1396(応永3)年 |
興福寺大乗院門跡、坂井郡坪江下郷阿古江内出来島に対する湊津方の違乱を停止 |
1405(応永12)年 |
越前守護代甲斐将教、小守護代に坂井郡河口・坪江荘に対する役夫工米の催促停止を命令 |
1412(応永19)年 |
坂井郡坪江上郷の山林を武曽・深町の被官人が押領したことにつき興福寺大乗院門跡が代官に調査を命じる。 |
1412(応永19)年 |
この年、越前守護代甲斐将教、坂井郡河口荘の興福寺田楽頭段銭徴収を請負う。 |
1414(応永21)年 |
坂井郡河口荘の政所・公文ら年貢などを無沙汰し、落名や荒名を多発させたとし上洛を命じられる。 |
1414(応永21)年 |
坂井郡坪江郷内出来島が阿古江領内であるかどうかにつき興福寺内で相論する。 |
1415(応永22)年 |
坂井郡坪江上郷内郷民、損免を要求する。 |
1418(応永25)年 |
堀江道賢(教実)、坂井郡河口荘の本庄郷満丸名と新郷鴨池の支配権を興福寺福智院栄舜と争う。 |
1422(応永29)年 |
斯波義淳、坂井郡河口荘細呂宜郷下方の長慶寺地蔵院を祈祷所とし、長慶寺の名田、山林などを安堵する。 |
1439(永享11)年 |
将軍足利義政、坂井郡河口荘兵庫郷を守護使不入の地とする。 |
1439(永享11)年 |
この年、越前守護代甲斐将久、坂井郡河口荘の名を落とし取って家臣に知行させる。 |
1447(文安4)年 |
坂井郡河口荘大口郷政所の朝倉(阿波賀)但馬入道と郷民、段別50文の役銭賦課に端を発して相論する。 |
1449(宝徳1)年 |
坂井郡河口荘大口郷政所の阿波賀氏の後任に朝倉氏が充てられる。 |
1451(宝徳3)年 |
越前守護代甲斐常治、坂井郡河口荘・坪江郷への非分課役を停止し、八朔・歳暮人夫挑発を止める。
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1453(享徳2)年 |
越前守護斯波義教、坂井郡細呂宜郷の闕所を押妨する。
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1457(長禄1)年 |
興福寺、越前国人堀江民部による建仁寺末、坂井郡長慶寺領への介入を停止するよう小守護代に依頼する。 |
1458(長禄2)年 |
合戦により興福寺領坂井郡河口荘の諸郷の多くが「あき郷」となり、興福寺大乗院は河口荘の直務を幕府へ願い出る。 |
1459(長禄3)年 |
堀江利真が土一揆を起こして坂井郡豊原寺を攻撃する用意をし、河口・坪江の荘民も同意したと報告がなされる。坂井郡長崎に堀江氏の軍勢が陣を取り、同郡河口荘に年貢などを催促する |
1459(長禄3)年 |
朝倉孝景、坂井郡河口荘山荒居郷の代官職に補任される。 |
1460(寛正1)年 |
朝倉孝景、籾井信久の所領河口荘本庄郷などの諸職を押妨することを幕府より停止される。 |
1461(寛正2)年 |
坂井郡河口荘百姓、長禄4年冬から寛正2年7月までの餓死人が9268人、逃亡人757人に達するとし、興福寺田楽頭役段銭の納入に抵抗する。 |
1461(寛正2)年 |
朝倉孝景、興福寺領坂井郡河口・坪江荘の田楽段銭使に任じられる。 |
1461(寛正2)年 |
朝倉慈視院光玖、坂井郡河口・坪江荘の田楽段銭徴収のため朝倉孝景の代官として京都から越前に下る。 |
1461(寛正2)年 |
坂井郡河口荘の荘民、田楽段銭使に朝倉孝景が任じられることに反対する。 |
1465(寛正6)年 |
坂井郡坪江郷代官承棟、請負年貢が集まらないことを理由に代官職を放棄する。 |
1466(文正1)年 |
坂井郡河口荘細呂宜郷の先代官堀江民部、実力で郷に入部し、以後この地を支配する。 |