1470(文明2)年4月 |
坂井郡河口荘の荷物が前年に近江坂本で掠奪されたと興福寺が訴える。 |
1470(文明2)年9月 |
朝倉孝景、坂井郡河口荘本庄郷、大口郷の済物を押領する。 |
1470(文明2)年10月 |
越前の興福寺領が守護方により押領される。 |
1471(文明3)年7月 |
蓮如が越前に下向し坂井郡吉崎に坊舎を建立する。 |
1471(文明3)年9月 |
坂井郡長崎が斯波義敏方により焼き払われる。 |
1472(文明4)年8月 |
坂井郡長崎荘に閉籠していた甲斐勢下方衆を朝倉氏が攻撃し敗走させる。 |
1472(文明4)年8月 |
朝倉孝景、将軍に越前の寺社本所領の半済を願い許される。 |
1472(文明4)年 |
この年、炎旱と朝倉氏、甲斐氏間の合戦により坂井郡河口荘の本庄・新郷・溝江新田が不作となる。 |
1473(文明5)年7月 |
甲斐・加賀富樫幸千代勢が坂井郡細呂宜に侵入する。 |
1473(文明5)年8月 |
甲斐・朝倉両勢、坂井郡光塚、蓮浦で合戦、吉崎の蓮如、吉田郡藤島に避難する。 |
1473(文明5)年10月 |
越前に甲斐八郎の軍勢が討ち入り、坂井郡河口荘・坪江郷を焼き払う。 |
1475(文明7)年8月 |
蓮如、吉崎から海路で退去し若狭へ向かう。 |
1479(文明11)年11月 |
朝倉勢、金津夜討ちする。 |
1480(文明12)年1月 |
甲斐勢、金津の朝倉氏景を攻撃し、町屋を焼く。 |
1480(文明12)年4月 |
朝倉氏景と甲斐勢の戦闘で金津町屋と坂井郡熊坂が焼ける。 |
1480(文明12)年7月 |
甲斐勢、坂井郡長崎城、金津城、兵庫城、新庄城を攻略、九頭竜川以北の朝倉方の城は4、5ヵ所のみとなる。 |
1480(文明12)年8月 |
甲斐方、坂井郡河口荘民を兵士に徴発し、朝倉孝景と吉田郡芝原で戦う。 |
1480(文明12)年11月 |
坂井郡河口荘・坪江郷が幕府の命により興福寺に還付される。 |
1481(文明13)8月 |
朝倉勢、坂井郡粟田島の甲斐勢を破る。 |
1485(文明17)年5月 |
坂井郡細呂宜下方百姓の訴えにより興福寺が代官堀江民部を罷免し朝倉光玖を任命する |
1486(文明18)年4月 |
内裏所吉田郡河合荘の年貢の催促のため中御門宣胤が朝倉氏景のもとに赴く。その後、氏景は厳重に沙汰するとの請文を提出。 |
1487(長享1)年1月 |
三国湊の興福寺供料40貫文を朝倉光玖と堀江南郷方が半分宛請負う。 |
1498(明応7)年7月 |
坂井郡河口荘の名主・百姓ら豊原寺との水論のため証文を求め興福寺大乗院へ出向く。 |
1499(明応8)年7月 |
坂井郡河口荘民、朝倉氏の判決により水論に勝訴 |
1506(永正3)年8月 |
越前・加賀一揆軍と朝倉軍が九頭竜川を挟んで決戦、一揆軍が敗れる。 |
1518(永正15)年12月 |
吉田郡河合荘年貢徴収のため本願寺実如が協力する。 |
1522(大永2)年5月 |
興福寺大乗院門跡経尋、維摩台に充てる坂井郡河口・坪江両荘段銭徴収を朝倉孝景に依頼する。 |
1523(大永3)年5月 |
朝倉孝景、坂井郡竜沢寺領の榎富中荘本所方、門前における斉藤・上村・武曽氏らの押妨停止を命令 |
1537(天文6)年6月 |
朝倉氏、坂井郡河口荘十郷と東長田の用水について鳴鹿井堰普請の定書を下す。 |
1552(天文21)年 |
この年、興福寺僧堯顕と朝倉氏家臣杉若吉藤、坂井郡河口荘新郷と坪江郷の年貢銭をめぐって相論する。 |
1553(天文22)年7月 |
越前・若狭ともに6月より雨が降らず大干ばつとなり、坂井郡十郷用水の水論が一乗谷朝倉氏のもとで争われる。 |
1553(天文22)年7月 |
坂井郡河口荘新郷と坪江郷の年貢銭をめぐる興福寺僧堯顕と杉若吉藤の相論を朝倉義景が裁決し、杉若に銭の納入を命じる。 |
1556(弘治2)7月 |
三国湊滝谷寺の逃亡門前百姓を朝倉氏が誅伐することを命令する。 |
1572(元亀3)年12月 |
朝倉義景、興福寺大乗院尋憲の要求により、坂井郡河口荘給人に同荘年貢を督促する。 |
1575(天正3)年8月 |
大乗院門跡尋憲、織田信長に興福寺領河口荘・坪江郷の回復を求める。 |
1578(天正6)年3月 |
柴田勝家、十郷井水普請に関する条々を出す。 |