坂井平野と用水路(2)





(7)平安時代
(西暦794~1185年)

 9世紀になると農民(公民)の没落と抵抗が激しくなり、一段と律令班田制は崩壊していきます。

 一方、地方豪族や富農は一族、奴婢、逃亡農民を吸収し、その労働力を使って開墾地を広げていました。

 皇族、貴族、寺社なども地方豪族の協力を得て、この時期に一挙に荘園
1を拡大させます。

 9世紀末、国は土地を実際に耕作している農民又は耕作能力を持った豪族、農民に、その土地の耕作を請け負わせ、農民から一定の租税及び労役を課すようになりました。

 天平勝宝元年
(749)4月1日の詔で丹生、大野、坂井郡に施入された興福寺領の田地601町余に関し、

 それ以前の公田の地は、たとえ興福寺領の四至(区域)内にあっても公田とするという元慶5年
(881)の記録があります。

 これをみると奈良時代に九頭竜川流域の坂井平野に、すでに興福寺領の田地があったことになりますが、それがどこにあったのかは分かりません。

 ひょっとすると後に成立する河口荘と重なるかもしれませんし、別の地域にあったかもしれません。

 10世紀になると多くの荘園領主は荘園の土地及び農民に対する租税を免除される権利(不輸権)を得て収入を増やしていきます。

 地方豪族の中には国司の干渉を避けるために、土地を貴族たちに寄進し、荘園に役人を

立ち入らせない権利(不入権)を得て、自分は荘官として、従来以上の権利を確保しようとする者が多数現れました。

 11世紀前期~中期、国は国内税率を一律に固定する公田官物率法
2を導入し、小規模な名田に並行し、

広く領域的な別名が公認され、一国単位で一律に課税する一国平均役が成立します。

 こうして11世紀後期から中世へと移行し、東大寺領荘園など古代の初期荘園は平安中期までに消滅していきます。

 一方、平安末期から鎌倉期にかけて中世的な荘園・国衙領
3が形成され、越前は京都から近いため貴族の収入源として開発され、多くの公家領荘園ができました。

 その代表的な大荘園が興福寺兼春日社領の河口・坪江荘であり、九頭竜川下流域とその支流竹田川沿いの肥沃な平野の中心にできました。

1:荘園
 律令制の土地制度が崩れ始めると各地に私的な所有地である荘園が成立したが、その所有者が中央の貴族、寺社である場合、

 その所有地に地名を冠して何々荘と呼ばれた。8世紀頃から始まり、16世紀の太閤検地で廃止された。

2:公田官物率法
 平安時代中期に公田に対する官物賦課率を定めた規定(率法)。令制国ごとに太政官府又は宣旨によって段単位で定められていた。

 律令制が衰退した平安時代中期以後、従来の税制は崩壊して、本来は人頭税であった庸、調、出挙 が租と同じように地税化していった。これらの地税をまとめて官物と称した。

3:国衙領
 古代末期~中世を通じて国家が直接的に支配した地域。国司が常住する政庁を中心に、その権力が所務権、進止権ともに完全に及ぶ所が基本的な国衙領である。

 広い意味の国衙領の支配は名(みょう)、在家(ざいけ)を通じて国役を徴収することでなされた。




ア) 平安後期の荘園と武士団の組織

a 社会不安の深刻化と武士団の出現

 村落の生産者である農民を実質的に支配していた田堵
1・名主と呼ばれた中小地主層や私営田領主層は武士団を組織します。

b 荘園の村々と武士団の農民支配

 私営田領主の成長と班田農民層の階層分化による小地主層としての田堵・名主層は、その所有を強化するため中央権力との結びつきを持とうとします。

 それが寄進地系荘園の展開で、権門勢家・社寺に私営田を寄進し荘園として不輸不入
2の特権を確保しようとしました。

c 農業技術の発展

 田堵・名主層は生産手段として耕地や鍬、鎌といった鉄製農具を所有し、大名田堵は馬把
(まぐわ)や犂(からすき)を所有し牛耕や馬耕が始まりました。

 農業技術の発展は農業生産力を高め、その結果、村落の手工業生産を増大させ、市の発展や田舎わたらひ
3の商人が活発化します。


1:田堵
 平安時代、荘園、国衙領の田地経営を行った有力百姓層。耕作は国司や荘園領主が1年ごとに荘田や公田を田堵に割当て契約によって行われた。田堵に土地の所有権はなかった。

2:不輸不入
 不輸租、不入権のこと、つまり租を出さない、国司を入れない特権荘園。荘園を完全私有地化した。

3:田舎わたらひの商人
 地方(田舎)で生業を立てる商人のこと。



イ)九頭竜川下流域にできた河口荘

 康和2年(1100)白河法皇は春日社の神前に一切経転読を始めた際、僧侶に対する給付財源として当荘を春日社へ寄進したといわれます。

 しかし、これ以前に、当地には藤原利仁の流れをくむ豪族斎藤氏がいて、彼らが大和の春日明神を祖神として春日社を勧請し、当地の開発を進めていたと考えられます。

 春日社と在地の藤原系諸氏との関係が結ばれるなかで荘園化が進められたと推定されるのです。

 天永元年(1110)河口荘本庄郷の式内社井口神社の旧地に春日神が勧請されたのをはじめ十郷用水の諸郷への分水口地点には春日神が勧請され分祀されました。

 当荘の検校(領家職に相当する職)には興福寺大乗院門跡
1が代々これを継ぎ、当荘を領掌することになりました。

 しかし興福寺内では、この領有をめぐり鎌倉初期から大乗院と東北院が争い、結局、弘安8年(1285)当荘は大乗院門跡の相伝所領であることが認められました。


1 興福寺大乗院門跡
 興福寺は和銅3年(710)建立、南都六宗の一つ、法相宗の大本山寺院。養老4年(720)官寺となる。藤原氏の氏寺、藤原氏の祖、藤原鎌足とその子息、藤原不比等ゆかりの寺。

 藤原氏の氏社春日社と合体し古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。大乗院門跡は藤原師実の子息、尋範が門主となり門跡寺院となった。九条流(九条家、二条家、一条家)の子弟が門主を務めるところであった。


)河口荘内の各郷と支配

 弘安10年(1287)荘内各郷の田数注進記録に、当荘は本庄郷
1、新郷2、王見郷3、兵庫郷4、大口郷5、関郷6、溝江郷7、細呂宜郷8、荒居郷9、新庄郷10の計10郷から成り、それぞれの田数所当が計算されています。

 また別納、別名として得丸、藤沢、春吉、太郎丸、武沢、岩永、福光、荒涼田などの所領の所在も示されています。

 荘園領主である興福寺の検校所に河口荘給主奉行2人が置かれ、納所に供僧100人が実務に当たり、供米、衣服料などが支給されました。

 また、検校所から定使が越前に下され、荘内各郷に別当、専当、公文、徴士などの下司
11が置かれました。

 室町時代になると各郷の政所
12も見え、公文以下の荘官と合わせて職人と総称されました。

 政所、公文には在地有力武士や守護代などの武士が補任され、別当、専当などには在地寺院や地下侍の例も見られます。

 戦国時代は朝倉氏の領国支配下になり、朝倉氏一族やその家臣が各郷の請負代官に任じられました。


1:本庄郷
 当郷は竹田川南岸の馬場から西今市付近までに広がる細長い地域と考えられる。現あわら町中番の春日神社は河口荘の総社といわれ、

 その付近には公文堀江氏の館跡の所在が確認されている。河口荘全体の中心という意味に由来する郷名と思われる。

2:新郷
 史料上、郷名は見えるが、河口荘内のどのあたりだったかは分からない。

3:王見郷
 竹田川と兵庫川に囲まれた平野部の中央に位置した現坂井町大味あたりと考えられる。

4:兵庫郷
 兵庫川中流域、現春江町井向から坂井町上兵庫、下兵庫、清永、島の一帯に比定、兵庫川沿いの東西に長い区域にあたると考えられる。

5:大口郷
 現在の坂井町東、西、蔵垣内、五本の一帯が考えられる。

6:関郷
 現坂井町上関、島田、下関、金津町河原井手一帯が考えられる。

7:溝江郷
 古代から中世は現金津町南金津から清間付近に至る一帯と考えられる。中世後期には金津の南半分が当郷の中に含まれ、判然とはしないが現金津町南金津、稲越一帯に比定される。

8:細呂宜郷
 北潟湖東岸に位置し観音川に沿う現金津町西部に南北に連なる広い地域であった。

9:荒居郷
 兵庫川中流右岸に位置、現坂井町東荒井を中心にあわら町轟木付近までの地域だったと考えられる。

10:新庄郷
 兵庫川中流の右岸に位置、郷内の村々は未詳だが、郷域は慶長国絵図の記載から江戸期の上新庄村、下新庄村、若宮村一帯が推定される。

11:下司
 中世、荘園や公領において現地で実務をとっていた下級職員のこと。惣公文(そうくもん)とも呼ばれた。

12:政所
 1)平安中期以降、権勢家などで所領の事務を中心に一切の庶務を取り扱った家政機関、所領にも荘官の政所があった。
 2)大寺社において所管の事務や所領経営など雑務を執行した機関。


エ)十郷用水の確保

 中世の農業生産は気象・地形など自然条件の影響を強く受ける不安定なものでしたが、特に欠かせないのが用水の確保でした。

 この頃、多くの荘園は水が得やすい小河川近くの山間部谷あいなどに分布し、用水は比較的小規模なものでした。

 ところが広大な坂井平野の九頭竜川下流域に広がる河口荘の田地を潤すには、それ相応の水量ある用水の確保が不可欠でした。

 そこで計画されたのが、九頭竜川中流の吉田郡鳴鹿に井堰を設けて取水し、全長約28㎞に及ぶ大規模な用水を開削・整備することでした。

 これが有名な十郷用水で、河口荘だけでなく吉田郡河合荘、坂井郡春近郷などに分水し、

 坂井平野をほぼ北西に向かって貫流、河口荘十郷のうち細呂宜郷を除く九郷を潤す越前最大の用水となりました。

 河口荘の本所興福寺大乗院が「神徳に依り鳴鹿河(十郷用水)出来、一荘満作干損無し」と荘園存立に欠くことができない重要な用水と記しています。

 天永元年(1110)に河口荘本庄郷の式内社井口神社の田地に春日神が勧請されたのをはじめ、十郷用水の諸郷への分水口に春日神が勧請、分祀されました。

 河口荘十郷に祀られた十社は諸郷の鎮守社と位置づけられ、また十郷用水をめぐる諸伝承からも知られるように

 興福寺は河口荘支配の基礎となる十郷用水の支配権が春日社とそれを支配する興福寺に帰属することを主張しています。

 荘園領主は荘園支配の基礎となる用水の造成、維持、管理のため、また他領の田地から用水を通す際の堀敷料とするため

 除田のうちに一定の「井料田」を設定したり、年貢から井料米を控除し、勧農経費として惣荘に下向したりしました。

 弘安12年(1287)河口荘の場合、河口荘十郷全体の都合米3082石余のうち「御庄下用米」の一部として井料米56石5斗を荘に留保しています。

 これは年貢を収取する荘園領主が用水の維持、管理を重視していたことを示すものです。


オ)坂井平野におけるその他の荘園

 河口荘以外で平安後期以降から鎌倉期にできた主な荘園をみると次のようなものがあります。

a)榎富荘
(えとみのしょう)

 寿永3年(1184)頃まで後白河院領でしたが、同年8月「越前国榎富荘」など5か所が保元の乱で敗れた

 崇徳院と藤原頼長の霊を崇めるため京都春日河原に建立された粟田宮に寄進されました。

 その後、鎌倉初期には後白河院の娘の殷富門院領となり、榎富荘からの収入は現地で1000石あまりといわれた大荘園でした。

 建長8年(1256)9月の崇徳院御影堂目録に粟田宮社領として当荘があり、下って応永33年(1426)7月の粟田宮神領目録にも当荘が記され、嘉吉元年(1441)11月当荘が同宮に安堵されています。

 しかし、南北朝期以降は実質、榎富上荘、榎富中荘、榎富下荘と三分割されたようです。

 現在の春江町江留上、江留中、江留下一帯の細長い地域が当荘に比定されています



b)河北荘(河合荘)

 建久元年(1190)6月の後白河院庁下文には、当荘は嘉応3年(1171)二品親王家領として立券され、文治3年(1187)国司庁宣で承認されたとあります。

 このとき現作田のうち60町は民部省坪付に基づき品田
1として定められ、そのほかの田代、畠代、荒野山沢も二品親王家領として認められました。

 史料によれば当荘は東は栃原(現永平寺町栃原)、西は清谷三原堺(?)、南は河流中(九頭竜川)、

 北は鷲塚北(福井市河合鷲塚)を四至
2として牓示3を打ち、同年、勅事、院事、臨時国役を免除され荘園として確立しました。

 次いで建久3年(1192)、この地は門跡守覚より仁和寺北院薬師堂領として寄進され仁和寺領となります。

 南北朝期には内裏料所として見え、仁和寺は領家の地位にありましたが、「太平記」によると暦応元年(1338)閏7月、

 この河合荘を拠点にして斯波高経の足羽城を攻撃しようとした新田義貞が戦死しました。

 これにより仁和寺の支配権は勲功をあげた斯波高経に与えられますが、貞治5年(1366)斯波氏が幕府に背いて越前に下向したため、

 翌年(1367)正月20日後光厳天皇綸旨によって斯波氏の持っていた権限は醍醐寺三宝院光済に与えられました。

 これに対し仁和寺は本主権を主張しましたが、将軍足利義詮は仁和寺の主張を退けています。

 その後、応安4年(1371)3月、後光厳天皇が退位したとき。荘の支配、相続権をめぐって紛糾があったようで、

 同年(1371)6月に醍醐寺三宝院の知行分は後光厳上皇領河北荘半分とされ、残りの半分は仁和寺相応院のものとなったようです。

1 品田(ほんでん)
 親王、内親王に品(ほん)によって朝廷から与えられた田地、品位田(ほんいでん)
 注:品(ほん):親王、内親王に与えられた位階。一品から四品まであり。無位の者は無品(むほん)と呼ばれた。品位(ほんい)

2 四至(しいし、しし)
 古代、中世における所領、土地の東西南北の境界を指して呼んだ呼称。転じて境界そのものを指すようになった。

3 牓示
 荘園の区域を示すため四方に置かれた標識。12世紀には立券荘号とともに設置され、官吏、国司、領家使、荘官が立会い後訟のために四至示図(荘園絵図)が作られた。




c)坂北荘

 建久2年(1191)10月の長講堂所領注文に「坂北荘」とあり、それ以前は後白河院領だったのが長講堂領に編成されたと考えられています。

 その後宣陽門院、後深草院に伝えられ、永仁3年(1295)3月正式に藤原相子(後深草院妃)に譲られました。

 当荘は本家年貢呉綿1万両と定められた大荘園で院御倉と院庁に納められ、長講堂などの仏事や院庁官人の給与に宛てられたようです。

 荘内には坪江郷
1、長畝郷2、但馬郷3、舟寄郷4、高椋郷5、小島郷6などありましたが、

 嘉元3年(1305)の年貢課役注進状に奈良春日社三十講掛所になった坪江郷分の呉綿8212両を除くとあり、この頃、坪江郷が坂北荘から除かれたようです。

 このように荘域は広大で前記の各郷に別納が付属し、かなり複雑な様相だったようですが、

 およそ現在の丸岡町南西部を除いた平野部から坂井町宮領、田島にわたる地域に比定されます。


1 坪江郷
 平安期に見える郷名、越前国坂井郡十二郷の一つ。郷域は現在の坂井市丸岡町坪江を中心とし、旧伊井村および金津町を包括した地域に比定される。

 鎌倉期~戦国期には興福寺大乗院領となり、坪江荘ともいわれ、隣の河口荘とあわせて河口坪江荘と称された。大乗院は坪江郷を上郷と下郷に分け、

 それぞれ荘官を置き両郷は、それぞれ多数の所領単位から構成され、その田数や年貢夫役などが決めれられていた。

 坪江郷内には金津、三国湊などの交通上の要地があり、金津は北陸道沿いで河口坪江荘支配の拠点となり、三国湊は戦国期府中までの水運もあり、

 越前の物資輸送の結節点として栄えた。当郷は現坂井市丸岡町、同三国町、あわら市芦原町、同金津町にわたる坂井郡東部、山間部と北部海岸、丘陵部の広い範囲を占めていた。

2:長畝郷
 竹田川が坂井平野に流れ出る扇状地の扇端部左岸に位置する奈良期~平安期に見える郷名、坂井郡十二郷の一つ。

 鎌倉期~戦国期には坂北郡坂北荘のうちにあり、現坂井市丸岡町長畝を中心として同町玄女、坂井市坂井町田島、同町宮領一帯に比定される。

3:但馬郷
 田島川下流域に位置、集落は田島川右岸の自然堤防上にある室町期から見える地名、坂北郡坂北荘のうち。近世の田島村、田島窪村に比定される。

4:舟寄郷
 坂井平野の東部、田島川左岸に位置、平安期から見える村名、坂井郡のうち。承安3年(1173)本勅旨田30町に加えて加納田14町を舟寄村に集め、

 所領の一円化をはかり八条院の荘園としたとある。現在の坂井市丸岡町舟寄に比定され、一本田の西南に位置する。
 室町期~戦国期には坂北郡坂北荘内の郷として見え、応永7年(1400)に室町将軍家から入江見怡に安堵されている。

 下って天正15年(1587)に舟寄郷町村分1369石余が堀秀政から堀源介に宛行われている。なお当地には朝倉家家臣黒坂備中守の舟寄館があった。

5:高椋郷
 奈良期~平安期に見える郷名、坂井郡十二郷の一つ、郷域は旧高椋(たかぼこ)村をその遺称地とすれば、現在の坂井市丸岡町東部および南部付近に比定される。

 南北朝期~戦国期には坂北郡坂北荘のうちにあり、長講堂領坂北荘の一郷であるが、その知行は上級の公卿らに与えられていた。

 当郷はかなり大きな所領だったと思われ、郷域は坂井市丸岡町儀間の一部から同町高田、板倉、筑後清水、四ッ柳、牛ヶ島、猪爪など一帯に比定される。

6:小島郷
 室町期~戦国期に見える郷名、坂北郡坂北荘のうち、応永18年(1411)足利義持御判御教書に郷名が見え、入江見怡の一円管領が認められている。

 下って天正15年(1587)には堀秀政から「小島郷八口村」622石ほかが堀源介に加増されている。現坂井市丸岡町八ッ口、寅国、儀間一帯に比定される。



d)小森保

 坂井平野の西部、九頭竜川寄りに位置した保
1ですが、建暦元年(1211)9月8日条の「明月記」に左大臣藤原良輔から藤原定家に宛行われたとあります。

 当保は越前気比神宮領でしたが藤原家に寄進され、気比神宮が政所になって領家は左大臣藤原良輔になったようです。

 下って戦国期には足利義輝書状案に「典薬頭知行 越州小森保公用事」とあります。現在の坂井市春江町上小森、下小森付近に比定されます。


1 保(ほ)
 平安末期から中世を通じての地方行政単位。公領の荒廃地を有力者に雑役を免じて開発させたことが起こりといわれ、荘、郷、保と並称された。



e)長田保

 建暦2年(1212)9月の越前気比宮政所作田所当米等注進状に「長田小森保(当国坂井郡内)件保御封米二百十石七斗三升 調庸代米七百五石代被便補保也」とあり、小森保とともに気比神宮領でした。

 左大臣(藤原良輔)家遺領目録に「気比社領、越前国長田保 年貢六百四十六石五斗七升七合」とあり、領家は藤原良輔でした。

 建長2年(1250)11月の九条道家初度惣処分状によると良輔の死後、後家禅尼から最勝金剛院へ寄進され、

 検校僧正慈源が知行し、慈源の死後、東福寺領となすよう定められているが同文書に「長田庄」と記されています。

 現在の坂井市坂井町東長田、春江町西長田付近に比定されます。


f)長崎荘

 弘安3年(1280)9月2日条によれば当荘をめぐって四条家と興福寺光明院が争っています。

 文和元年(1352)6月21日の興福寺別当御教書に「越前国長崎荘雑掌申 武田八郎等押妨間事」とあり、

 当荘が武田八郎に押さえられたので興福寺学侶は評定して別当を通じて幕府に善処を申し入れています。

 寛正2年(1461)晦日条によれば「光明院領越前国長崎荘」の年貢は甲斐常治が請負っていたが、

 彼の死後借物のかたに押領しようとする者がいるとして、大乗院尋尊は朝倉孝景に通知しています。

 文明11年(1479)12月13日条には光明院領であるが、四条家領とも見え、その後、延徳2年(1490)12月両者の訴訟となり、

 同25日条によれば光明院は四条家に毎年本役20貫文を沙汰することになりました。

 長禄2年(1458)12月の称念寺幷光明院等寺領惣目録に清真、貞包、是包、守末などの名
1が当荘内に見え称念寺領があったが、このうち貞包名、是包名は「南都皆免」の直属寺領でした。

 なお長崎は北陸街道沿いの要地として長禄~文明年間(1457~1487)の合戦で度々戦陣とされ長崎城も存在しました。


1 名(みょう)
 初めは古代において口分田の受給者の名で呼んでいたのが班田収授法の崩壊後は固定化し、その田地そのものを指すようになったもの。

 その後、中世を通じて農民の土地の保有権を標示するものとして、その農民の名を冠して用いられた。したがって名は人名が起こりであるが、そのまま地名化する場合が多い。荘園と時期を同じくする。



g)磯部荘

 天平神護2年(766)10月の越前国司解(東南院文書)によれば坂井郡子見村の西北6条4大口里、同5神田里に口分田を持つ百姓として「磯部郷戸主」である物部国足、別広島、荒木常道、三国奥山の名が見えます。

 郷域は磯部新保、磯部福庄、磯部島などの地名が残る現在の坂井市丸岡町南部に比定されます。

 磯部荘は、この古代の磯部郷を受け継ぐと思われますが、正安4年(1302)8月作成の永嘉門院(瑞子女王)御使家知申状幷室町院(暉子内親王)御領目録に

 「越前国磯部庄(此内粟田島御別相伝)」と見え、高倉天皇の后で御高倉・後鳥羽院の母である七條院の所領に編成されています。

 別相伝とされた粟田島は、その後応永5年(1372)10月伏見宮栄仁親王の管領するところとなりました。

 応永5年(1372)7月の河合荘雑掌申状案によれば「磯部庄内小太郎堤」という用水路があり、

 河合荘の用水であったが春近郷
1の住人らが、これを切り落として悪行を働いたとあります。

 当荘が河合荘、春近郷の田地の用水の上流にあり、重要な位置にあったことが分かります。

 荘域は現坂井市丸岡町磯部新保、磯部福庄、磯部島などを中心とした地域に比定でき、これに別相伝の粟田島
2が付加されたものでしょう。


1 春近郷
 鎌倉期~南北朝期に春近荘と呼ばれた時期もあったようだが、南北朝期から戦国期には春近郷として見える。応安5年(1372)7月の河合荘雑掌申状案によれば

 河合荘内貞正名堤を春近郷内と称して千秋駿河左近将監代官が違乱したり、春近郷から多勢で河合荘に打ち入ったり、磯部荘内小太郎堤を切り落としたと訴えられており河合荘と用水争論を起こしている。

「名蹟考」は春近郷11村として江戸期の高江村、安沢村、田端村、針原村、金剛寺村、松木村、春近本堂村、西太郎丸村、東太郎村、吉田郡二日市村をあげている。現在の春江町針原を中心とする一帯に比定される。 

2 粟田島(あわたじま)
 室町院領磯部荘内の別相伝の所領。康永2年(1343)足利尊氏から三浦貞宗に勲功の賞として宛行われている。本家職は応永5年(1398)10月直仁親王から荻原殿(栄仁親王)に還付された。

 慶長国絵図からは油(油為頭)、二ッ屋、中村(金元)、金屋、楽間、寄長、為安、友末、末広、坪之内(以上丸岡町)、桶爪(松岡町)の11ヵ村に比定される。



主な参考文献
福井県史通史編        福井県
福井県の歴史       印牧邦雄著
日本地名大辞典18福井県   角川書店
福井県大百科事典     福井新聞社