天狗党の足跡(越前編5)



6 宅良郷(南条郡今庄町)から今庄宿(今庄町)

 
(1) 大坂(宅良坂)越え

 池田郷東俣村から約4km先の宅良郷杣木俣村へは、標高565mの大坂
(宅良坂)を越えなければなりません。

 当時、この峠は大野、池田からのお伊勢参りや本願寺詣での近道で、よく利用されました。

 また、戦国期には今庄町側の杣木俣と杉谷は池田郷に属しており、この峠は頻繁に利用されました。

 しかし現在、主要地方道今庄池田線の名はついていますが、池田、今庄両町側の峠下が自動車通行不能であり、実態は両側とも行き止まりの過疎地になっております。



東俣から大坂越え(池田町)
杣木俣から大坂越え(今庄町)


(2) 宅良郷(南条郡今庄町)について

 日野川の支流,田倉川流域一帯の東西に長く続く谷を、昔から「宅良」または「宅良谷」と称しました。

 この宅良には上から杣木俣、杉谷、瀬戸、小倉谷、上温谷、古木、馬上免、長沢、久喜、社谷、八乙女、燧の12村がありました。

 江戸期、宅良郷の村々は三河西尾藩領、幕府領、小浜藩領と入り組んでいましたが、明治22年
(1889)久喜村から奥の11か村で宅良村が成立しました。

 社谷、八乙女、燧の3村は湯尾村に合併しましたが、昭和30年
(1955)に宅良村、湯尾村ともに今庄町に合併しました。



 (3) 天狗党、大坂(宅良坂)を越え宅良郷へ

 12月9日、池田郷東俣村を出発した天狗党は、雪の中、大坂
(宅良坂)を越えて宅良郷へ入ってきました。

 峠を下って最初の村が20戸ほどの杣木俣村ですが、この村を右に見ながら南へ谷道を1qほど下りますと杉谷村へ通じる道と合流しました。

 さらに山麓を回って進みますと谷出川と芋ヶ平川の合流した辺りに幕府領瀬戸村がありました。川は合流後、田倉川と変え西へ流れていました。

 この一帯は、南北側に4〜500m級の山々が近く、その奥には6〜700m級の山々が重なり合う地域です。

  天狗党は田倉川沿いに北側の山際を進み、小倉谷村、上温谷村を過ぎ、途中で田倉川左岸へ渡河し、宅良郷で最大集落
(戸数約90戸)の幕府領古木村へと入っていきました。

 さらに三河西尾藩領の馬上免村、長沢村、幕府領の久喜村、小浜藩領の社谷村を通り過ぎ、田倉川と日野川が合流した辺りにある三河西尾藩領燧村を通って、今庄宿へと進みました。



瀬戸の風景(今庄町)
燧方面を望む(今庄町)


(4) 宅良郷と関係諸藩の動き

 天狗党の前進を阻もうと加賀、福井、府中、それに彦根、桑名などの各藩兵は、峠の麓や宅良郷に布陣していましたが、どうしたことか天狗党の通過を易々と許してしまいました。

 天狗党の自滅を待つためか。各藩の戦意が欠けていたのか。その理由は定かでありません。

 単に天狗党を包囲した陣形を維持しつつ、天狗党が前進すれば包囲の輪も、ともに移動し続けたのです。



(5) 今庄宿(南条郡今庄町)について

 今庄宿は、日野川の上流域に位置し、山中峠、木の芽峠、栃の木峠への道が当地で合流し、昔から軍事、交通の要地として栄えてきました。

 また山岳地帯のため、冬は豪雪地として有名でした。この今庄が宿場として形成され始めたのは、中世に入ってからです。

 天正3年
(1573)頃、赤座吉家が居館を移してから町並みが発達してきましたが、慶長5年(1600)西軍に組した吉家追放後は、

 その翌年入国した結城秀康の街道整備により、北国街道
(北陸街道)の宿駅として発展しました。

 幕末には戸数390戸ほど人口1,700人ほどが住んでいました。明治18年
(1885)春日随道が開通すると

 木の芽峠越えの西近江路、栃の木峠越えの東近江路は、急にさびれて宿駅の機能が失われました。


京藤家外観(今庄町)
京藤家座敷(今庄町)


(6) 天狗党、無人の今庄宿に到着

 12月9日夜、天狗党は燧村から日野川沿いを南へ遡り、小鶴目谷の坂を越えて今庄宿の南口の大鶴目橋から

 宿場へと、つぎつぎ入ってきました。その頃、住民は宿場外へ全員避難し無人になっていました。

 この日、天狗党は本陣を宿場のほぼ中央に位置した後藤覚左衛門方に置きました。そして、

 宿場入口に防塁を築き、砲を据え、宿場の所々に篝火を焚いて隊員が警備配置につきました。

 天狗党が今庄宿に着く前日の12月8日、この宿場に加賀藩兵700人ほどが入ってきて各旅籠屋に分宿し、北の入口の小鶴目に陣を構えていましたが、

 福井藩からの緊急連絡を受け、翌12月9日朝、北国路
(北陸街道)を塞ぐため今庄から北へ10kmほどの脇本宿(南条町)へ移動していました。

 宿場では、すでに天狗党が宅良方面から今庄へ向かっているとの情報が入っており、

 天狗党が進入してくれば家は焼き払われ、この付近で天狗党と加賀藩兵との戦が始まると専らの噂でした。

 また、宿場の組頭の名で触れが回り、各家は男一人だけを残し、他の者は二日分の握り飯を用意し、

 持てるだけの衣類を持って雪の山に隠れるようにと細かい指示と心構えが出ておりました。

 そんなわけで宿場の住民は一人残らず避難して無人となっていたのです。 翌12月10日、今庄宿はすっぽりと雪に包まれ、天狗党はこの日、宿場で一日を送りました。

 朝から、後続隊が次々と今庄へ入ってきて約1,000人の軍団が今庄宿に集結したのは、夕刻近くになっていました。


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