ、11年間争う大乱となりました。

 戦いが長引くにつれて領国で土一揆が発生し、反乱を起こす家臣も出てくるなど戦どころではなくなり、守護たちは各々帰国し、

 細川・山名両軍とも決定的な勝利を得ることなく応仁の乱は終わりました。
それは同時に、その後100年以上も続く戦国時代の始まりとなり、

 この乱後、幕府の権力は京都周辺に及ぶだけとなり、家臣が反乱を起こして主家を乗っ取ると、

 その後で自分の家臣に殺されるという、実力だけがものをいう「下剋上」の時代になりました。

 この戦国時代、越前国内でも戦いが起きましたが、坂井平野の主な出来事を挙げれば次表のとおりです。

1470(文明2)年4月 坂井郡河口荘の荷物が前年に近江坂本で掠奪されたと興福寺が訴える。
1470(文明2)年9月 朝倉孝景、坂井郡河口荘本庄郷、大口郷の済物を押領する。
1470(文明2)年10月 越前の興福寺領が守護方により押領される。
1471(文明3)年7月 蓮如が越前に下向し坂井郡吉崎に坊舎を建立する。
1471(文明3)年9月 坂井郡長崎が斯波義敏方により焼き払われる。
1472(文明4)年8月 坂井郡長崎荘に閉籠していた甲斐勢下方衆を朝倉氏が攻撃し敗走させる。
1472(文明4)年8月 朝倉孝景、将軍に越前の寺社本所領の半済を願い許される。
1472(文明4)年 この年、炎旱と朝倉氏、甲斐氏間の合戦により坂井郡河口荘の本庄・新郷・溝江新田が不作となる。
1473(文明5)年7月 甲斐・加賀富樫幸千代勢が坂井郡細呂宜に侵入する。
1473(文明5)年8月 甲斐・朝倉両勢、坂井郡光塚、蓮浦で合戦、吉崎の蓮如、吉田郡藤島に避難する。
1473(文明5)年10月 越前に甲斐八郎の軍勢が討ち入り、坂井郡河口荘・坪江郷を焼き払う。
1475(文明7)年8月 蓮如、吉崎から海路で退去し若狭へ向かう。
1479(文明11)年11月 朝倉勢、金津夜討ちする。
1480(文明12)年1月 甲斐勢、金津の朝倉氏景を攻撃し、町屋を焼く。
1480(文明12)年4月 朝倉氏景と甲斐勢の戦闘で金津町屋と坂井郡熊坂が焼ける。
1480(文明12)年7月 甲斐勢、坂井郡長崎城、金津城、兵庫城、新庄城を攻略、九頭竜川以北の朝倉方の城は4、5ヵ所のみとなる。
1480(文明12)年8月 甲斐方、坂井郡河口荘民を兵士に徴発し、朝倉孝景と吉田郡芝原で戦う。
1480(文明12)年11月 坂井郡河口荘・坪江郷が幕府の命により興福寺に還付される。
1481(文明13)8月 朝倉勢、坂井郡粟田島の甲斐勢を破る。
1485(文明17)年5月 坂井郡細呂宜下方百姓の訴えにより興福寺が代官堀江民部を罷免し朝倉光玖を任命する
1486(文明18)年4月 内裏所吉田郡河合荘の年貢の催促のため中御門宣胤が朝倉氏景のもとに赴く。その後、氏景は厳重に沙汰するとの請文を提出。
1487(長享1)年1月 三国湊の興福寺供料40貫文を朝倉光玖と堀江南郷方が半分宛請負う。
1498(明応7)年7月 坂井郡河口荘の名主・百姓ら豊原寺との水論のため証文を求め興福寺大乗院へ出向く。
1499(明応8)年7月 坂井郡河口荘民、朝倉氏の判決により水論に勝訴
1506(永正3)年8月 越前・加賀一揆軍と朝倉軍が九頭竜川を挟んで決戦、一揆軍が敗れる。
1518(永正15)年12月 吉田郡河合荘年貢徴収のため本願寺実如が協力する。
1522(大永2)年5月 興福寺大乗院門跡経尋、維摩台に充てる坂井郡河口・坪江両荘段銭徴収を朝倉孝景に依頼する。
1523(大永3)年5月 朝倉孝景、坂井郡竜沢寺領の榎富中荘本所方、門前における斉藤・上村・武曽氏らの押妨停止を命令
1537(天文6)年6月 朝倉氏、坂井郡河口荘十郷と東長田の用水について鳴鹿井堰普請の定書を下す。
1552(天文21)年 この年、興福寺僧堯顕と朝倉氏家臣杉若吉藤、坂井郡河口荘新郷と坪江郷の年貢銭をめぐって相論する。
1553(天文22)年7月 越前・若狭ともに6月より雨が降らず大干ばつとなり、坂井郡十郷用水の水論が一乗谷朝倉氏のもとで争われる。
1553(天文22)年7月 坂井郡河口荘新郷と坪江郷の年貢銭をめぐる興福寺僧堯顕と杉若吉藤の相論を朝倉義景が裁決し、杉若に銭の納入を命じる。
1556(弘治2)7月 三国湊滝谷寺の逃亡門前百姓を朝倉氏が誅伐することを命令する。
1572(元亀3)年12月 朝倉義景、興福寺大乗院尋憲の要求により、坂井郡河口荘給人に同荘年貢を督促する。
1575(天正3)年8月 大乗院門跡尋憲、織田信長に興福寺領河口荘・坪江郷の回復を求める。
1578(天正6)年3月 柴田勝家、十郷井水普請に関する条々を出す。


ア)農業をめぐる災害と飢饉

 中世の農業生産を脅かし続けたのは自然災害のほか、打ち続く戦乱であり、農村はしばしば戦場となりました。

 例えば河口荘では応仁の乱後の文明4年(1472)坂井郡長崎荘に閉籠していた甲斐勢下方衆を

 朝倉氏が取り籠めて合戦し、ついで河口荘・坪江郷に軍勢が乱入し「正体なし」という事態に至りました。

 これについて大乗院門跡は「炎旱といい兵乱といい、旁以て年貢等の事思い遣わす者也」とし、炎旱や兵乱の被害を受けた諸荘園からの年貢の確保を憂慮しています。

 また文明12年(1480)には河口荘民等が徴発され、甲斐方者と荘民合わせて千余人が討死するなど、戦乱は農村にも深刻な影響を与えました。

イ)水論の発生と裁定

 15世紀後半に朝倉氏は越前一国の領国支配権を掌握しますが、これ以降の朝倉氏による用水相論の裁定が数例確認されています。

 天文22年(1553)は越前・若狭ともに旱魃の年でしたが、この年、河口荘十郷用水をめぐって水論が起き、

 十郷給人百姓数十人はこの水論の収拾を図るために一乗谷で訴陳を展開しますが、在地では大勢が打ち出でて「一戦に及ぶべく」というような緊迫した事態になりました。

 天文6年(1537)には河口荘十郷と隣郷東長田の用水相論が起こり、朝倉氏一乗谷奉
行人は

 十郷百姓による鳴鹿井堰の普請が「不届」であったことにより相論が発生したと裁定を下し再度普請を命じています。

 裁定では筒木・樋などの分水施設の寸法を寸・分単位まで細かく規定しており、十郷用水の維持・管理のために

 朝倉氏が検使を派遣するなど、十郷用水に相当の関心を払っていたことがうかがわれます。

 従来、荘園領主・国衙が用水支配権を個別的に保持していた段階では、用水相論は荘・郷間の対立の形をとる場合が多かったとようです。

 しかし、中世後期に荘園領主・国衙の支配が後退するに伴い、越前では朝倉氏給人・名主百姓らが用水支配権を掌握するようになり、彼らは給人衆中や百姓中として相論の当事者となっていきました。

 したがって戦国期の用水相論は、給人・名主百姓が支配する比較的狭い地域の引水権をめぐるものが多かったと考えられます。

 ただ、戦国期越前の水論の際には朝倉氏は相論の解決を給人にゆだねず、裁定の仲介者を立てたり使者を派遣したりして、

 従来から在地に続いてきた用水慣行を踏まえつつ裁定を下し、郷村内で自律的な諸慣行が形成されにくい場合には新しく用水秩序を設定することも行いました。

 また朝倉氏が積極的に用水相論に関与したのは、荘園領主・国衙に代わって在地の土豪・惣村が勧農の主体となることにより

 用水をめぐる自律的な諸慣行が郷村内で形成されつつも、時として隣接する複数の郷村間の争いや郷村内で争いが生じ、大名の裁定を必要としたからです。

 戦国大名朝倉氏は、郷村内で形成された自律的な用水慣行を追認・保証したり、用水相論の際はその調整者としての役割を求められたといえます。

 給人・名主百姓を統制できる戦国大名の権力が水論を裁定することで、同一の用水水系に属する諸郷・村の引水権が調整されていきました。

ウ)用水と惣的結合の展開

 中世後期の河口荘の事例では、河口荘の名主・百姓らが豊原寺領との水論のため興福寺大乗院へ出向いたり、

 十郷百姓らが自ら十郷用水の用水取入れ口である鳴鹿井堰の普請を行っていたように、

 河口荘内部で農民層が用水の管理に直接関与するようになり、これが十郷用水を基軸とした郷同士の地縁的な惣的結合を展開することになりました。

 天正6年(1578)に柴田勝家が十郷用水普請について定めた条々によれば、柴田勝家の指示によって「郷中」において用水普請についての取決めが作成され、

 それが勝家に披露されたと伝えられるほか、用水普請に難渋する在所があれば制裁措置として残りの「郷中」として分水を停止することなども規定しています。

 これは中世後期の河口荘において用水の共同管理・利用を背景とした広域にわたる惣的な結合が進展し、

 河口荘十郷の「郷中」が自治的な構造と機能を有していたことを示すものといえます。

 近世初頭に「村切」が行われる以前は戦国大名権力も惣的結合を認めつつ間接的に用水支配を行わざるを得なかったようです。


主な参考文献
福井県史通史編        福井県
福井県の歴史       印牧邦雄著
日本地名大辞典18福井県   角川書店
福井県大百科事典     福井新聞社