1 ツヌガ国から敦賀郡へ
「敦賀」、今ではこう書いて「つるが」と読んでいますが、古くはツヌガと読んでいました。
「敦賀」になったのは奈良時代以降で、それ以前は「角鹿」という漢字をあてていました。
この「ツヌガ」の地名の起こりについて「日本書紀」に説話があります。
それは崇神天皇の時代に額に角のある人が、船で越国の笥飯(けい)浦に来着しました。
そこで角鹿と呼ぶようになったというものです。笥飯浦は敦賀市内にある気比神宮のあたりの海岸です。
このように敦賀には、古来から朝鮮半島南部にあった加羅や新羅から多くの人が渡来し、
これらの渡来人がもとになり、ツヌガ地名と結び付けられてツヌガアラヒトという人物が作り上げられたと考えられています。
ヤマト国家が本格的に越(越国)に進出してきたのは6世紀後半と推測され、この頃、
敦賀の地はツヌガ国と呼ばれ、その首長が角鹿国造(つぬがのくにのみやつこ)になりました。それは角鹿直(つのがのあたい)という豪族です。
ツヌガ国も7世紀中頃、角鹿郡になり和銅6年(713)頃から敦賀郡と書かれるようになりました。
かっての国造角鹿直は敦賀郡の郡司となり、その後も地域の首長としての地位を保持しました。
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