坂井平野と用水路(1)



現在の坂井平野を俯瞰する


1 坂井平野と九頭竜川

 
越前平野の面積は420平方q、高度は20m以下です。福井・岐阜県境の油坂峠に源を発した九頭竜川は越前平野に出ると、

 緩やかな扇状地をつくって西流、南から流れてきた日野川を合わせて北流し、三国港で日本海に注いでいます。

 本流の流域だけでも県の面積の半分を占めていますから、越前平野は"母なる九頭竜川"によって育まれたといえます。

 水田面積は2万ヘクタールで県全米収穫高の半ばを占める穀倉地帯です。この穀倉地帯がどのように形成されてきたのでしょうか。

 越前平野のうち坂井平野にスポットを当て、人々の足跡と農業用水の歴史について学んでみたいと思います。


2 坂井平野の歴史

(1) 黎明期

 坂井平野は第三紀
(200万年〜7000万年前)山地が沈降作用によって内湾化し、それが主に九頭竜川の流送土砂礫で埋め立てられた沖積平野です。

(2)縄文時代

 この頃には三里浜砂丘帯は形成されており、坂井平野は半淡半塩湖でした。縄文中期も九頭竜川下流部の越前平野
(坂井平野)は入江や湖沼の多い地帯でした。

 あわら市舟津や井江葭両貝塚から出土した貝殻が、それを物語っています。この時期、河川、湖のほとりや海岸段丘に縄文人の集落が形成され、狩猟、採集生活を営んでいました。

 縄文人は九頭竜川、足羽川などの上流や平野周縁の丘陵端、海岸近くの台地端などに居住し、平野の大部分は非居住地域でした。

 縄文時代晩期から九頭竜川扇状地の形成が進み、低地への進出がみられるようになります。



(3)弥生時代


 この頃、九頭竜川、日野川、足羽川の流砂礫の堆積で越前平野は急速に沖積化が進み、ほぼ現在の景観となり平野の一部低湿地で農耕が始まりました。

 米ヶ脇、陣ヶ岡
(坂井市三国町)、井向(坂井市春江町)などで発見された銅鐸1は、それを物語っています。

 しかし、水利技術がなかったため古代の稲作は、川から肥沃な土が運ばれた低湿地帯に限られていました。

 やがて、先進的な稲作技術が大陸から伝えられ、弥生時代後期
(2〜3世紀)に鉄が出現すると稲作技術は飛躍的に発展します。

 木製の鍬の先に鉄を覆うだけで、土堀り、整地、水路掘削など灌漑技術が飛躍的に向上しました。

 それは低湿地帯だけに稲を植えなくても、鉄製の鍬を使って近くの川から水を引く灌漑技術を身につけ、水田面積は飛躍的に拡大し生産力が向上しました。

 この頃、低平な坂井平野は竹田川沿いの伊井、清間、番田、田島川沿いの長屋、河和田、十郷川沿いの大味中、九頭竜川沿いの折戸、兵庫川沿いの井向など河川の自然堤防上に弥生人の居住地が立地していました。

 彼らは河川の堆積作用によって出来た微高地を選び、その下の低湿地で稲田を営みました。

 やがて、水田集落はムラ人全員で共同作業をするようになり、それが生産力を向上させ、人口の増加、富の蓄積をもたらします。

 富の蓄積は権力者を出現させ、富や農地をめぐってムラムラで争いが発生しました。やがて弱小なムラは統合され、次第にクニという地域が成立、古墳時代を迎えます。

1:銅鐸
 弥生時代の青銅器で、畿内を中心として本州・四国・九州に分布しており、福井県は石川県の一例とともに銅鐸分布の北限にあたる。

 用途は楽器であるとも祭器であるともいわれているが、おそらく水稲耕作にともなって初めて新しい祭祀の儀器として用いられたのであろう




(4)古墳時代


 西紀300年以降〜若狭や越前に大陸から多くの渡来人がやってきました。この頃から古墳が造られ始めます。

 4〜5世紀、たたら製鉄
1の技術を持った多くの渡来人が土着したクニが勢力を拡大させ、その一つが越ノ国こと越前(当時はミクニ)でした。

 それを物語っているのが越前に4千基以上ある古墳であり、前期古墳が目立っています。

 当時の治水灌漑は、政治力と財力を兼備した国造級族長層によって、初めて可能な工事であり、彼らはその支配・指導を通して強力に農民を支配下におき水田開発を推進しました。

 これまで多くの農具は木製を使っていましたが、古墳時代になると鍬先や鋤先に鉄が装着されるようになり、U字形の鍬や鋤が開墾に威力を発揮します。

 6世紀以後、農業や手工業が発展して生産力があがり、民衆の生活も向上してくると、それを背景に群集墳が飛躍的に増加します。


1:たたら製鉄
 製鉄反応に必要な空気を送り込む送風装置のフイゴがタタラと呼ばれたので付けられた名称。

 粘土で作った箱型の低い炉に原料の砂鉄,岩鉄と還元のための木炭を入れて風を送り鉄を取り出す古来からの製鉄技術、5世紀前後に朝鮮半島から伝来したという。




(5)継体大王の出現と中央進出の背景

 継体大王は天皇即位前50余年の長い間、越前にあって九頭竜、日野、足羽三大川を修理し、水門口を三国に開いたとか、

 農業殖産を奨励したなどの伝承があり、人口に膾炙しています。継体大王進出の背景には次の四つの要素が考えられています。

1)コメを主体とする農業の発展


 コメ生産の大部分は治水と関連し、5世紀以降の九頭竜川水系の農業の発展を反映しています。

 これは元来肥沃な越前平野の生産力が灌漑技術の革新によって飛躍的に増大したことです
。、

2)塩の生産と集積の確保

 角鹿
(敦賀)の海の塩は、敦賀湾だけでなく敦賀に集積される越前・若狭一帯の塩を指しています。

 ここは古墳時代に土器製塩の盛んな地域の一つであり、そこに勢威を張る継体大王の実力は、塩輸送ルートを押さえるのに十分でした。


3) 鉄と馬の確保

 あわら市(坂井郡旧金津町)などの鉄生産遺跡の中に5世紀中頃に遡るものも含まれており、たたら製鉄の技術力で鉄生産が行われました。

 馬は継体大王の中央進出に重要な情報をもたらした河内馬飼首荒籠
(かわちのうまかいのおびとあらこ)は馬の飼育に携わっていた河内の豪族です。

 継体大王は、この人と早くから通交していたので興起以前に馬が越前に入っていたと考えられます。

4) 海外との交流

 越前は古くから敦賀と三国という良港を持っており、越前が朝鮮半島南部と深い交流があったことは明白です。

 以上四つの要素を背景に継体大王は声望を高め、各地の豪族と婚姻を結びました。畿内東辺の諸豪族との婚姻で地方豪族連合を結び、ヤマト勢力に圧力を加えていたと考えられます。



(6)奈良時代
(西紀710年〜794年)


ア)東大寺領荘園の成立


 越前国は養老7年
(723)畿内諸国並みに調(農民負担の1つ)の銭納が許され、土地の開発度からみて条里制の発達が畿内諸国に比べ劣っていませんでした

 平城京近くに住む班田農民が越前へ逃亡してくるのは和銅年間
(708〜714)に集中していますが、天平5年(733)にも越前へ6グループ32名が逃亡しています。

 天平勝宝元年
(749)東大寺は4,000町の墾田枠を確保し、北陸各地を中心に大規模な占地を行い、寄進を受け、買取りを進め大々的な荘園経営に乗り出します。

 越前の坂井郡、足羽郡、丹生郡の各地に東大寺領の開田占有が進められました。その多くが当時開発途上で有望な原野の多かった坂井郡、足羽郡に設定され、

 これら2郡に墾田された荘園の収穫は、越前平野を流れる九頭竜川などを利用して河口の三国湊を経由し海路敦賀津に送られ、

 そこから愛発関を越えて近江の琵琶湖北岸の塩津、海津に至り、さらに琵琶湖、宇治川、木津川の水運を利用して平城京へ運ばれました。

 こうして九頭竜川以北の坂井郡に鯖田国富荘
1、小榛荘2、田宮荘3、子見荘4、桑原荘5、溝江荘6が、

 足羽郡には糞置荘
7、栗川荘8、鴨野荘9、道守荘10などが東大寺領荘園として成立しました。

 この時代、農民に口分田
11が支給されましたが、越前国に大規模な荘園があり、賃祖(他人の土地を借りて耕作)を行う農民も多数いました。

 賃祖は1年契約だったので、毎年春になると農民は先を競って播種し田地を借りようとしました。

 この頃、農業用水が十分得られない荘園に大規模な用水溝が開削され、農民の口分田や墾田の入り混じった荘園は東大寺領として一円化されました。

 しかし、その後東大寺領荘園がどうなっていったのか明らかでありません。衰退原因は種々あるでしょうが、

 開田から185年後の天暦5年
(951)足羽郡内の東大寺領荘園は荒廃し有名無実となり、坂井郡も同様、中世の荘園として存続したものはありません。



  


1:鯖田国富荘
 現在の坂井市春江町中筋、寄安、定重と福井市栗森、漆原の地に比定されている。天平宝字元年(757)に坂井郡大領の品治部君広耳が東大寺に寄進した墾田100町の荘園で広耳は寄進後も同荘の経営に携わっていた。

2:小榛荘
 現在の坂井市春江町大針付近の荘園ではないかとされている。

3:田宮荘
 現在の坂井市春江町西長田、藤鷲塚辺りに比定されている。

4:子見荘
 現在の坂井市坂井町西付近に比定されているが、この地は後に興福寺・春日社の荘園河口荘大口郷と一致する。天平神護2年(766)10月9日付の坂井郡子見荘使解には長さ500丈の用水路を掘って五百原堰より引水することなどが記されている。

5:桑原荘
 現在のあわら市(旧金津町)桑原が同荘の中心地だといわれ、坂井郡堀江郷として開墾田32町1反余、未開墾野64町余の計約100町歩があり、新開墾23町の功稲2,300束(町別100束)の開墾費用がかかっている。

 天平宝字元年(757)越前国使等解に2本の溝の新設と1本の溝の修理、24口の樋の増設が申請されており人数1,500人、費用2,100束が見込まれている。同荘は農民との間で、ある程度自由な形をとる賃祖によて運営されていた。

6:溝江荘
 現在のあわら町(旧金津町)谷畠(たんばく)、東善寺が荘内と推定されている。天平神護2年(766)に幅6尺、深さ3尺の溝を615丈にわたって掘る計画を立てた。天暦4年(950)溝江荘の田は133町余であった。

7:糞置荘
 文殊山の北麓、現在の二上・帆谷両町に跨る総面積15町余の比較的小規模な荘園であるが、天平宝字3年(759)と天平神護2年(766)の2枚の現存絵図によって、細かい現地比定と条里復元が可能な貴重な遺跡である。

8:栗川荘
 道守・糞置両荘のほぼ中間、現在のJR北陸本線大土呂駅の北方辺りと考えられている。

9:鴨野荘
 道守荘の北、足羽川を隔てて現在の福井市角折町、下市町付近と考えられている。

10:道守荘
 生江川(現足羽川)と味間川(現日野川)によって北と西とを限られ、各辺約2`の広大な地域(福町周辺)を占めている。これは足羽郡の豪族生江臣東人が東大寺に寄進した墾田100町を基として設定されたものである。

11:口分田
 班田収授法に基づく土地制度で、6歳以上の男、女、良、賎に区別され国から与えられた土地、一生用益、売買禁止であった。



イ)三世一身法と墾田、灌漑設備の造成


 養老7年
(723)に定められた三世一身法の特徴は、墾田の所有期限と灌漑設備の造成を結びつけた点です。

 すなわち、新たに溝、池などの灌漑設備を造成し開墾した墾田は、その功績を認めて三世
(子・孫・曾孫)に伝えることを許し、

 旧来の溝・池を利用した開墾は、開墾した者一代限りの所有を認めるというものでした。

 これは民間の活力に期待し開墾を奨励したものですが、限定的とはいえ墾田の相続を認め、開墾者の権利を法的に明らかにしたものです。

 一方、国家にしてみれば田租を通じ墾田への規制を強化する狙いがありました。

 その20年後の天平15年
(743)墾田私財法1が定められ三世一身法は廃止、墾田は耕作してる限り没収されなくなりました。

 しかし、無制限に開墾してよいわけではなく、位階
2によってその限度枠が定められていました(ただし、この制限は9世紀初期までには撤廃されていた)。

 この法令によって、各層の開墾への意欲を刺激し、一般農民に至るまで自らの力と財産をつぎ込んで零細ながら開墾が行われました。

 ところが、政治力・財力に勝る階層が最終的には開墾の成果を我が物にする有利な立場にいたことです。

 東大寺領荘園は、その典型であり国家の政治と密接不可分の関係の下で成立しました。


1:墾田私財法
 天平15年(743)に発布された勅(天皇の名による命令)で墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永年私財化を認める法令。奈良時代中期、聖武天皇の時代。

2:位階
 官吏における個人の地位を表す序列等級のこと。国家に対して勲功、功績のあった者に授与される栄典の一つ。大宝律令で正一位から少初位下までの30段階が定められた。



ウ)初期荘園と溝の開削


 水田が荒廃する大きな原因の一つに農民の動向と用水問題がありました。天平宝字元年
(757)の「越前国使等解」に坂井郡桑原荘で1本の溝を拡幅し、新たに2本の溝を通そうとする計画書が残っています。

 元からあった溝の盛土部分が流失し、溝の通水能力が大幅に損なわれ水田が荒れ、農民が賃祖に応じないので溝を拡幅しようというものです。

 水田に水がこなければ稲作はできず、自力で溝が修復できなければ農民は逃亡するか、賃祖に応じませんでした。

 荘園の興廃は用水の確保と賃祖農民の動向に大きく左右され、その上、賃祖は不安定な1年ごとの契約関係でしたから荘園経営の脆弱性が窺われます。

 溝の拡幅・修理や新たな大規模幹線水路の開削には必要性と計画性が求められました。

 大規模な墾田開発は個々の農民・貴族には自ずと限界があり、これを打破するには国家的な開発が必要でした。

 用水路に使われた樋一つをみても分かりますが、樋は既存の溝と交差させるときに、一方を潰してしまわないために必要です。

 桑原荘でも溝の新設に伴い樋が大量に購入されています。溝の新設に伴う開削は、近辺の農民その他の口分田・墾田保有者との間に

 利害が対立する場合があり、樋はその対立を技術的に解消するための一手段でした。

 越前国東大寺領荘園関係史料で樋の規模がわかりますが、いずれの樋も大規模なものです。

 とくに桑原荘で溝開削に使うため新たに購入した樋の中に長大なものが多くあります。

エ)初期荘園と用水をめぐる争い

 道守荘と勅旨御田との間で用水をめぐる争いが生じました。その概要は次のとおりです。

 勅旨御田とは天皇の命令で国衙の正税を財源にして公の水を用い開墾された田のことですが、その運営は国・郡の官人の中から決められた担当者が行いました。

 道守荘近くに設けられた勅旨御田も、足羽郡少領の阿須波臣束麻呂が担当者に任じられ、寒江沼の水を用いて開墾・耕作していました。

 この寒江沼の水は「元来公私共用の水」でしたが、勅旨田ということで独占的に使っていたようです。

 しかし、この水を道守荘でも使ったことで争いが生じ、道守荘の水守であった宇治連知麻呂が召し出され処罰されました。

 その時期は明らかでありませんが、仲麻呂政権
1下であり、その後の政権交代によって、逆に勅旨田を預かっていた阿須波臣束麻呂が詫び状を出しています。

 これは東大寺領荘園をめぐる中央政治の波紋の一つですが、ここでは天然の水資源をめぐって、同じ郡の郡司でも、大領の生江東人と少領の阿須波束麻呂が全く違った立場にあったことです。

 当時の法律である雑令には、天然の水は「公私共利」であり、誰もがその使用を認められ、また誰も独占してはならないという原則が定められていました。

 しかし、法的規制のあいまいな天然の水に直接依存している限り、その利用をめぐる争いは将来も生じる可能性がありました。

 また沼水利用という点で将来、供給の不安定性を克服する必要もあり、そこに溝を造成し河川灌漑を重視する意義がありました。


1:仲麻呂政権
 奈良時代中期、政府内で権力を握った藤原仲麻呂(恵美押勝)政権のこと。仲麻呂は天平宝字3年(759)に子の薩雄が越前国守になると東大寺荘園を圧迫した。

 仲麻呂の乱後、弓削道鏡が政権を握り天平神護2年(766)東大寺領荘園は改正、相替、買得の手段によって荘園が一円化される優遇策を受けた。


主な参考文献
福井県の歴史      印牧邦雄著
日本地名大辞典18福井県  角川書店
福井県史通史編       福井県
福井県大百科事典    福井新聞社