街道の風景

 
美濃街道(2)


大野市〜油坂峠


3美濃街道(大野市〜油坂峠)

◎ 大野から美濃への道

 「越前国名蹟考」には、美濃街道の里程が次のように記されています。しかし、大野から先の道は、いくつかに分かれ複雑でした。

 福井から大野までの道筋は、福井大橋〜2里7町〜東郷〜3里7町〜科瀬
(品ヶ瀬)〜1里15町〜大宮〜2里11町〜大野でした。

 次に大野から国境の油坂峠までは、主として次の3コースが利用されました。

 1つは大野から笹俣越
(西路)の道筋で、大野〜2里〜下笹俣〜1里〜中島〜15町〜黒当戸〜1里半〜本戸〜1里〜

 秋生〜1里30町
(馬足不通)〜伊勢〜2里5町(馬足不通)〜大谷〜2里5町(馬足不通)〜市布〜1里15町〜国境油坂峠のコース。

 1つは大野から若子越
(中路)の道筋で、大野〜3里〜若生子〜4里〜大納〜2里〜影路〜8町〜

 野尻〜10町〜大谷〜9町〜箱瀬〜1里〜下半原〜6町〜上半原〜1里〜市布〜2里〜国境油坂峠のコース。

 もう1つが大野から大川通
(勝原越・東路)の道筋で、大野〜2里〜唯野〜1里〜勝原〜1里〜仏原〜2里〜

 下山〜1里余〜角野〜10町〜鷲〜半里余〜長野〜半里余〜影路、以下影路以遠は若子越のコースと同じ。

 このほか油坂峠以外に蝿帽子峠を越える美濃への道があり、下秋生で笹俣越の道筋から分岐した美濃大河原へ向かう4里の道がありました。

 いずれのコースも谷間を曲折する川沿いの崖ぎわか、山腹などにあって曲がりくねっており、

 対岸へは丸太の一本橋か二つ割にした橋が架けられた程度の狭い道で、所々に「馬足不通」とあって馬の利用が困難なところがありました。



九頭竜峡谷あたり 九頭竜峡谷から和泉村方面



◎ 九頭竜川に沿って(大川通・勝原越・東路)

 江戸期、大野郡内に美濃郡上藩領(岐阜県郡上郡八幡町)が置かれますと、年貢米の輸送で美濃街道は主要な役割を果たしました。

 大野(大野市)や勝山(勝山市)に散在する藩領から郡上八幡まで油坂峠を越えて約14里(56キロ)あるうえ、山の中の道で年貢米は駄送によらなければなりませんでした。

 この国境の油坂峠へ向かうには、前述した九頭竜川に沿って油坂峠へ向かう道のほか、

 途中三坂峠か伊勢峠を越えて油坂峠へ向かう道も美濃街道と呼ばれ利用されました。

 九頭竜川に沿った道は、とくに富田村下唯野(大野市下唯野)から下穴馬村下山(大野郡和泉村下山)までの約3里(12キロ)が川沿いの急崖下で危険な道でした。

 荒島岳の山塊が九頭竜川に抉り取られた峡谷があり、利用される山道のほとんどが急崖を這う歩危でした。

 雨の直後には頭から谷水をかぶり、時には落石の危険に晒されるところもあり、冬は小さな雪崩のないところがないくらいの難所でした。

 しかし、この道には坂峠がなく油坂峠への最短距離であったため、明治以降注目され改修工事が行われることになりました。



大野市内の真名川ダム 大野市中島付近


◎ 三坂峠越(若生子越・中路)

 三坂峠は大野市上若生子と大野郡和泉村上大納の間にある標高約910メートルの峠です。

 穴馬道の1つで若生子越(中路)が通り、大野城下から穴馬谷(大野郡和泉村の旧名)へ行くまでに若生子峠、三坂峠、越戸峠の3峠を越えました。

 江戸期には中竜鉱山の鉛、亜鉛が若生子村(大野市若生子)の精錬所へ運ばれ、鉱山の生活物資もこの峠を越えました。

 しかし、明治期以後、九頭竜川沿いの道路改修が進み、峠下の上若生子は昭和43年真名川ダムにより水没し峠を越える者はなくなりました。




◎ 伊勢峠越(笹俣越・西路)

 伊勢峠は大野市上秋生と大野郡和泉村伊勢との間にある標高約770メートルの峠です。

 現在は笹生川上流と九頭竜湖に入る伊勢川の谷を結ぶ県道大谷秋生大野線が通っています。

 中世から穴馬道
(西路)が通り、郡上藩領の村人は年貢を納めるため、丸太橋を渡り大谷を経由して油坂峠を越えました。

 近世、大野と穴馬
(南山中穴馬谷)との交通路として利用された笹俣越の穴馬道であり、大野から木本領家を経て笹俣峠を越え、中島を経て下秋生で美濃へ向かう蝿帽子峠越えの道と分かれました。

 上秋生・伊勢峠・上伊勢・大谷を経由して、大谷で九頭竜川に沿う穴馬道
(美濃街道)と合流しました。

 現在は笹生・伊勢川の谷とも水没して廃村となり、峠の前後は冬季通行止めになります。



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和泉村伊勢峠付近 和泉村伊勢峠にある石仏


◎ 街道沿いの主な村々

○ 朝日村(大野郡和泉村朝日)

 九頭竜川上流右岸、石徹白川との合流点下流に発達した集落です。当村の熊野神社には、平安末期の作と伝えられる青葉の笛が伝えられています。

 「この村の20町ばかり東の山に悪源太義衡の館跡があり、御所ヶ平といって義衡が落人となって此処に3年間隠れ住みました。

 この時、義衡の身の回りを世話した当村の女との間に子ができ、その子が生まれる前に京へ帰ることになりました。

 義衡は当地を去るにあたり、生まれた子が男子ならば京へ上せるようにと1尺3寸の脇差と横笛を残して去りました。しかし生まれた子は女子でした。

 その後、2種の遺物は、鎮守の八幡宮に奉納されましたが、脇差は紛失し、笛は保管されてきました。

 義衡の子孫は、その後、百姓となって清兵衛と名乗り、当地に住みました。」という伝承です。

 江戸期、はじめ福井藩領でしたが、元禄5年(1692)から美濃郡上藩領になりました。村高7石余(田方5石余、畑方2石)、家数9、人数60、馬7とあります。

 昭和34年(1959)9月の伊勢湾台風で耕地の三分の一が流失し、死者23人の被害を受けました。

 昭和38年(1963)九頭竜川電源開発事業が始まり工事関係者が居住して、人口1,030人と一時的に増加しました。

 昭和47年(1972)国鉄越美北線が当地まで開通し、駅名は長野に完成した九頭竜ダムの人造湖にちなみ九頭竜湖駅と名づけられました。




○ 中島村(大野市中島)

 越美国境の屏風山に発する笹生川と能郷白山に発する雲川が合流して真名川になる合流地点に発達した集落です。

 中島という地名は室町期から見え、戦国期の朝倉時代には朝倉家の家臣中島氏が当地を支配していました。

 当地の春日神社寝鹿の台座裏銘に、永禄元年(1558)5月吉日春日大明神願主として中島中務丞景智とあります。

 寛永元年(1624)から大野藩領となり、村高12石すべて畑方で、文政6年(1823)高持29、水呑50、人数439とあります。

 大庄屋は若山秋俊家で西谷9ヵ村と穴馬谷の上大納村、下大納村、持穴村、箱ヶ瀬村を支配しました。




○ 大谷村(大野郡和泉村大谷)

 九頭竜川上流域に発達した集落で、江戸期には穴間大谷村とあり、はじめ福井藩領で元禄5年(1692)からは美濃郡上藩領になりました。

 元禄3年(1690)家数22、人数135、村高10石余とあり、当村の九頭竜川には一本橋が架かっていて穴馬道(美濃街道)の要所でした。

 その架け替えの用金は、いつも藩から支給されていました。文政13年(1830)には千両余、人足170人余で普請が行われています。

 昭和38年(1963)から始まった九頭竜川電源開発事業で住民全員が離村し、現在は旧村落の上に

 新しい国道158号が完成して大谷橋が架かっており、近くにふるさとの碑が建てられています。


和泉村大谷ふるさとの碑 和泉村長野ダム

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○ 市布村(大野郡和泉村東市布)

 
越前国の最東端、九頭竜川の最上流域にあった村で、越美国境、油坂峠の西麓に位置しておりました。

 はじめ福井藩領、貞享3年(1686)幕府領、元禄5年(1692)から美濃郡上藩領になりました。

 宝暦9年(1759)の諸上納明細記には家数14、人数95とあり、当村は浄土真宗門徒で穴馬八ヶ同行に与し、道場がありました。

 もう少し時代を遡りますと戦国期には[一野]という地名であり、明応7年(1498)本願寺実如が市布の法善に与えた方便法身尊像に[大野郡穴馬一野]とあります。

 文禄5年(1595)野津俣長勝寺への帰参を誓った穴馬門徒の連署状に[市野]とあり、信仰心の厚い浄土真宗の村であったことが推測されます。

 明治17年(1885)大野郡内に同名の市布村があったことから東市布村に改称しました。

 明治22年(1891)県境の油坂峠に隧道が完成し、昭和16年(1941)には油坂トンネルも開通して交通の便が良くなりました。

 昭和38年(1963)から九頭竜川電源開発事業が始まり、同43年(1968)九頭竜ダムが完成すると

 地内は陸の孤島となり、住民は昭和41年(1966)秋までに全員が岐阜、愛知県他に移住し無住地となりました。



油坂トンネル 油坂峠頂上付近


◎ 油坂峠

 大野郡和泉村と郡上郡白鳥町の間にあり、越前と美濃を結ぶ要所に位置した峠です。

 峠道は、江戸時代の道、明治以降昭和までの道、現在の道と大きく三つあります。

 江戸時代は、和泉村側の油坂トンネル付近から斜面を登り、峠の頂上から岐阜県側の急勾配の斜面を油坂スキー場下へと下っていきました。

 明治22年(1889)に峠の中腹に油坂トンネルが開通し、山頂付近の険しい箇所を通らずに済むようになり、

 昭和14年(1939)にはトラックが通行できるよう改修され、近年まで利用されました。

 昭和61年(1986)11月、中部縦貫自動車道建設に伴い、油坂トンネルより標高が約100メートル低い

 地点に新しいトンネルが開通し、郡上郡白鳥町はじめ中京方面への時間が短縮されました。




◎ 油坂峠の歴史


○ 室町時代


 
『太平記』によると、延元3年(1338)7月、南北朝動乱の余波を受けた戦いが越前国で起こりました。

 足利幕府は、越前の南朝方新田義貞を討つため東海の諸将を越前国へ差し向け、なかでも美濃国の守護土岐弾正少弼頼遠は、

 搦め手の大将として美濃・尾張の軍勢を率いて郡上から油坂峠を越え、穴馬を通って越前大野へと進撃し、新田方の脇屋義助を攻めました。




○ 戦国時代

 天文9年(1540)8月、越前守護朝倉氏は美濃郡上の東氏の篠脇城を攻撃しましたが、東氏側の反撃に遭って、油坂峠を越えて逃げ帰りました。

 朝倉勢は翌年再び郡上に侵入しましたが、東氏勢に油坂峠の東麓にある向小駄良で退けられました。

 また、天正3年(1575)織田信長の越前一向一揆討伐で、郡上遠藤氏は油坂峠を守備した一揆軍を撃ち、

 このとき流れた血潮で道が滑って歩けなかったため[油坂]という名がついたという話も伝えられています。

 このように越前、美濃の武将が油坂峠を越えて戦をし、この峠道は越前側、美濃側にとって重要な峠でした。




○ 江戸時代

 近世、この峠道は大名や役人の通行、物資の輸送があり、とくに元禄5年(1692)から郡上藩が越前69ヶ村を領有すると、

 峠は年貢米や諸物資の輸送、若猪野代官所との連絡などのため一層重要になりました。

 こうして大野から穴馬の谷筋を通って美濃郡上、飛騨高山に至る美濃街道は、政治的、軍事的、経済的に

 きわめて重要な交通路で、幕藩領主は道路の維持に努めるとともに、物資などを運ぶ人達の確保に力を入れました。

 このため谷筋の村々から必要に応じて人足を徴収しました。人足には駄賃が払われましたが、農作業に影響を与えるため農民には苦しみの種であったようです。



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主な参考文献

角川日本地名大辞典18福井県 角川書店
和泉村史           和泉村
越前/若狭歴史街道       上杉喜寿著


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