天狗党の足跡(越前編3)



4 越前大野藩と西谷郷

 (1) 越前大野藩について

 越前大野藩は、天正4年
(1576)織田信長の武将だった金森長近が初代藩主として入封後、

 天正7年
(1579)大野盆地の西の外れ海抜249mの通称「亀山」に、5年の歳月をかけて大野城を築き、城下を碁盤目状に整備して、その基礎を開いたところです。

 長近が飛騨高山へ移封されてからは、異なる領主が数代続き、天和2年
(1682)土井利房が

 常陸国
(茨城県)下妻から4万石で入封して以来、土井家が代々藩主として大野を治め、明治維新まで続きました。

 藩領は大野郡に大野町と77村、丹生郡に12村、足羽郡に1村ありました。当時の人口は約2万人でした。

 藩主が城下町の整備を進めたので、大野は越前と美濃を結ぶ要衝として栄えてきました。

 天狗党が大野藩領へ進入してきたとき、藩主土井利恒は江戸に在役中であったため、留守を預かる重臣達は、その対応に苦慮しました。

 藩では藩兵を召集し、各所に配置するとともに、天狗党が宿泊や食料調達ができないよう、道筋に当たる西谷郷の村々の民家を焼き払うことを決しました。


亀山の大野城遠景(大野市)
亀山の大野城(大野市)


(2) 西谷郷について


 西谷郷
(大野市西谷地区、旧西谷村)は中世以降「奥池田」と呼ばれ、越前国内でも有数の豪雪地帯で、

 1,000m級を越す山々に囲まれた谷あいを笹生川と雲川が流れて合流し、真名川と名を変え大野盆地へ続いている地域です。

 これらの川に沿った谷あい筋に幕末の頃、11村ありました。 そのうち笹生川に沿った上秋生、

 下秋生、本戸、小沢、黒当戸、中島、上笹又、下笹又の8村は、越前大野藩領でした。

 当時、住民は農林業に従事する傍ら養蚕、紙漉きのほか上秋生村にあった大野藩経営の中天井鉱山の坑内作業や下秋生村にあった精錬所で働き、生計を立てておりました。

 天狗党勢が蝿帽子峠を越えて西谷郷へ入ってくることを知った住民たちは、びっくりしてその大半は、更に山奥の炭焼き小屋などに避難しました。



(3) 西谷郷内の天狗党足跡

 12月4日夕方、美濃大河原村を出発した天狗党の第一陣は、蝿帽子峠を越えると、蝿帽子川に沿って

 松明を頼りに雪の谷道を下り、やがて東から西へと流れる笹生川に合流した辺りの下秋生村
(約20戸)に着きました。

 夜半11時頃だったといいますから、出発から約7時間かかったことになります。村に着きますと、

 残っていた30人位の村人が応対しました。総大将の武田耕雲斎は、下秋生村の石田五郎左衛門方に落着きました。

 下秋生村から東に約2km離れた笹生川の最上流部右岸沿いに上秋生村
(約30戸)があって、その夜、天狗党はこの2村に分宿して一夜を明かしました。

 12月5日 天狗党は午後4時ごろ、下秋生村から本戸村方面へ出発しました。雪はこの日、夜明けごろから降り始め、やがて激しく降ってきました。

 狭い雪道を約6km進んだ本戸村に着きますと10戸ほどの民家が、すべて焼き払われておりました。 

 更に約4km進んだ黒当戸村の民家20戸も、更に約2km進んだ中島村90戸ほども、すべて灰塵となっていました。

 この日、天狗党の本隊は、ここで進軍を止めました。そして、本陣を中島村の焼け残った林 又蔵方の土蔵に置きました。

 天狗党は吹雪に悩まされながら、焼けた中島村から黒当戸村にかけて野営したのです。


中島村跡地(大野市麻名姫湖青少年旅行村)
本戸村方面を望む(大野市笹生川ダム風景)


 12月5日 天狗党が上、下秋生の2村を立去った後、上秋生村5戸、下秋生村20戸の民家が大野藩兵により焼かれました。

 大野藩兵が上、下秋生村に着くよりも、天狗党の方が両村に早く着いたため、事前に焼き払うことができず、天狗党が立去った後に藩兵が焼き払ったものでした。

 このように大野藩は西谷郷の村々合計210戸余りを焼き払って、天狗党の進路を妨害しました。この行為は西谷郷の村人達に、後々まで大野藩に対する恨みとなって残りました。

 12月6日 中島村などに野営した天狗党は、吹雪の中を大野町方面へと出発しました。途中、進路上には、

 切り倒した木を横たえ逆茂木を構えたり、橋を切り落とし遮ったりして通行妨害してあるのを除きながら通過して行きました。

 こうして中島村から下笹又村
(27戸)、上笹又村(34戸)へ着きましたが、両村とも焼き払われた後でした。

 天狗党は更に進軍を続け、下笹又村から笹又峠を越え、木本領家村へと向かいました。



下笹又から笹又峠方面を望む(大野市)
木本領家から笹又峠方面を望む(大野市)


(4) 笹又峠越え


 笹又峠は、下笹又村と木本領家村とを結ぶ標高792mの峠ですが、今では峠を往来する人もなく、その名も地図から消えております。

 現在は、国道157号が大野市堀兼方面から岐阜県境の温見峠へと通じており、この峠の役目はなくなりましたが、

 明治までは、美濃方面から秋生谷を通り、中島村を経由して笹又峠を越え、木本村、大野町へと通じる交通の要地として利用されました。

 天狗党が笹又峠にきますと、付近には柵が築かれ、篝火の焚かれた跡があり、それが放置されたまま大野藩兵らの姿は見当たりませんでした。

 先程まで大野藩・勝山藩連合の兵が、ここで警戒していたのですが、昨夜来の猛吹雪で大野城下へ後退した後でした。 天狗党は、猛吹雪の中を峠を越えて狭い雪道を木本領家村へと進みました。




(5) 現在の西谷地区(大野市)

 大野市西谷地区の様子について触れてみたいと思います。現在、この付近一帯は山以外に往時の面影は何も残っておりません。

 地図で見ますと福井県大野市の南方に位置した真名川の上流と、その支流になる笹生川と雲川に沿った辺りを指します。

 当時、これらの川に沿って村々が散在し、幕末の頃は11村ありました。その中心が90戸ほどあった

 中島村で、一番大きな村でした。明治22年
(1889)西谷村が発足し11村が大字となりました。

 昭和32年
(1957)笹生川ダムが完成し、上秋生、下秋生、小沢、本戸地区は湖底に沈み、その名が消えました。

 黒当戸、中島、上笹又、下笹又地区は、昭和40年
(1965)9月、西谷村一帯を襲った集中豪雨と土砂崩れなどにより、

 壊滅状態の被害を受け、その後、真名川ダム建設により廃村を余儀なくされて、昭和45年
(1970)7月、大野市に編入されました。

 現在、西谷村の中心だった中島村は、真名姫湖青少年旅行村として芝生広場やキャンプ場が整備されています。その周囲を国道157号や県道大谷秋生大野線が通っています。

 天狗党が通過した上笹又、下笹又は離村後、完成した真名川ダムの湖底に沈み、今は青々とした湖水が周囲の山々を映し出しております。



真名川ダムと周辺の山々(大野市)
麻那姫湖周辺(大野市)


(6) 天狗党の木本領家村到着と大野藩の対応

 木本領家村は、大野盆地の南端、清滝川の中流域に位置した50戸余りの村で、村人は農業を中心に漆、繭、楮などを生産して暮らしていました。

 初め福井藩領で享保5年
(1720)から鯖江藩領、文久2年(1862)からは幕府領になっていました。

 12月6日夜、天狗党は木本領家村に到着、村の入口には、村人が出迎えておりました。その夜、大庄屋、杉本弥三右衛門方に本陣を置き、浪士達は全戸に分宿しました。

 この村に着くまで、ろくに泊まる家もなく野宿のように進んできたので、久しぶりに温かくもてなされ、

 村を去るとき天狗党は、宿賃まで払っていったといわれます。だから、この村では、天狗党のことを悪く言う人はいませんでした。

 その夜、天狗党は今後の進路について話し合いました。1つは大野城下を通過し、九頭竜川沿いの勝山街道から

 福井城下を目指すコース
(現在の国道416号)、もう1つは大野城下を通過し、美濃街道から福井城下を目指すコース(現在の国道158号)でした。

 その頃、大野藩では城下へ退いた藩兵が、雪の中、町外れに大筒を据え、天狗党が城下町へ進出してきたら、

 町屋に放火する準備も整えて、大野城の大手門から本丸にかけ、雪の亀山全体を被うように兵を配置し、350箇所に篝火をかかげていました。

 城下町は大騒ぎで、家中の家族は一人残らず近在に立ち退き、町民達も家財道具を運ぶなど避難の真っ最中でした。

 藩主不在の城中には、重役達が集まり、悲壮な面持ちで対策を協議しておりました。藩兵が少ないうえ、非力では、到底、天狗党に対抗する力はありません。

 そのため、応戦することもせず引き下がり、城に入って各門を閉ざし、城を枕に討死の覚悟をしていました。

 さりとて、幕府から天狗党追討命令を受けている大野藩としては、戦火を避けるため直接、天狗党に「城下を避けて通過してくれ」と懇願することもできません。

もしそんなことをすれば戦を恐れるあまりの行為として、幕府から厳しく責任を追及されて処罰されることになります。

 そこで、このような責任を回避するために胆力のすわった町年寄の布川源兵衛を交渉役に立て、源兵衛の個人的な申し入れにさせようと考えました。

 こうして、町年寄布川源兵衛は大野藩から密名を受けて、天狗党本陣のある木本領家村へ向かったわけです。

 天狗党の幹部が、本陣で今後の進路について協議しているところへ、町年寄の布川源兵衛が嘆願に訪れました。

 嘆願の要旨は「大野城下には入らず、木本領家村から宝慶寺峠を越えて、池田郷から今庄宿への道が京都への最短距離なので、この道を通って欲しい」というものでした。

 しかし、この道は雪の厳寒時、獣も通れそうにない山道でしたが、源兵衛は、それを承知で「応分の献金と道案内もつける」と言って懸命に説きました。

 そこで天狗党は最初4万両を要求しました。そんな大金を源兵衛の一存で決められませんでした。

 そこで、雪の夜道を2回ほど大野城へ籠で往復し、結局2万6千両で手を打ったといわれます。

 この布川源兵衛の活躍により大野藩は天狗党との一戦を避け、城下町を焼かずに済みました。


木本領家遠景と山々(大野市)
木本領家から宝慶寺峠方面(大野市)


(7) 木本領家村から宝慶寺峠越え


 12月7日午前10時頃、天狗党は道先案内人5人を先導させて、木本領家村を出発しました。当日、天気は晴れていましたが、積雪は5尺
(1.5m)ほどあったようです。

 間道は清滝川に沿って宝慶寺村へと緩やかに上り坂になっていました。途中、60戸ほどの宝慶寺村で小休止した後、峠へと向かいました。

 宝慶寺峠は、宝慶寺村
(大野市宝慶寺)の西方、池田郷(今立郡池田町)との境にある標高約640mの峠で、その名は峠下にある宝慶寺に由来します。

 江戸時代、幕府の巡検使が通行したことから巡検坂とも呼ばれ、池田谷と大野城下を結ぶ間道として利用されました。

 天狗党はこの峠を西へと進んでいきました。現在は宝慶寺峠から西へ流れる部子川の支流、稗田川の谷に沿って主要地方道松ヶ谷・宝慶寺・大野線が通っています。

 峠付近は昭和45年
(1970)陸上自衛隊により改修されて以来、大野市側は幅員も広げられ、

 舗装もされて良くなりましたが、池田町側は、今も幅員が狭いうえ、曲折も多く冬季は通行禁止となる難所です。



宝慶寺山門(大野市)
江戸時代の宝慶寺村民家


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