天狗党の足跡(越前編4)



5 池田郷について

 足羽川の上流域とその支流の部子川、水海川、魚見川流域一帯を昔から「池田」と呼んでいました。

 江戸時代に入り池田郷は、初め福井藩領に属しましたが、その後、幕府領と鯖江藩領に二分され幕末を迎えました。

 すなわち下池田と上池田ですが、下池田は、主として足羽川の支流、部子川流域一帯を領域とした13の村々で、ほとんど幕府領に属しました。

 上池田は、主として足羽川の上流域とその支流の水海川、魚見川等の流域一帯をを領域とした34の村々で、享保5年
(1720)から鯖江藩領に属しました。


 
(1) 天狗党、宝慶寺峠を越え下池田郷へ

 12月7日、宝慶寺峠を越えた天狗党は、峠下を源流とする稗田川に沿って、狭い雪の谷道を下っていきました。

 途中、東青村、稗田村を通り過ぎ、約4q下った稗田川が左手から流れてきた籠掛川と合流し、

 部子川と名を変えた辺りから谷間が広がり、川の両岸に50戸程散在する大本村に着きました。

 この日、天狗党は大本村の山本仁助方を本陣に定め、先発隊は、さらに3kmほど下った部子川中流域に位置した40戸ほどの千代谷村に宿営しました。

 池田郷の住民達は、はじめ天狗党を恐れて、婦女子は山奥に避難しましたが、規律正しく行動する姿を見て安心し、浪士達を歓待したと言われます。



大本風景(池田町)
千代谷風景(池田町)


(2) 池田郷における関係諸藩の動き


 天狗党が宿営した千代谷村から約2km下った松ヶ谷村付近には、越前鯖江藩が藩内への進入を阻止するため、

 逆茂木や竹矢来を組んで雪道を封鎖し、砲を構えて警戒していたほか、池田郷内の中心にある村々に約300の藩兵を出動させていました。


 
警戒する鯖江藩兵の後方約4kmには加賀藩兵、その背後にある福井、大野へと向かう分岐点付近には越前大野、勝山両藩兵が布陣し、天狗党の行動範囲を狭めつつありました。



(3) 天狗党、進路変更

 12月8日、進路を阻止されていることを察知した天狗党は、関係諸藩との衝突を避けて、千代谷村から金見谷を通り、雪の杉峠へと進みました。

 標高約500mの杉峠を越えると雪道は谷口村へと通じておりました。6kmほど進みますと、水海川と魚見川が合流して足羽川となる辺りに60戸ほどの谷口村がありました。

 天狗党の先発隊は、更に7〜8km先の東俣村まで進んで、本陣をこの村の大庄屋 飯田彦治兵衛方に置きました。ここに武田耕雲斎ほか100名が泊まりました。

 この日、天狗党は上池田郷の細長く続く街道筋に点在した13の村々に分宿しました。分宿状況は次のとおりです。

 東俣333人、新保16人、西角間79人、東角間37人、定方41人、上荒谷5人、市3人、寺島22人、稲荷4人、薮田53人、広瀬4人、谷口340人、金見谷25人の合計962人が分宿しました。



大本の民家(池田町)
金見谷入口風景(池田町)


(4) 池田郷でのエピソード

 ア 善徳寺の水戸浪士生墓

 上池田郷谷口村が浪士の宿泊数が最も多く、藤田小四郎ら340人が宿営しました。この村に善徳寺という寺があり、浪士30人と馬5頭が止宿しました。

  翌12月9日出発にあたり、この寺に泊まった浪士のうち、石上庄兵衛
(28才)と篠田利助(19才)の二人は、住職の観意和尚の前に出て

 「二人はいずれ近いうちに死ぬ身である。その時は観意和尚に引導を渡してもらいたいが、それもできまいから、二人の髻を切って持参した。

 これを遺骸代わりに墓を建て供養していただきたい。」と二人は揃って深々と頭を下げました。そして紙に包んだ髻を老僧に差し出しました。

 その髻の二本は、現在寺に残され、墓は「生墓」として善徳寺の裏山に建てられています。



谷口の善徳寺(池田町)
善徳寺裏山の水戸浪士生墓


 イ 東俣村の本陣飯田家における歓待

 東俣村における浪士の宿泊数は、谷口村に次いで多く333人でした。そのうち武田耕雲斎ら100人が、大庄屋 飯田彦治兵衛方を本陣として泊まりました。

 この時、飯田家では丁重に歓待し、翌12月9日、下男、作男を大坂越えの案内に立たせました。武田耕雲斎は深謝し、同家に馬1頭、槍1振を贈り、立ち去ったといわれます。

 後日、武田耕雲斎らが捕縛されたことを知った飯田彦治兵衛は、敦賀まで出向き、獄中の武田耕雲斎を慰問しました。

 喜んだ武田耕雲斎は暗いにしん倉の中、紙縒りで編んだ印籠をお礼に彦治兵衛に贈ったそうです。


東俣の飯田家本陣(池田町)
東俣の飯田家本陣(池田町)


(5) 府中藩(福井藩支藩・本多藩)などの動き

 12月7日、天狗党が池田郷を進んでいた頃、府中藩では池田から府中
(現在の武生市)へ通じる魚見峠に約400の兵を出して、柵や逆茂木などを組み、峠を封鎖するのに必死でした。

 天狗党がこの峠へ向かえば、府中
(武生市)への通過は必定で、この頃、府中内では流言飛語が乱れ飛び、町中は大変な騒ぎだったと伝えられます。

 一方、大野、勝山両藩連合の約800人は、下池田郷の北口に藩兵を集結させつつありました。天狗党は前後左右を遠巻きながら関係諸藩に取り囲まれ包囲されておりました。



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