坂井平野と用水路(3)


坂井平野の水田風景


(8)鎌倉時代
(西暦1185~1334年)

 源頼朝は平氏を滅亡させたことで王朝国家に対し大きな発言権を得ました。

 鎌倉を本拠地に定め、主従関係を結んだ御家人の所領を保証したり、新たな所領を与えて御家人の要求に応えました。

 頼朝は後白河法皇に対し、全国に守護・地頭を置き、全国の荘園・公領から一律に反別五升の兵糧米を徴収する権利を要求しました。

 守護・地頭の設置は、一面では院・貴族の権力を削って武士の権利を拡げることであり、他面では武士・農民の反乱を制圧することを目的としました。

 しかし、幕府権力を背景に地頭を荘園内に置くことは、貴族や大社寺にとっては非常に危険であり、後白河法皇以下の貴族たちは、幕府の新政策に激しく反発しました。

 頼朝は院に譲歩して、地頭を置く権限を得た翌年、地頭を置く範囲を平氏から取り上げた所領と謀反人の所領跡に限ることにし、新たな加重米は取らないことしました。

 建久3年(1192)後白河法皇が死去すると、頼朝は武門の最高称号である征夷大将軍の地位を得て、正式に鎌倉に幕府を開きました。

 しかし、院・貴族は依然、官僚として王朝国家の主な地位にとどまり、鎌倉幕府と並び全国の土地・人民を支配しました。

 院・貴族の利益と武士の利益は、本来対立するものでしたから、この二つの勢力は最初から争うことになりました。

 地方の武士は、頼朝の政策を乗り越え荘園を乗っ取ろうとし、これを見た幕府は、武士の政権でありながら

 初めから院・貴族と妥協し、地方の武士の進出を恐れるという矛盾を持っていました。

 こうした国内情勢の中、坂井平野における主な出来事を列挙したのが次表です。

 
1185(文治元年) 越前守藤原基通が幕府の地頭代の無礼を訴える。
1187(文治3年) 越前国司、守覚法親王領の吉田郡河北郷内の地の国役・雑事を免除。
1190(建久元年) 吉田郡河北荘、仁和寺守覚法親王家領として成立。
1206(建永元年) 坂井郡河口荘の地頭基員を興福寺が訴え、院宣を受けて将軍実朝が地頭を停止する。
1221(承久3年) 承久の乱で全国の所領3000ヵ所余を幕府が手に入れる。(全国情勢)
1229(寛喜元年) 坂井郡河口荘への守護使不入が命じられる。
1229(寛喜元年) 坂井郡豊原寺が延暦寺の末寺となり、妙法院門跡領となる。

 承久3年(1221)に発生した承久の乱後、幕府は後鳥羽上皇を含む三上皇を島流しにして、新しい天皇を立てました。

 院や院に味方した貴族・武士の所領3000ヵ所余を取り上げ、御家人たちに分け与えました。

 こうして王朝国家は以後、何をするにも幕府の許可を必要とする弱い立場になりました。

 頼朝が平氏から取り上げた所領は500ヵ所余でしたが、このとき手に入れた所領は、その数倍に上る3000ヵ所余であり幕府の勢力は急に広がりました。

 守護・地頭以下御家人たちは、幕府の権力を後ろ盾に国司や荘園領主の命令に反抗し、年貢を横取りしたり、農民からの搾取を強めていきました。

 これに対して名主たちも一同相談して耕作放棄をして逃亡する逃散など地頭に対し抵抗を始めました。

 地頭による荘園侵犯が進んだ一部の地域では、13世紀初めから荘園領主は、地頭に荘園の管理をまかせ、

 一定の年貢を請け負わせる「地頭請」によって年貢を確保しようとしたり、荘園の土地を二つに分けて

 荘園領主と地頭とが、それぞれ相手の権利を侵すことなく支配する「下地中分」の方法をとりました。

 しかし、地頭は請け負った年貢さえ支払わず、また分けられた半分の荘園をもとに、残りの半分へも侵犯の手を伸ばしていきました。


(9)南北朝時代(西暦1334~1393)
 
 鎌倉幕府が倒れると、政権を握った後醍醐天皇は翌1334年、元号を建武と改め、まず皇族や貴族、寺社の荘園で武士に侵犯されていた所を取り戻すことに着手しました。

 しかし、武士と農民を犠牲にした政策に不満が高まり、再び武家政治への復帰を望む空気が流れ、鎌倉に下っていた

足利尊氏は建武2年(1335)兵を挙げ、延元元年(1336)1月京都を一旦占領しますが、その後、戦に敗れ九州へ落ち延びます。

 そこで再び武士を組織し大軍を率い京都を攻め落し、後醍醐天皇は足利尊氏に降伏、天皇親政はわずか3年足らずで潰れました。

 足利尊氏は延元元年(1336)新しい天皇を立て、建武式目17ヵ条を定めると京都に幕府を開きました。
 
 幽閉されていた後醍醐天皇は大和の吉野へ逃れ、南朝政府をつくり、以後、両朝の争いは60年近く続きます。

 この南北朝内乱の間に農民たちは寄合を開き、荘園領主に対して年貢を減らすこと、

 直営地の労働その他農民を酷使する不法な荘官をやめさせることを要求し、それが聞き入れられないと逃散などで対抗しました。

 そんな南北朝期、坂井平野に関連する主な出来事を列挙したのが次表です。

 
1335(建武2)年 坂井郡坪江郷の国人の瓜生と野地が昨年合戦に及んだため、領主興福寺大乗院が野地に弁明を求める。
1337(建武4)年 この年、坂井郡坂北荘長畝郷内玄陽名(玄女)が白山に寄付される。朝倉広景、但馬から越前に入る。
1356(延文元)年 坂井郡河口・坪江荘を守護斯波氏が違乱したとして興福寺衆徒により春日社神木遷座が行われる。
1362(貞治元)年 坂井郡河口荘大口郷公文の朝倉宗賢が同荘を押妨したとして興福寺から訴えられる。
1364(貞治3)年 坂井郡河口荘に対する斯波高経の押領停止を興福寺が訴え、春日社の神木を入洛させる。
1367(貞治6)年 吉田郡河北(河合)荘が守護斯波高経より没収され、醍醐寺三宝院に寄進される。
1371(応安4)年 醍醐寺三宝院領吉田郡河北(河合)荘の先所務代官山徒西縄坊につき、同荘の番頭・百姓たちが先年の悪行5ヵ条を挙げて同人の再任を拒否する。
1372(応安5)年 吉田郡河合荘貞正名用水堤を春近郷千秋経季の代官が違乱し、同荘の用水の磯部荘内小太郎堤を切り落としたとして、醍醐寺から訴えられる。
1383(永徳3)年 吉田郡河北(河合)荘の番頭・百姓ら、先公文来迎院らを荘官に任じれば逃散すると領主醍醐寺に訴える。
1388(嘉慶2)年 越前守護斯波義将の申請により、坂井郡豊原寺領が足利義満から安堵される。

ア)中世の農業開発と安定化

 古代には沖積平野の開墾を中心とした国家的かつ大規模な開発がみられましたが、中世になると荘園制の展開により国家的な開墾や開発事業は事実上不可能となり

 また平野部に当時の技術で開発できる部分は限られ、大規模な開発の動きは見られませんでした。

 しかし、時代、地域によって開発の様相は異なりますが小規模な田地の開発はさまざまな階層の人々によって行われました。

 坂井平野の具体的な開発実態は史料が乏しく分かりませんが、水害などの被害を受けやすい不安定な田地を再開発して安定化したり、

 荒地や荒廃田を開発・再開発したり、また一般の農民たちの手によって従来耕地に不向きだった荒地を対象に

 「沢田」「河原田」などの零細な耕地を開発したりするなどの動きはあったと考えられます。

イ)水論の発生と裁定

 農民には荘園領主以上に荘園内の直接生産に関わる用水は重要なものであり、中世を通じて用水の配分や用水施設などをめぐる相論、いわゆる水論が旱魃など災害を背景にしばしば発生しています。

 南北朝期、次表の通り応安5年(1372)吉田郡河合荘内の貞正名用水堤を春近郷代官千秋氏の代官が春近郷内であると称して違乱したり、

 同荘の用水であった磯部荘内小太郎堤を切り落としたりするなどの事件が起きました。

 訴人の河合荘雑掌は先例に任せて河合荘が堤を領掌すべきであると主張し、重ねて春近郷の違乱を停止するよう将軍家の御教書発給を求めています。

 一般に中世における用水相論は用水施設や引水権の先例を争点として争われ、守護などの上級権力も用水に関する先例の遵守を命じる方針をとっていました。

 このことは中世村落間における用水の管理、利用をめぐる番水制などの諸慣行が在地に強固に存在していたことを物語っています。


(10)室町時代(西暦1393~1466年)


 室町幕府は全国に散在する直轄地からの収入を主な財源とし、他に必要に応じ諸国の農民から直接、段銭や棟別銭を取り立てました。

 しかし、それだけでは足らず、他に酒屋や土倉という高利貸商人の利益を保護し、彼らから税をとったり、

 交通の要所に関所を設けて関銭をとったり、また中国(明)との貿易で利益を上げました。

 名主から下人に至るすべての農民は、この時代、団結し幕府・守護・荘園領主・地頭の課税、或いは幕府に寄生する酒屋、土倉など高利貸からの搾取と戦いました。

 農民の要求は単なる嘆願でなく強訴の傾向を帯び始め、年貢の未進や逃散が度々起きました。

 幕府は逃散した農民を匿うことを禁じ、守護が逃げ出した農民を武力で連れ戻しました。やがて農民闘争は15世紀初め武装蜂起にまで発展していきます。

 そんな時代を背景に坂井平野に関係する主な出来事を挙げると次表のとおりです。

  
1396(応永3)年 興福寺大乗院門跡、坂井郡坪江下郷阿古江内出来島に対する湊津方の違乱を停止
1405(応永12)年 越前守護代甲斐将教、小守護代に坂井郡河口・坪江荘に対する役夫工米の催促停止を命令
1412(応永19)年 坂井郡坪江上郷の山林を武曽・深町の被官人が押領したことにつき興福寺大乗院門跡が代官に調査を命じる。
1412(応永19)年 この年、越前守護代甲斐将教、坂井郡河口荘の興福寺田楽頭段銭徴収を請負う。
1414(応永21)年 坂井郡河口荘の政所・公文ら年貢などを無沙汰し、落名や荒名を多発させたとし上洛を命じられる。
1414(応永21)年 坂井郡坪江郷内出来島が阿古江領内であるかどうかにつき興福寺内で相論する。
1415(応永22)年 坂井郡坪江上郷内郷民、損免を要求する。
1418(応永25)年 堀江道賢(教実)、坂井郡河口荘の本庄郷満丸名と新郷鴨池の支配権を興福寺福智院栄舜と争う。
1422(応永29)年 斯波義淳、坂井郡河口荘細呂宜郷下方の長慶寺地蔵院を祈祷所とし、長慶寺の名田、山林などを安堵する。
1439(永享11)年 将軍足利義政、坂井郡河口荘兵庫郷を守護使不入の地とする。
1439(永享11)年 この年、越前守護代甲斐将久、坂井郡河口荘の名を落とし取って家臣に知行させる。
1447(文安4)年 坂井郡河口荘大口郷政所の朝倉(阿波賀)但馬入道と郷民、段別50文の役銭賦課に端を発して相論する。
1449(宝徳1)年 坂井郡河口荘大口郷政所の阿波賀氏の後任に朝倉氏が充てられる。
1451(宝徳3)年 越前守護代甲斐常治、坂井郡河口荘・坪江郷への非分課役を停止し、八朔・歳暮人夫挑発を止める。
1453(享徳2)年 越前守護斯波義教、坂井郡細呂宜郷の闕所を押妨する。
1457(長禄1)年 興福寺、越前国人堀江民部による建仁寺末、坂井郡長慶寺領への介入を停止するよう小守護代に依頼する。
1458(長禄2)年 合戦により興福寺領坂井郡河口荘の諸郷の多くが「あき郷」となり、興福寺大乗院は河口荘の直務を幕府へ願い出る。
1459(長禄3)年 堀江利真が土一揆を起こして坂井郡豊原寺を攻撃する用意をし、河口・坪江の荘民も同意したと報告がなされる。坂井郡長崎に堀江氏の軍勢が陣を取り、同郡河口荘に年貢などを催促する
1459(長禄3)年 朝倉孝景、坂井郡河口荘山荒居郷の代官職に補任される。
1460(寛正1)年 朝倉孝景、籾井信久の所領河口荘本庄郷などの諸職を押妨することを幕府より停止される。
1461(寛正2)年 坂井郡河口荘百姓、長禄4年冬から寛正2年7月までの餓死人が9268人、逃亡人757人に達するとし、興福寺田楽頭役段銭の納入に抵抗する。
1461(寛正2)年 朝倉孝景、興福寺領坂井郡河口・坪江荘の田楽段銭使に任じられる。
1461(寛正2)年 朝倉慈視院光玖、坂井郡河口・坪江荘の田楽段銭徴収のため朝倉孝景の代官として京都から越前に下る。
1461(寛正2)年 坂井郡河口荘の荘民、田楽段銭使に朝倉孝景が任じられることに反対する。
1465(寛正6)年 坂井郡坪江郷代官承棟、請負年貢が集まらないことを理由に代官職を放棄する。
1466(文正1)年 坂井郡河口荘細呂宜郷の先代官堀江民部、実力で郷に入部し、以後この地を支配する。

ア)旱魃と疫病の流行

 全国的な飢饉年であた寛正2年(1461)には、折からの干ばつに加え疫病も流行し、その上、兵乱が発生して多数の人々が餓死しています。

 また同年河口荘の百姓は、長禄4年(1460)冬から寛正2年7月までの餓死人が9268人、逃亡人が757人に上ると大乗院に注進し、田楽頭役段銭の納入ができないと伝えています。

 度重なる自然災害に加え、戦乱で大凶作に見舞われて飢饉が発生すると、百姓は餓死しするか又は田地を捨てて逃亡・放浪しなければなりませんでした。


主な参考文献
福井県史通史編        福井県
福井県の歴史       印牧邦雄著
日本地名大辞典18福井県   角川書店
福井県大百科事典     福井新聞社